03 女らしきもの
それは、毛皮のようでもあり、粗く編まれた袋のようでもあった。
とにかく汚れていた。黒ずみ、茶ばみ、ぼろぼろだった。
しかし生きていた。動いていた。
「てっ、てめえっ!」
唯一残った盗賊がわめいた。
それを、人だと判別したようだ。
「投げたのもてめえか! どこにいやがった! 何のつもりだ! 殺すぞ!」
盗賊は、それを敵と認識した。
リージェは、認識しなかった。
味方だと思ったわけではない。判断など一切できなかった。まだ思考が麻痺したまま。
それでも体が動いた。
惨劇の日以来、一日たりとも欠かさずに思い続けてきたこと。
悪鬼どもを、殺さなければ。
恐怖を、殺人の衝撃を上回る、憎しみ。
必ず、こいつらを、倒さなきゃ。
リージェの目は自分の剣に向いた。倒れた盗賊の首から生えているような、血に濡れた柄。それをつかむ。引っ張る。
抜けて、新しい血が死体からあふれた。
「てめえ……!」
盗賊もリージェの動きに気づいた。
フレイルを荷台の謎のぼろぼろに叩きつけようとしていたが、急ぎ体をねじって向きを変える。
鎖でつないだ先端部分を振り回すフレイルという武器の特性上、急に攻撃方向を変えても、肝心の先端部分がその動きについてこない。
つまり、隙ができる。
リージェは突っこんだ。修行した剣技を発揮する余裕などない。先ほどと同じく、体ごとぶつかっていくだけだ。
「やっ!」
気合いを入れ大声を上げて突っこんださっきの失敗を繰り返すことはしない。短く、一声だけ。
気力のすべてを手と脚にこめて――。
ガツッ。
剣先は、固い感触に阻まれた。
相手の胸当て。分厚い胸板を覆う革鎧の、急所を守る部分にだけ金属が使われていた。そこを貫くことはさすがにできなかった。
しかし突進を受けた相手がぐらついた。
二度目の刺突は、避けられて、相手の片耳を削ぎ落とした。
「クソがっ!」
相手のフレイルが振り回された。体勢が崩れていてもその技術は本物で、先端がうなりを上げて襲ってきた。リージェの顔面を突風が吹きすぎ、棘がかすめた血の筋が頬に浮かんだ。
どちらも一撃を当てられず、飛び離れて、得物をかまえて向かい合う形になった。
「フゥッ、フッ、フッ、フゥッ、フゥッ……!」
リージェの息があがった。数回突進し剣を突き出しただけなのに、一日中剣を振るっていた時以上に体が重たく、心臓も異常に高鳴っている。噴き出る汗が止まらない。
盗賊はすさまじい顔つきだ。数を恃んでいたのが自分一人になり焦ってはいるものの、やはり踏んできた場数が違う。フレイルを握り直す手つきにも構えにも揺るぎはない。
血の臭いの中、二人はにらみ合う。
御者台の行商人は、身を縮めて動かない。老人ひとりで何ができるはずもなかった。
「ガキが……!」
「殺す……みんなの仇……お前ら、みんな、殺してやる!」
リージェは言葉を絞り出して、今一度死力をみなぎらせようとした。
でなければ勝てない。仲間はあっという間にやられてしまった。力量は相手の方が上。
――そこへ、もそっと、音がした。
荷台で、あのぼろぼろが動いたのだった。
リージェは意識したが目を向けない。
だが盗賊の方が動いた。仲間を倒した相手なのだから当然だ。
「てめえも! やるか! やるなら来やがれ! ぶっ殺す!」
リージェは踏みこんだ。
盗賊が後退した。視線がリージェとぼろぼろを往復する。凶悪な面構えに焦りが浮かぶ。
「ん~~~~」
間延びした、変な音がした。
それが人の声だと理解するまでしばらくかかった。
声は、ぼろぼろから発せられた。
「…………まだ、やってるのか……?」
低くかすれた、けだるげな声。
リージェはまったくの不意打ちで、脳髄を内側からなでられたように感じた。官能的なしびれが背筋をはしり、鳥肌が立った。
女の声だった。
「あ~~~ふぅ」
寝ぼけたような、気の抜けた声が、また。
それはどう聞いても、あくびだった。
しかし――顔はぼろ布の中にあるのだろうが、周囲が見えているのなら、血みどろの状況がわからないわけないし、そもそも人間の危機感を最大限に煽る鮮血の臭気が濃厚に漂っているというのに、それはどういうことか。
