13 女神の裏切り
スティーヴンスンの「宝島」が好きです。
孤島に作られた、丸木を並べた塀で囲んだ砦と、それを襲うシルバー一味。守る側は数人、襲う側もせいぜい三十人、でもどちらも死に物狂い。
リージェは匍匐前進で斜面の頂点に近づいていった。
額から汗が噴き出る。息が切れている。
背後では、仲間たちが気息奄々、へたりこんでいる。
ここまで尋常ならざる強行軍で到着した。フィンは言った通りにみなを急がせたのだ。
理由はわかる。盗賊どもは、森へ踏みこんで奥へ突き進んだとしても、途中で道をそれた解放軍の痕跡に気がついて、追ってくるかもしれない。今この瞬間に、背後からやつらが現れても不思議はないのだ。
しかし幸い、今のところ、それらしい気配はない。
斜面の上から、頭をあげないように気をつけてのぞきこむと、目的の場所が見えた。
『街』と、『城』。
この小さな国の中心だ。
『城』は、領主とその家族が住んでいたところ。
城といってもそう呼ばれているだけで、実際は『館』という方がふさわしい程度のものだ。
それでも、この地に三階建ての建築物は唯一である。
外部から人を招き、作ってもらった。なのでこの土地のどの建物より洗練されている。『国民』たちの憧れの場所だ。
そこが今では、悪鬼の頭目がひそむ、邪神殿と化している。
周囲は新しく作られた塀で厳重に囲まれ、さらにその外側を水路が取り巻いている。強力な飛び道具、資材、攻城兵器のたぐいを備えた何百人もの軍勢を動員しなければ突破は不可能だ。
唯一の出入り口である正面の門も、かつては領民誰にでも開かれていたものが、無骨な補強がなされて固く閉じられている。
その門から、ゆるやかな斜面を下ると、『街』が始まる。
かつては、家はもちろん倉庫や店や工房など百にも達する建物が建ち並び、鍛冶屋や道具職人や薬種商など村にはいない職種の者も居を構えている、リージェが知る範囲では最も人が多く住んでいる憧れの場所だった。
リージェの両親は祭の時に街の広場で思いを伝え合い、結ばれたのだという。
それを聞いたリージェも、いつかはあの子と……と夢想したものだ。
今は、建物の半分がなくなっている。
住民も、根こそぎ入れ替えられている。
もう誰も、元の家に住んでいる者はいない。
いい家はすべて『騎士』のもの。
次にましな家には、『騎士』に尻尾を振る『兵』などの従順な者たち、鍛冶や大工など何らかの技術を持った者。
それから、あちこちの村からかき集められたうち、『騎士』の目にかなった若い女性たち。もちろん『騎士』たちの共有財産であり、奉仕する役目を担わされている。
それ以外の住民は、『村』と同じように、新しく建てられた粗末な『住居』に押しこめられ、周辺の畑を耕し食料を『騎士』たちに捧げる農奴として扱われていた。
城館を囲む厳重な塀とは別に、『街』も、新しく作られた塀で囲まれていた。
先をとがらせた丸木をずらりと立ち並べたものだ。
密着はしておらず、それぞれの間には手が通るくらいの隙間が空いている。
人が通るのは無理で、また外から近づいたとしても隠れるということができない。これまで忍びこもうとした解放軍の仲間が何人も、隙間から矢や長槍で殺されていた。
つまるところ、城館へ入りこむには『街』を抜けねばならず。
『街』の出口もまた一ヶ所のみということだ。
『街』からの出口には、柵が開閉するかたちの門が設置されている。
もちろんこれも、以前にはなかったものだ。
また、門のすぐ横に、これも丸木を組み合わせた櫓が高くそびえている。
周辺に広がる畑や牧草地で働く『住民』たちを監視するためのものだ。
畑の作物は人間の命のやりとりとは関係なく豊かに実っており、収穫間近なのだが、今はそこにうごめく『住民』たちの姿はない。
