未完の……
また、この町に戻ってきてしまうとはな……。
もう、二度と戻るまいと思ってたのに。
あんな歌、聴いてしまったから。
あいつが好きだった歌――。
あいつと一緒に聴いてた歌――。
今更、なんで流れてくんだよ……。
コツ・コツ・コツ・コツ・コツ……
「その癖、なおっとらんなぁ竜坊は」
昔よく、通ってた居酒屋。
およそ十五年ぶりに帰ってきた俺を変わらず迎えてくれた。
相変わらず客足は悪く、閉店間際のこの時間、客は俺しかいない。
よく、潰れないでいてくれたものだ。
「ん?」
「そのカンウター、トントンする癖」
店主のオヤジは肴を作りながら懐かしそうに目を細めた。
このオヤジも、ほんとに十五年の時が流れたのかと疑いたくなるほど変わってない。
あの頃からオヤジだったからな。
「…………」
俺は苦笑いを浮かべて目を伏せグラスに残っていた日本酒を一気に呷る。
そして、さりげなくカウンターにおいた方の手を引っ込めた。
「ほらよ」
オヤジが肴を出してくれる。
「好きやったやろ?辛子高菜」
「あっうん」
目の前におかれた小皿の中の辛子高菜を見て、思わず口元が緩んでしまう。
今はわりと全国どこでも手に入るけど、この店のは――。
俺は箸でほんの少しだけそれを摘み口に運んだ。
「…………」
――辛い。
「どや?」
「……うまっ――」
ピリッと下を刺激する辛さが鼻を抜け、涙腺を刺激する。
二口目……。
「――ちかっぱうまかぁ……」
喜びと懐かしさに押さえることができなくなり、笑みと涙が同時にこぼれてしまう。
「ほら」
「ありがとう」
オヤジが日本酒の一升瓶を差し出してくれる。
グラスいっぱいに注いでもらい、日本酒をぐいっと口に流しこんだ。
「でも、ほんとよう帰ってきたな」
「…………」
「憶えとるか?竜坊はほんと無口やけ、そこに座ったアキちゃんがひっきりなしにしゃべりよったなぁ」
「もう、アキの話はいいっちゃ。あいつも結婚して幸せになっとうようやし」
「あん?アキちゃん結婚なんかしとらんよ」
「えっ!?」
俺は驚きのあまり持っていたグラスを落としてしまう。
グラスはカウンターの上を転がり、日本酒の水溜りができてしまった。
「あぁ〜あ、これで拭け」
「あっごめん」
おれはオヤジから渡された布巾でこぼした日本酒を拭いながら、
「でっでも、店に知らん男がおったばい?仲ようしとったし」
思わず口を滑らしてしまう。
アキの家は代々続く、老舗の和菓子屋である。
かっこわるい。
女々しく、昔の女を陰から見てきたことがばれてしまった。
「大吉のことか?あれはアキちゃんの弟やろうもん」
「はぁ、アキに弟とかおらんかったやろ?」
俺の記憶ではアキに弟なんぞいなかった。
少なくとも、あんな年の近い弟なんかいるはずがない。
「ああ、そやけ、遠い親戚たい。アキちゃんがいつまでも結婚せんけ、親父さん諦めて大吉を養子にしたんよ。たしか」
「そんな……俺はてっきり幸せになってくれたものと――」
俺は頭を抱える。
「なんで?」
「竜坊!!それはお前さんが、一番わかっとらないけんことやろうが!?」
オヤジの少しだけ怒気の孕んだ言葉が俺の頭上に浴びせられる。
俺はゆっくりと顔を上げ、オヤジの顔を見た。
「…………」
オヤジは優しげに笑っている。
昔からいっぱいだった皺をいっそう深めて。
コツ・コツ・コツ・コツ・コツ……
無意識のうちにいつもの癖が――。
「…………」
「アキちゃんな。町のみんなから噂されとるんぞ。あんな美人でもいきおくれることもある、とかなんとか――」
「うっ――」
「竜坊――いや、竜司っ!!」
「っ!?」
オヤジにはじめてちゃんと名前で呼ばれてドキッとなる。
オヤジはいつも俺を子供扱いして竜坊と呼んでいた。
「アキちゃんに会ってちゃんと話してき!!もう、責任の取り方くらいわかる年になったやろうが!?」
「――――っ!!」