考えるより先に、リージェは怒鳴っていた。
「動くな! 危ない! 隠れていろ!」
女性とわかれば、守る以外にない。
母や妹たちの最期が脳裏によみがえった。
全身にまた熱いものがみなぎった。
逆に相手は、顔を引きつらせ汗を浮かべた。
「女……!? こいつの仲間か……!?」
仲間が一人倒され、一人邪魔をされてリージェに斬られたことと結びつけて、当然の結論に達した。
「そこの少年……」
ぼろぼろが、やはり力の入っていない、低いかすれた声で言った。
「早くやれ」
「……え?」
「見たところ……お前の方が強い……」
「え……」
ぬっ、とぼろぼろの中から黒いものが出てきた。
腕……かと思ったら、土まみれの細長い野菜だった。
それが盗賊を差し示した。
「あれは、元は強かったようだが、よく食い、よく寝て、よく飲んで、よく犯し、鍛えてなく、なまっている」
のろのろ言うと、野菜が次に、リージェに向いた。
「お前は、よく鍛えていて、体も大きい。慣れてないから、相手が強く見えているだけで、まともにやれば、お前の勝ちだ。行け」
「!」
何者かわからない。だが女の声に背中を突き飛ばされたように、リージェは弾け、突進した。
剣を握る手に、焼けるような熱波をおぼえる。全身に広がる。恐怖のみなもとだった血の臭いも今や燃料と化し、リージェは炎のかたまりとなって突進した。
「このっ……!」
相手もフレイルを構えた。
その体が小さく見えた。
実際、リージェより背が低かった。腕は太いが脂肪が多く、腹は革鎧からはみ出ていた。構えも隙だらけだった。どうしてあんなに恐ろしく見えていたのだろう。
「ぶっ殺して――!」
全て言い切る前に、リージェの刃がひらめき、フレイルを握る手指がフレイルごと切断された。
「あひゃああああ!」
絶叫し身をひるがえし逃げ出す、その背中にリージェは剣を振り下ろし、一撃で脳天を割って絶命させた。
「………………あ……」
相手がただの肉塊に成り果てると、リージェの全身から力が抜けた。
剣が手から落ち、拾おうとして、膝が笑い、へたりこんだ。
あれほど憎んでいたやつらの一人を、真っ向から討ち果たしたというのに、勝利の快感はなかった。
また殺した、二人目だと思っただけだ。
何とか身を起こす。剣を拾い直し、血を相手の服でぬぐう。
「まだ、終わってないぞ……」
けだるい女の声がした。
「眠らせただけだ。あと二人」
誰のことを言っているのかはすぐにわかった。荷台をのぞきこんで崩れ落ちた盗賊と、荷台の中にいるだろう四人目。
四人いた盗賊たちのうち、一番強いのが、その崩れ落ちた男だろう。
襲撃の対象になるのはわかっていた上で姿を見せて悠然としていた腹の据わりよう、飛礫の技や仲間をたやすく刺した手つきから見ても、実力者だ。
それが、眠っているというのなら……。
捕縛しても、仲間がみなやられた以上、自分ひとりで縛った人間を隠れ家へ連行することなどとてもできないし、連行したところで何の意味もない。ゲール一味のことは外からの偵察で十分にわかっているし、手練れに自分たちの隠れ家の場所を教え、滞在させる方がよほど危険だ。
逃がすなど論外。仲間に連絡し人数を集め、隠れ家まで徹底的に追跡してくるだろう。
つまり……この場で殺すしかない。
そういうやりとりに身を投じたのだと、リージェは今更ながらに実感した。
これが、戦うということ。
復讐とは、これをやるということ。
「無理か?」
「いや、やる」
血を流し倒れている仲間の姿が、リージェから迷いを消し去った。
自分と同じように家族を殺され家を焼かれ全てを失い、そして復讐を遂げることもできないまま斃れてしまった彼らのためにも、盗賊どもを見逃すことはできなかった。
リージェは眠っている盗賊の首に剣を突き立てた。
手に伝わる感触に、動揺することはもうなかった。
それから荷台に上った。
様々な犯罪者を取材してきたジャーナリストが書いた本で読んだのですが、
人を殺したことがある者は、それに触れたり思い出させたりすると、なんだか眠たそうな目つきになるそうです。