監視者の人数が絶対的に足りなくなっていることの間接的な証明だった。
「上に……いるな」
遠目に、門の脇、監視櫓の上に小さな黒点がふたつ突き出ているのがわかった。
弓を持った『騎士』だろう。ふたり、櫓の上にいる。
同じくふたり、門の向こう側に立っている。これは『兵』のようだ。
それ以外の者の姿は、ここからは見当たらない。
もっと近づけばわかるのかもしれないが、隠れて街の様子を偵察できるような場所は、当然ながら盗賊どもが占領早々に潰している。
今いるなだらかな丘が、見つからずにすむ最も近い場所で、ここから街までは畑かあぜ道のみで、身を隠せる場所はない。
解放軍が街に近づく時は、夜にひとりかせいぜいふたり、作物や水路に身をひそめて罠を避けつつじわじわと、以外の方法はなかった。
盗賊どもがあの『村』へ我先に押しかけてしまっているのなら、今あの『街』にいる敵はせいぜい数人。リージェら24人で押しかければ倒せない数ではない。
しかし相手が高所にいて、手練の強弓を放ってくる――いやそれ以前に解放軍の襲撃を察知され警鐘を打ち鳴らされると厄介だ。
『街』の門を閉ざし城館に立てこもられている間に、野を渡る音で異変を察知した『騎士』たちが10騎でも駆け戻ってくれば解放軍は万事休す。
「あれをどうにかしないと……弓……いや、近寄らないと無理だな……」
解放軍の何人かは、弓の訓練は重ねている。
それでもやはり、森で手に入った素材でただの村人だった者たちが作った弓矢と、『騎士』が手にする熟練の武具職人に作らせたそれとは、威力に雲泥の差がある。
あの『村』でいい弓を手に入れてはいたが、慣れていないものを使っていきなり当てられると考えるほど甘い者は解放軍にはいない。
「壊したいな……」
リージェは小さく口にした。
櫓の柱には、赤茶けたものが打ちつけられている。
人骨だ。
かつての領主と、その家族。
領主は首だけ、その妻や子供たちは生きたまま、丸太の中程に釘で打ちつけ、その丸太で櫓を組んだ。
無残なしかばねは、絶命した後もそのまま残されていて、鳥や虫に散々食われた後の、乾いた血や肉が変色したものをこびりつけた大小の骸骨だけが残っている。
『街』の住人たちを恐怖で支配するためだったが、リージェたちにとっては憎悪の象徴だ。
ゲールを討つのと同じくらい、あの櫓を壊すというのは解放軍にとって重要な目標だった。
リージェは這ったまま後ずさりし、完全に体が隠れてから振り向いて皆のもとへ戻った。
隠れて監視していたつもりでもバレていた、昨日の失敗は繰り返してはならない。
最後の休止を取る仲間たちの呼吸は、徐々に整ってきていた。
次に動き出す時には、死闘が始まり、ゲールを討つかこちらが全滅するかまで止まることはない。
必殺の気迫が24人の頭上にゆらめいた。
もっとも、フィンだけは熱気とは無縁で、老馬を背もたれにして悠然と座りこんでいる。
『城』や『街』の図を地面に書かせ、この場所からどう近づくことができるのかを皆に尋ねていた。
顔は普通の布を巻いて隠している。それでも深い光を宿した瞳、神秘的な黒髪があらわれているだけでも美の化身であることは一目瞭然で、問われた者は知る限りの全てを我先に吐き出してゆく。
リージェも、偵察の結果を告げた。
「櫓の上に二人いる。それ以外はわからないけど、大人数がいる気配はない。街に人の姿はなく、煙も上がっていない。『城』の方も動きはない。
櫓の上の見張りと鐘をどうにかしないとならないけど、いい方法が思いつかない」
太陽は、この土地を囲む山々の、西の頂にさしかかりつつある。
まばゆい輝きが稜線に消えてもしばらくは、東側の山肌が夕光に輝いて明るさを与えてくれる。それが消えれば完全な闇が訪れる。
「暗くなるまで待つのが僕たちのいつものやり方だけど……時間をかけると危ないんだよな」
