9. 王妃は馬に飛び乗る
それから数日して、レグルスが呼んでいると言われ、侍女たちを引き連れて後宮を出る。
後宮を出るなんて久しぶりだわ、なんなのかしら。
と思っているうち。
嫌な考えが浮かんでしまった。
あの人を追い出す代わりに、私を追い出そうというの……?
いやいやいやいや、さすがにそれはない。
いくら弱小国といえど、マッティアとクラッセという二国の王族の結びつきだ。
セレンを追い出すなど、ありえない。
追い出さず、生殺しにするのが普通だ。
……いや。やめよう。こういう考えは。
ふるふると首を横に振って嫌な考えを打ち消そうとすると、疑問に思ったのか、シラーが話しかけてきた。
「いかがなさいました、王妃殿下。お加減でも……?」
「えっ、いいえ、そんなことはなくてよ」
慌てて両手を振って否定する。
「いったいなにかしら、と思って」
「それはお楽しみですわよ」
シラーはにっこりと笑ってそう言う。
ということは、彼女はなぜ呼び出されたのかを知っている。
さらに言えば、それは悪いことではない。
だったら大丈夫、不安に思うことはない。
セレンは急に足が軽くなったのを感じた。
後宮の門を抜け、王宮の中庭へ。
そこにレグルスがいて、こちらにひらひらと手を振った。
「まあ……まあ!」
そのレグルスの隣。重臣と思われる人たちや侍従たちが何人もいる中。
誇り高く首をもたげ、立っているのは。
馬だ!
「我が妃に、贈り物だよ」
セレンの表情に満足げに笑って、どこか得意そうにレグルスは言った。
馬だー! と大声をあげて大喜びで駆け寄りたいところ、なんとか我慢してしずしずとレグルスのそばに歩み寄る。
そして少し上目遣いで、にこにことしているレグルスに問うてみる。
「陛下がわたくしに、馬を?」
「そうだよ。気に入った?」
「ええ、とても! 嬉しい! ありがとうございます!」
声が弾むのは、どうしようもなかった。
はしたなかったかしら、と少し不安に思っていると、また腕が伸びてきてセレンの頭を抱えるように回してくる。
肩口に顔を押し付けるような形になって、ボンッと頭に血が集まるような感覚がする。
「おやおや」
「まあ」
重臣たちや侍女たちの声が聞こえる。少し笑っているような声音だ。
は、恥ずかしい。
抱き合っているわけではないけれど、接触していることには変わりない。
そしてそのまま体重を預けて身を委ねたいような気持よさが、なんだかまずい気がする。
「へ、陛下」
セレンは腕を上げて、自分の頭に回されたレグルスの腕を、ポンポンと叩いてみる。
どういう意図があってこんなことをしているのかはわからないけれど、いつまでもこんな体勢でいるのはいたたまれない。
「ああ、ごめんね」
そんな声が頭上からして、彼の腕が去っていく。
訪れるのは、解放感ではなく寂しさだった。
「そんなに喜んでもらえて、嬉しかったから」
そう言って、少年みたいな笑顔をこちらに向けてくる。
なんだか頬が熱くなってきた。耳まで真っ赤になっているに違いない。
恥ずかしい。今こそまた、腕を伸ばして顔を隠してもらいたい。
ちら、と辺りを見渡すと、重臣たちや年配の侍女たちは微笑んでいるが、年若い侍女の中には頬に両手をやって俯いている者もいる。
だ、抱き合っているように見えたのかしら。やっぱり恥ずかしい。
その恥ずかしさを打ち消すように、セレンはギクシャクとしながらも、足を動かした。
そしてその葦毛の馬に近づくと、その鼻筋を撫でた。するとブルルと嬉しそうに鼻を鳴らす。
見れば、すでに鞍も付けられている。
背後から、レグルスに声を掛けられた。
「いつも後宮では退屈だろうと思って。マッティアでは乗馬が盛んだろう? だからやっぱり馬が必要かと思ったんだ」
盛んというか、必要に迫られて乗っているという側面が強い。
馬に乗れないマッティア国民など、赤子と老人くらいのものだ。いや老人でも馬を乗り回す元気な人も多々いる。
その状況を思えば、盛んといえば、盛んだ。
「マッティアの馬よりちょっと細いかもしれないけれど、遜色ないと思うよ」
「ええ、ええ、とても良い馬ですわ!」
若くて賢そうな馬だ。セレンを主人だと確認するように、何度も鼻先をセレンに当てる。
早く背に乗ってみろ、と言わんばかりだ。
ワクワクする。
なんてかわいい子なんだろう。
馬なんて久しぶりだ。クラッセに入国してからは、一度も乗っていない。
確かにこれ以上の贈り物なんてない。
また馬が、鼻先をセレンに当ててくる。
なにをしているんだ、早く乗れ、と言われているような気がする。
自然と、身体が動いた。
手綱を持って、鐙に足を掛け。
ひらりと跨って馬の背に乗ると、空を見た。
ああ、視界が広い。視線が高い。気持ちいい。
久しぶりだわ、この感じ。なんだか、世界が静かに感じられる。
しばらくうっとりと、目を閉じる。安定感があって、とてもいい馬なのがわかる。
満足して目を開き。
ふと下に視線をやると、タナとフェールの慌てふためくような表情が目に入った。
ん?
