14 侵入
消防署の方から来ました。
身を隠すことも相手への警戒も憎しみも、何もかも忘れて足を動かす。
復讐の念に燃えながら鍛えに鍛えたはずの戦闘技術が、悪鬼どもにはまったく通用しないのを仲間の死と共に容赦なく思い知らされ、絶望をおぼえた。
そこに現れ、助けてくれて、悪鬼どもを片づけてゆく手を次々と教えてくれたぼろぼろ。
リージェにとっては、悪鬼に通用する唯一の武器も同然だった。
それが、向こう側に行くと言い出した衝撃は、巨大すぎた。
悪鬼を何人も退治し、自分でも斬れる、殺せる、あいつらに勝てるんだと自信を抱いていたのは、まったくの幻想だった。
全ては、彼女がいてくれたからだった。
その事実が、去ってゆく後ろ姿を見た瞬間、襲いかかってきた。
必死に踏む足下の地面が次から次へと崩れ、底なしの闇が口を開く。
情けないと自分の状態を自覚することもできず、リージェはひたすら馬の後を追った。
「待ってくれええええ! うそだろ!? ちがうだろ!? 頼む! 待って! お願いだ、待ってくれえええ!」
声を限りに叫びながら足を動かす。
やつらに見つかるという意識もない。あのぼろぼろに追いつきさえすれば何とかなる。頭にあるのはそれだけだ。
しかし、ぼろぼろを乗せた馬は、リージェの死に物狂いの走りを嘲笑うように、少しだけ速く前をゆき……。
畑の間を縫って、道に出ると、迷う様子なく『街』の門へと進んでいった。
「あああ! ああああああ!」
リージェはもう意味のある言葉をつむげない。叫びながら馬の尻尾を追うだけだ。
櫓の上に動きが起きる。人の声が飛ぶ。門の向こうの人影も動く。
どこからどう見ても怪しい人馬。その後ろを武器を持った男が情けない声をあげながら走ってくる。警戒しない方がおかしい。
また、これほど目立っていては、ニンシキソガイの効果も発揮されない。
「止まれ!」
声が飛び、馬の前、地面に斜めに矢が突き立った。解放軍が放つ素人矢とは別物の、正確にして強烈な矢勢だ。
老馬は感覚も鈍いのか、それでも止まらず――。
致命的な矢が放たれる前に、ぼろぼろが宙に飛んだ。
体重などないかのように、馬首を越えて、前方に着地する。
そこはもう門のすぐ近く。
でも、舞い降りたとか飛び降りたという、人間に使うべき表現とは似ても似つかぬ……そう、べちゃっと潰れたような落ち方だった。
あっけに取られたのか、矢は飛ばず、門向こうの『兵』も立ち尽くしたまま。
それをいいことに、フィンは門に歩み寄り――というかぼろ布の塊が、落っこちた状態のままずるずると移動し――門のすぐ近くに立った。
櫓の上の『騎士』が弓を放っても角度が悪く当てられない場所だ。
「と、止まれ! 誰だお前!? 何だ!? 何だよお前!?」
口の利き方などまったく教育されていない、この地の若者――ゲールの部下となった『兵』が金切り声をあげる。
正体不明のぼろぼろが、地を這うようにして近づいてきたのだから当然だ。
その後ろに、半年の間屋外で過ごし続け薄汚れた姿が、すごい形相で泣き声をあげながら死に物狂いで駆けてくる。これも人間かどうか疑う怪しさ。
主力が出払っているところへ現れた、わけのわからない相手。
『兵』は目を白黒させ、慌てふためく。
門を開閉する役でもある左右の『兵』ふたりの後ろから、慌てて飛び出してきた『騎士』がひとりいる。街の奥の方から『騎士』がもう一人、『兵』がふたり現れる。やぐらの上の二人を加えて、これが今、街にいるゲール一味の全員ということだろう。
「止まれ! 何だ! どこのどいつだ! どこにいた! 動くな! 刺すぞ!」
材木を組み合わせた、隙間だらけの門の向こうで槍を構える『兵』、その穂先は震えている。
――ぼろ布の中で、恐らくしゃがんで移動していたのだろうフィンが、誰何に応え……背を伸ばした。
謎の軟体生物が、突然、人となる。
その変化に、門向こうのみなが目を奪われた。
「赤目のゲールどのはおられるか!」
鋭く強い声が発せられた。
ぼろ布が、大きく跳ね上げられる。
その下から現れたのは、白い衣服をまとった、絶世の美女だった。
布地は波打つような光沢を帯び、襟元や縁には金色の刺繍が施されている。
下半身は男物のズボンだが、腰まわりはなめらかで、深紅にきらめく帯の巻かれたウェストは細く、それでいて胸の盛り上がりは見事の一言。
ぼろ布の動きと共にこれもかきあげられた、長い黒髪が宙を舞う。
ふわりと落ちるのを、手でまとめ、後ろへ流す――その仕草に誰もが目を奪われた。
「ブルンタークの英雄、知勇兼備、不敗の名将たるジシュカ・シャファーリク将軍より命を受けて参った! 貴殿らの傭兵契約に関して相談がある!」
きらきらした服をまとった美女が放つ涼やかな声が、男たちの耳を貫いた。
「な、なにっ!?」
「ブルンタークだと!?」
「ジシュカ!?」
この地の南にある国だ。解放軍が助けを求めようとしたし、ゲール一味の討伐に軍を動かしてもいる。
だが一方で、この世の常で、他の国との戦争も時々は発生しており……。
そういう時に、実力ある者を、たとえ罪人であっても招聘し軍の一員として雇用するのは、それほど珍しいことではなかった。