フィンはうなずいた。
背後から盗賊たちが追いついてきてもおかしくないし、それとは別に、野宿を嫌った『騎士』の一部が戻ってくるかもしれないのだ。
「じゃあ、鐘を打たれるのも弓で狙われるのも覚悟して、一気に突撃して……」
「少年」
静かだが、強い声で言われた。
「あ……」
その一言でリージェは思い出した。仲間の犠牲をできるだけ減らしてほしい。そう頼んだのは確かに自分だ。
しかし、手が思いつかないのも事実。
「じゃあどうするんだよ?」
「……ひとりずつ、順番に、私のところに来てください」
誘う声音で、フィンはそう言った。
リージェ以外、全員がたちまち一列に並んだ。
「動きを指示しますから、言った通りにしてください。何があっても、必ず、です。
それぞれ、違うことを言います。自分が言われたことを、他の人に教えてはいけません」
バラバラに行動させるつもりのようだ。
捕まっても他の仲間の動きを白状することのないようにという警戒もしている。
最初の一人が、美貌をあらわにしたフィンににじりよる。
「あなたの名前は?」
とろけるような声と微笑で、名前や元の村を聞いた後、招き寄せ――ろくに散髪も何もできずむさ苦しい顔貌など少しも気にしていない、いやむしろそれを愛おしむように……。
その耳に、唇を寄せて。
あごにも白い指を添え、頭を固定し……微細に、くすぐりながら……。
「あなたは、こうしてください。――」
他には聞き取れない小声で、何か言う。
言われた男は、全身を突っ張らせ、みるみる真っ赤になる。
言葉の内容とは関係なく、美女の甘い声を耳に、というだけで意識の全てがとろかされている。
唇が動き、単語がささやかれるたびに、びくん、びくんと痙攣する。
理性が漂白されたところへ、指示が深々と刻みこまれる。
もはや彼は、指示どおりにする以外の行為ができない、まさに操り人形だ。
女神から解放されると、もうそれまでと別人になって、仲間を振り向くこともなく、即座に地を這うようにして茂みの向こうに消えていった。
「次の人。あなたは、弓が使えるのですね。では……」
次の者が、また同じようにとろかされる。絶世の美女に、耳に唇を押しつけられ、甘い吐息、くすぐりと共に言葉を注ぎこまれて、陥落しない男はいない。
三人目も。
四人目も。
並んでいる者は、前の者が完全な人形にされるのを見ても、警戒したり忌避したりもせず、むしろ早く自分の番が来てくれと目の色を変え息を荒げて体を揺すった。
「…………」
リージェは、仲間たちが本当の傀儡にされてゆくのを慄然と見続けるしかできない。
フィンは、微笑を絶やさないまま、全員にささやく作業をやり遂げた。
「あなたは――――。
やってくれますね?」
「はいっ、やります、やるっ、必ず!」
リージェより年少の、声変わりすらまだ終わっていないような少年が、耳まで真っ赤にして、極上の美女の手に落ちた。
仲間が片端から堕ちていくのを見続けて、リージェの思考は完全に麻痺している。
大量斬首の処刑場に引いていかれる捕虜というのはこういう気分なのだろうかと、伝え聞いた大規模な戦場の話からぼんやり想像した。
気がつけば、リージェは最後の一人になっていた。
「では……ああ。お前か」
「僕で最後だ。指示を頼む……」
おかしな昂りに襲われ、まともにフィンを見られない。
自分は仲間のように言いなりの人形にはされないと思っているし、この美女が本当はめんどくさいが口癖のとんでもないなまけ者だということもわかっているのに、同じように顔に手を添えられた上で耳にささやかれたらどうなるのか、どういう感覚が襲ってくるのか、期待してしまっている自分がいる。
美人というのはこんなにも危険なのか。この狭い土地しか知らないリージェはその教訓を深く心に刻みこんだ。