ふと辺りを見回すと、皆、動きを止めてしまって、こちらをポカンと見ていることに気付いた。
あ。
し、しまったあああ!
つい。つい、やってしまった。
そうよ、深窓の令嬢は、いきなりドレスのまま馬に乗ったりしないし、ましてや介助なしで乗馬なんてほぼ不可能。
あああ、どうしよう。これをどう言い繕えばいいのー!
と馬上でうろたえていると。
「すごいね!」
と、レグルスが沈黙を破った。
「やっぱりマッティアの人は乗馬が得意なんだね」
にこにこしながらそう言う。
シラーがそれに応える。
「マッティアでは、乗馬は日常なんですか、陛下」
「そうだよ。あちらは山岳で道が狭いところが多いから、馬車は却って不便だそうだよ。子どもだって馬に乗れるそうなんだ」
ね? とにっこりと笑ってセレンに同意を求める。
これは、救いだ。これで押し切るしかない!
「そ、そうなんですの。わたくしも、五つの齢にはもう普通に乗っておりましたわ」
ほほほ、と少し恥ずかしげにしてみせる。
さあ、納得しろ! 頼むから!
ドレスの中は冷や汗でだらだらだったが、できるだけ済ました表情をしてみせる。
すると、周りの者たちも笑顔を見せ始める。
「ほう、道理で」
「陛下は乗馬は苦手のようですからな、王妃殿下に教わるといい」
「ははは、それはいい」
などと、場が和やかになっていく。
一通り落ち着いたところで、セレンはそろそろと馬から降りた。
馬は少々物足りない感じで鼻を鳴らしたが、さすがにこのまま遠乗りなんてわけにはいかないだろう。
カクカクした足取りでタナとフェールのそばに行くと、二人はほうっと息を吐いて、小声で言った。
「肝を冷やしましたわ」
「血の気が引くってこういうことを言うんですのね」
「ごめん……」
でもまあ、どうやらこの場は乗り切った。馬だけに。
セレンはレグルスに歩み寄ると、微笑んで言った。
「陛下、本当に嬉しく思います。ぜひ今度、一緒に遠乗りでもさせてくださいな」
「もちろん。そのための贈り物だからね」
その無邪気な笑顔を見て、ほっと息を吐く。
レグルスは優しい。さっきはしたない真似をしたのだって、かばってくれた。
大切にしてくれている、と感じられる。
やっぱり少し考えすぎているのかもしれないわ、とも思った。
◇
弾んだ足取りで、自室に帰っていると。
部屋に向かう回廊の途中で、シャウラとばったりと鉢合わせた。
相変わらず、色気をプンプン匂わせている。今日は侍女は連れておらず、一人きりだ。
「ごきげんよう、王妃殿下」
「……ごきげんよう」
あちらは上機嫌な様子だが、セレンのほうは、今までの浮かれた気持ちもどこへやら、一気に気分が落ち込んできた。
こんなときに、一番会いたくない人に会ってしまった。せっかくいい気分だったのに。
ついていたシラーが先をうながした。
「セレン妃殿下、お部屋に戻りましょう」
「え、ええ」
そうしてゆるゆると歩き出す。
耳にくすくす、という嘲笑が届いた。
この状況は、おかしいのではないだろうか。
タナとフェールは不機嫌そうにシャウラを見つめているが、他の侍女たちはそこには誰もいないという風に、すました顔をしている。
「あの、シラー」
「王妃殿下。堂々となさってください。誰がなんと言おうと、王妃はセレン妃殿下なのです」
小声で、しかししっかりとした口調で、シラーが言う。
「そう……そうね」
耳に届く嘲笑は無視して、そのまま歩く。
シラーは口出ししない。まっすぐ前を見て歩く彼女に、これ以上はなんだか聞きづらい。
誰に訊けばわかるんだろう。シャウラはなぜ今でも後宮に残っているのか。