コツ・コツ・コツ・コツ・コツ……
この癖が――。
俺は店を飛び出した。
『なんでなん?なんでそんなこと言うん?』
『今、言うたとおりやけ』
『私が創作活動の邪魔っちゅうこと?』
『ああ。お前とおったら、お前のことばっか考えてしまう。――夢……叶えられんくなるけ――』
『嘘やん。私の家のせいやろ?お父さんがなんか言ったんやろ?店、継げんのやったら別れてくれとか』
『関係ないっ!!』
『関係ないことなんかないっ!!私は竜ちゃんと――』
『もう、これ以上、俺のこと困らせんで……。俺は町をでる。お前はこの町で、結婚し……』
『馬鹿やん。あんたほんと馬鹿なんやけ』
「アキ……」
俺はアキの実家である店に全力で走った。
「アキっ!!」
「えっ!?」
アキはちょうど店の暖簾を外そうとして表に出ていた。
「…………」
アキがゆっくり俺の方に振り向く。
「竜……ちゃん……?」
アキが暖簾を地面に落とした。
暖簾の棒がカラカラと夜の静かなこの町の道に響く。
「なんでなん?」
俺はアキから十数メートル離れたところから言葉をぶつける。
これ以上、近づけない。
十五年間が……十五年の時間がこの距離を縮めてくれない。
いや、違う。これは十五年前、あの瞬間に出きた距離だ。
俺が突き放してできた。
「なんで?結婚しとらんのか!?」
罪悪感からかついついアキを責めてしまうような言葉が口から出てしまう。
いつも、そうだ。
ほんとは……ほんとは、アキのこと――。
なのに、いつも素直になれず、傷つけてしまう。
「俺は結婚しろっち――」
「私だって、結婚しようと思ったわよ!!」
「――――っ!!」
「結婚しようと思った。お見合いだってした。私を捨てたあんたのことなんか忘れようと必死になった」
「…………」
「でも、だめやったんよ。なにやってても、あんたのこと思い出す」
アキの頬を涙がぬらす。
それは同時に俺の頬もぬらした。
「朝、お味噌汁飲んだとき、あんたが毎日『もっと濃くしてくれ』って文句言っとたとか、
雨の日には、私がわざと傘忘れてあんたと同じ傘に入ろうとしとったこととか、
スクーターが通る音を聴くたびにあんたの背中を思い出す――」
「もう……いい……」
「どんな男と付き合っても、竜ちゃんとは違う。
竜ちゃんはこんなことせん……。
竜ちゃんはもっとさりげなくて、って――」
「もう……やめてくれ……」
「こんな気持ち抱えたまま、他の人と一緒になれるはずないやないの!!」
「ご……ごめ……――」
俺は――俺は――アキの一生を台無しにしてしまった……。
謝って許されることじゃない。
悔やんでも悔やみきれない。
どうしたら……いいんだ――。
「どうして、もっと早く迎えに来てくれなかったんよ!?」
「――――っ!?」
「私、こんなおばさんになったやないの!!」
アキは涙と鼻水で顔をぐしょぐしょにしながら叫んだ。
そして、俺の胸に飛び込んでくる。
俺が突き放した距離を――、
俺がずっと越えることのできなかった距離を――。
「アキ――」
「…………………」
トン――
「えっ!?」
――トン・トン・トン・トン……
アキが無言で俺の背中を人差し指で打つ。
これは――……。
「アキ……」
俺は――俺は――……。
俺はアキをぎゅっと強く抱き返した。
そうだ――、
俺は出会ったときからお前のことを――。
トン・トン・トン・トン・トン……
口下手で、どうしても口に出来なかった言葉。
それでも必死で伝えたくて、アキの好きだった歌を真似て贈り続けたサイン。
『竜坊、そのトントンする癖、なおしぃよ』
『…………』
『いいんよ、おじさん。私、竜ちゃんのこの癖好きやけん』
『…………』
アキ、確かにお前の言うとおり、俺もお前も年を取ってしまったな。
でも、俺はこれからもずっとお前を――。
トン・トン・トン・トン・トン……
ア・イ・シ・テ・ル――