「そう……………………か。やっと、最後か」
フィンは、仲間たちを魅了していた微笑を浮かべたまま――だったのが、いきなり、感情が消え、笑みが消え、頬も目尻も力を失ってだらしなくなった。
「……はぁ……疲れた。めんどくさい」
どろりとまぶたの落ちた、今にも眠りこんでしまいそうな、怜悧さのかけらもない表情になる。
それでもなお、美しいが……美しいからこそ、今度こそ本当に、見てはならないものを見てしまった感じを強烈におぼえる。
だがこれこそ、ぼろぼろの中でしていた顔、していた態度だ。
「………………あはっ」
リージェは、自分が笑っていることに気がついた。
「何がおかしい」
「いや…………安心した」
「変なやつだな」
リージェの笑みはさらに深くなった。
先ほどまでの妖しくも受け入れたくない感覚は霧消した。
「それで、僕は、何をすればいいんだ」
「ああ、それなんだが……」
「言ってくれ。どんな厳しいことでも、逃げないから」
「疲れた」
言うと、フィンは頭からぼろ布をかぶった。
リージェのよく知る姿になって、しかし白い手だけが外に伸びて。
「服をくれ」
「あ、ああ……」
ここまで持ってきた包みを差し出す。
色々思い出し、恥ずかしくて視線を逸らした。
外した視線を戻した時には、包みは消えていた。ぼろぼろの中に吸いこまれたのだろう。
もぞもぞ、内側で――多分ぼろ服を身につけているのだろう、動きながら言う。
「23人だぞ。23人分も、それぞれの得意武器や個性や適性を見て、行動を考え、指示を伝えなければならなかった」
愚痴っぽく言ったが、フィンが解放軍に合流したのは昨日だ。
全員の武器や戦い方や実際の技量を見たわけでもないはずだ。
「…………全員に、それを?」
「約束したからな。何とかなるよう、全員分、考えた。いっぱい、考えた」
「………………」
リージェは目をみはった。
半年、ずっと生死を共にしてきた自分でも、仲間達にそこまでのことができるとはとても思えない。
リージェの頼みを聞き入れて、そこまでしてくれた。
対する自分は何だ。思いつかないから、犠牲覚悟で真正面から力押し。情けない。
「何をすればいい」
リージェは恥じ入りつつ、今まで以上に覚悟を決めて、膝でにじり寄る。
だが、ぼろぼろの内側からは――。
「だから、疲れた」
ふて腐れたような、そんな声が流れ出てきた。
「これだけやったら、もう、約束は果たしたということでいいんじゃないだろうか。
これ以上はめんどくさい。
めんどくさい。
どう考えてもめんどくさい。
……もう、やめた」
「………………え?」
ぼろぼろが、立ち上がった。
膝立ちのリージェより上に、頭部だろう部分が来る。
そのまま、ふわりと、体の重みがないかのように移動した。
ほとんど水平に動いて、飛び上がり……老馬の上に。
「ここから先、隠れたまま、馬で近づく方法はない。
それなら、一緒に行くのはここまでだ。
私は向こうに行く。向こうの方が食事は美味そうで、寝床も良さそうだ。
お前は好きにしろ」
強行軍させていた老馬が、最後の手伝いとばかりにいななき、決して速くはないがそれなりの疾駆を始めた。
丘の斜面を回りこみ、向こう側へ。
櫓の上からも見えるだろう場所へ出て行く。
「え、え、え……!?」
取り残されたリージェは、呆然と立ち尽くした。
周囲に人は誰もおらず、馬蹄の響きが遠ざかっていって……。
「待て! 待って! ねえ、待って!!」
色々なこと全てが頭から吹っ飛んで、真っ白になって、馬の後を追いかけた。
ブラック企業の従業員がキレて職場放棄しました。
実は職場全体がその人のはたらきのおかげでかろうじて回っていたので、大変です。
リージェ社長はどうやって引き留めるか。
次回、ライバル社の有能社員があらわれてさらにピンチ。