というか、まず、誰が味方なのかわからない。
思えば、タナとフェール以外はクラッセの人間なのだから、もしかすると二人以外は全員敵の可能性だってあるのだ。
なんだか身体が冷えていくような感覚がする。
ここはマッティアではないのだ、と強く感じてしまう。
そんなときに頭の中でいくら考えても、悪いことしか思い浮かばない。
本当は元々、シャウラを王妃にしたかった。だが、なんらかの都合……たとえば身分だとか何だとかで、正室にはできなかった。
だから文句を言えない弱小国の王女を娶り、対外的にはその王女を王妃とする。けれど事実上の正室はシャウラ、なのだとしたら。
その後もし、正室が御子をなさず、側室が世継ぎを産めば、いずれ側室が正室に昇格することだって可能なのではないだろうか。
……どうしよう、この説だとそれなりに整合性がある。
とにかく、わからないことを、はっきりさせなければ。
セレンは、タナとフェールに彼女のことを調査させよう、と決めた。
◇
「ええっと、ご側室のご実家は、男爵家ですねえ」
「まあ、王妃にするには弱いといえば弱いですかね」
「ちなみにご実家は、兄君が継いでおられます。男爵夫人とは折り合いが悪いみたいなので、帰りたくはないでしょうね」
セレンは寝所にて、二人の報告を聞いた。
先ほど後宮の自室に帰ってきて、タナとフェールに調査を依頼して、そこから一刻程度しか経っていない。
「あなたたち、ホント、仕事が早いわね……」
「そうですか? いろいろ聞いたら、いろんな方が答えてくれましたよ」
「そうなんだ」
ということは、どうして彼女が後宮に残っているのか聞いたら、それもあっさり教えてくれるのだろうか。
「いやー、そこはどうしたわけか、わからないんですよね」
ため息とともに、タナが言う。
「なんか、言葉を濁されるというか」
フェールが肩をすくめる。
「ふうん」
じゃあこれ以上の調査は、無意味かもしれない。というか、むしろ立場が悪くなるかもしれない。
そうよ、誰がなんと言おうと、王妃はこの私なんだもの。
これ以上探りを入れていたら、陰湿な妃って言われる可能性もあるのではないか。
「わかったわ、ご苦労さま。もう調べなくてもいいわよ」
「あら、もういいんですか?」
「うん」
セレンはこくんと首を前に倒す。
そもそも、こういう後ろ暗いやり方は、性に合わない。
正々堂々と、寵愛を受けようじゃないの。
◇
「国王陛下のお成りです」
その言葉と同時に、レグルスが部屋に入ってきた。
「陛下、いらせられませ」
そう言って席にうながす。
レグルスはご機嫌な様子で、席についた。
「陛下、わたくしにあんな素敵な贈り物を、ありがとうございます」
そう言って頭を下げる。
顔を上げると、ニコニコと微笑むレグルスと目が合って、なんだか嬉しくなってしまう。
「気に入ってくれたようで、本当に良かった」
「馬だなんて、なによりの贈り物ですわ! わたくし、本当に驚いてしまいました」
そんな風に言葉を交わしているうち、侍女がいつものようにお茶を置いて、そして去っていく。
二人きり。
よ、よし。今こそがんばらなくちゃ。
セレンは心の中で拳を握って気合を入れる。
「本当に、遠乗りに連れて行ってくださいましね?」
少し上目遣いで言ってみる。
レグルスは微笑みながら、何度もうなずいた。
「うん、今度時間が空いたら行こう」
「嬉しゅうございます」
そう言ってにっこりと両の口の端を上げてみせた。
というか。
寵愛を受けるって、どうやったらいいの?