しかも使者を名乗る者の顔かたち、衣服の美しさは圧倒的だ。
「ブルンタークよりの使者である! 門を開けよ!」
重ねて言われると、この地を出たこともない田舎者の『兵』は、弾かれたように武器を捨て門柵を開き始めた。
「待てっ!」
さすがに『騎士』はそう単純な相手ではない。
フィンの美しさに飲まれてはいても、とても一国の使者が乗るものとは思えない老馬と、追いついてきて息を切らしてへたりこむ妙な男を見過ごすことはなかった。
「そいつは何だ!?」
「従者だ」
振り向きもせずフィンは言い、両腕を軽く上げ、体を見せつけた。
「まさか、豪勇無双と名高い『赤目のゲール』どのは、無手で訪れた一国の使者を追い返すような無体な真似はしないであろう!? ご覧の通り、武器は持っていない。よく見ていただいて構わない」
誘われ、男たちの視線が一斉にフィンの体を這う。
顔貌のみならず、その体も極上のもの。妖艶きわまりない肢体に、きらきらした白い衣服と長い黒髪のコントラスト。
フィンは、視線を巻き取るように、両腕を広げた姿勢で一回転した。
熟練の舞姫もかくやという優美な旋回。波打つ黒髪、優美な背中から見事な尻、ふともも、ふくらはぎ。
伏せていた目を、回転し終えると同時に上げて、自分を見つめる男たちの目を見つめ返し、微笑した。
これまで起きたのと同じことが、ここでも起きた。
気がつけば男たちの体の力は失われていて、気がつけば開かれた門に十分な隙間ができていて、気がつけば美女はするりと門柵の内側に入りこんでいた。
「お、おいっ! 行かせるな!」
さすがに美の魔力は届かず、櫓の上の『騎士』が銅鑼声を発した。
「待て、待てっ、止まれ!」
我にかえった地上の『騎士』が、得物の湾曲した片刀と丸盾を手に、立ち塞がった。
「お頭に伝えろ!」
怒鳴られた『兵』が、城館へ飛んでいく。
それほど距離があるわけでもない。走る後ろ姿はすぐ門に達し、叫び散らし、開けられた門内に吸いこまれていった。
そして、その場の誰もが注目する『大国からの使者』ことフィンは、まだ柵の外にいるリージェに声を投げかけた。
「何をしている。拾え」
悠然かつ高飛車な口調。
これまでの人生で最も激しい疾走をしたリージェは、大汗を垂れ流し喉をぜいぜい鳴らしている。顔は涙に汗に鼻水によだれ、少し胃液も漏らしてぐしゃぐしゃだ。
へたりこむその傍らに、ぼろ布があった。
リージェは手の甲で顔をぬぐうと、何も考えられないまま、母親の形見のようにそれをおそるおそる拾い上げ、捧げ持って門に近づいた。
……ニンシキソガイの布。
普通なら見とがめたであろう『騎士』は、残らずフィンに意識を奪われていた。それを持つリージェは、一切気にされることなく、開いたままの門の隙間から入りこんだ。
いや、フィンが通れた隙間も、リージェには通れなかった。体で門を押し、通れるだけ広げた。
それもまた、誰もとがめなかった。
リージェは、まだ何も考えられない。
嗚咽が止まらない。ひくっ、ひくっと横隔膜も痙攣し続けている。何をしていいかもわからない。災厄の日以来初めて『街』に入りこんだというのにまったく心が認識しない。
指示もなく、ただ美麗な姿の側に行って、そこで止まる。
フィンは『従者』の行為を当然のものとして、一瞥たりともくれることはない。その振る舞いは高貴な生まれの者の、まさにそれだ。
その間に……周囲の空気が、じわじわと、変化しつつあった。
家である。街を構成する建物である。
その内側の――押しこめられている大勢の『住人』たちが、異変を感じて、窓や隙間から様子をうかがっている。
遠目でもすぐにわかる、美しい女性。
仕草や『従者』への態度でそれとわかる、高貴な存在。
明らかな、外から来た者。
つまり――完全に閉ざされていたこの地に現れた、状況の変化を予感させるもの…………人はそれを、希望と呼ぶ。
「来たか」
城館の門が開き、男が現れた。
長身である。フィンほど漆黒ではないが黒い髪、黒い口ひげ。やや頬がこけているがよく整った、いかにも切れ者といった風貌だ。
そしてその体つきは、まさに鋼のようだった。
身にまとうのは急所のみ革を縫い付けた戦衣。襟元や裾に刺繍が入っており、まるで貴族のもののよう。しかし村人たちの一張羅を奪い取って着ている『騎士』たちとはまるで違い、板についている。それを身につけ幾度も戦場を駆けた経験が一目でうかがえた。
腰には剣を帯びている。漆黒に銀をちりばめた、反りのある長い鞘。ひとたびそれを振るえば、首がいくつ並んでいようともすべて一閃で切り落とすという。この地の領主はそれで首をはねられたという噂が解放軍の耳にも入っていた。
呼びに行った『兵』とは、見ただけでもわかるほどに格が違う。
凶悪な『騎士』たちすらも、この男に比べると子供も同然。
「クロイ……」
思わずリージェはつぶやいた。
遠目に見たことだけはあった。
首領ゲールの懐刀、副官にして参謀の、盗賊団No.2。
ゲールと並び討ち果たすべき相手の筆頭だったが、初めて間近に現れた本当に強い敵の気配は、とてつもないものだった。
強引な営業をかけたら相手の副社長が出てきました。