そんなこと、やったことないんですけど。
母さま、助けて!
セレンの努力に気付いているのかいないのか、レグルスは話を続ける。
「私は、乗馬が苦手なんだ。みんな言っていただろう? だからきっと、セレンのほうが上手いと思うよ」
「まあそんな。ご謙遜を」
ほほほ、と笑う。
が、もしかしたら、本当に自分のほうが上手いかもしれない。
なにせ渓谷の国マッティアで鍛えた腕前だ。
ああー、どうしよう。それはそれで、プライドが傷つけられるかもしれないわよね。下手なふりとかするべきなのかしら。でもなあ……。
父と母を思い浮かべてみる。
馬はそもそも、父のほうが上手かった。そりゃそうだ、マッティアの王子として育ったんだから。
それに、母は父のプライドがどうとか考えていない気がする。
完全に尻に敷いちゃってる上に、父もたぶん、そういうことは気にしていない。むしろ積極的に、レイリーは美しいだの、レイリーは聡いだの、褒めまくっている。
いい例が近くにないなあ。
今度、タナとフェールにも聞いてみよう。彼女らの恋愛遍歴は知らないけれど。
などとぐるぐると考えていると。
「ねえ、セレン」
「はっ、はいっ」
いけない、考えごとをしていて、声が上擦ってしまった。
あああ、夫を前にぼうっとするなんて。寵愛を受けるどころの騒ぎではなかった。
セレンが姿勢を正してまっすぐにレグルスのほうを見ると。
彼は覗き込むようにして、真剣な眼差しで問うてきた。
「もしかしたら、マッティアが懐かしい?」
「……えっ?」
今、どうして、その質問が出たのだろう。
「いえそんな」
「本当?」
そう言って、じっとこちらを見つめてくる。それはなんだか照れくさい。
思わず目を逸らしてしまう。
「だ、だって、まだ懐かしく思うほど時間が経っていませんし……」
「そう?」
「そっ、それに、とても良くしていただいておりますもの」
「それならいいんだけど」
そう言って、にっこりと、あの少年のような笑顔を見せてくる。
なんというか、それって反則なのよね、と思う。
無邪気に笑われると、もうなにも言えなくなってしまう。
なにもかも、もういいかあ、って気になってしまうのだ。
なんというか、彼の笑顔は、温かくて優しい。
こんな武器を持っているとは、輿入れ前には思っていなかったわ。くっそう。
赤くなってくる頬を隠すように、セレンは慌てて言葉を紡ぐ。
「それにしても、遠乗りが楽しみですわ」
「どこか行きたいところはある?」
「陛下のお勧めしてくださる場所ならどこでも」
「……うーん、それは結構、困る返事だなあ」
そう言って考え込む。
困る? どうして。選択範囲は広いほうがいい気がするのだが。
「どこなら気に入ってもらえるか、考えてみるよ」
いや、だから、どこでもいいんだけれど。そんなに深刻に考えなくても。
「クラッセでは、遠乗りの推奨場所ってどこになるんでしょうか。むしろマッティアにはないようなところのほうが」
「ああ、そうだね。セレンはそういうところのほうが嬉しいんだね」
ぱっと表情を輝かせて、レグルスは言った。
うん、そう。どうせなら、その土地でお勧めされるもののほうがいい。
あの舞踏会のときに、鶏を勧められたように。
「そうかそうか。そうだったよね。じゃあ、草原のようなところがいいかな」
「草原! 素敵!」
思わず手を叩く。
マッティアには、広い草原なんてものがほとんどないのだ。そこを馬で駆けたら、どんなに気持ちいいだろう。
「じゃあ、遠乗りはどこかの草原にしよう」
「楽しみですわ!」
「でもちょっと時間が空いた程度じゃ、遠くには行けないから……じゃあ、近くに湖が見えるところがあるんだよ」
そして。
遠乗り計画を立てていたら。
また、朝になってしまっていたのだった。