7. 王妃は王と夜通し語る
「あー! 疲れた! 重いのなんの!」
「ひ、姫さま、お静かに」
寝所の外にセレンの声が聞こえるのではないかと、二人の侍女は慌てふためいた様子だ。
タナはセレンに向かって人差し指を口の前に立て、フェールは寝所の外をうかがってひやひやしているようだ。
でも一気に気が抜けたのだ。ここのところ、いろんな人と会っていたから、ひとときも心休まるときがなかった。
まずは重いティアラを外し、一つずつ装身具を外し、少しずつ身軽になっていく。
ついには下着だけになり、セレンはベッドにどさりと倒れこんだ。
「終わったー!」
息を吐いて、両腕両足をめいっぱい伸ばして、心からの安堵の声をあげる。
だが、タナとフェールは、装身具やドレスを片付けながら言った。
「終わっておりませんわよ」
それを聞いて、セレンは慌てて起き上がる。
「まだなにかあったっけ?」
「まあ、姫さま、これからが本番ですわ」
タナが呆れたように言った。
「え?」
訳がわからない、という表情をしたセレンに言い含めるように、フェールが続ける。
「お式も終わり、公式に王妃になられて……ああ、私たちももう姫さま、とはお呼びできませんわ、王妃殿下」
「王妃……殿下」
耳慣れない呼び名。
今日から、そして国王が退位するまで、セレンはそう呼ばれるのだ。
「なんだか、急に現実が襲ってきたわ」
頬に手を当て、息を吐いた。
王妃。この大国クラッセの。漠然とはわかっていたつもりだったが、やはりどこか他人事のように感じていたのかもしれない。
いけないいけない、しっかりしないと、とセレンは自分の頬を軽く叩いた。
「さようでございますか」
セレンの様子を見て笑いながら、二人は手際よく寝所を片付けていっている。
セレンはベッドの端に腰掛け、ぷらぷらと足を揺らしながら首を傾げて言った。
「で、本番って? なに?」
今日は、式が終われば特に予定はなかったはずだ。頭の中で再度、スケジュールを確認する。
うん、ない。なにも。
「まあ……」
けれど、タナとフェールは顔を見合わせた。
「まだ、本気でおわかりになっていらっしゃらない」
「え? いや本気で。なによ?」
するとタナが、こちらに歩み寄り、耳元で囁いた。
「今宵は、初夜ですわよ」
「しょっ!」
大声をあげそうになって、慌てて自分の口を自分の手で押さえた。
「王妃の務めといえば、一にも二にも、お世継ぎをあげることですわ。当然、今夜は陛下もこちらにお渡りになられるでしょう」
「あ……そう……そうよね……」
さきほどの比ではない。
それこそ、急激に現実というものが、荒波になって押し寄せてきたような気分になった。
なんというか、王妃になる、ということばかりが頭の中を占めていて、そういう……俗っぽいことが頭の中からすっぽりと抜け落ちていたのだ。
「ですから、さっ、お立ちになって。お湯浴みをいたしましょう」
呆然としているセレンを引っ張るようにうながして、二人は浴室に足を進めた。
◇
来客用の部屋で、お茶を前にして、寝衣に着替えて、セレンは背筋を伸ばして座っていた。
半時前に、王付きの侍女がしずしずとやってきて、
「今宵、陛下がこちらに渡られます。手配のほどをよろしくお願いいたします」
とだけ言って去って行った。
手配。手配って、なに? なにをしていたらいいんだろう。と頭の中でぐるぐると考える。
「姫……いえ、王妃殿下、さきほどからお茶ばかり飲んでいらっしゃいますわよ」
「そう? 喉が渇いて」
ここにはクラッセの侍女もいるから気も抜けないし、これから起きることが何が何やらという感じなので、実は頭の中はかなり混乱しているのだ。
言われてみれば、確かにさきほどからカップを口に運ぶ動作を何度もしているような気がする。
「セレン妃殿下、緊張なさっておいでですのね、無理もありませんわ」
シラーが、空いたカップに新しいお茶を注ぎながら言った。
セレンはそのお茶を一口だけ口にすると、カップを置いて、ふう、と息を吐いた。
「緊張……そうね、緊張しているのかも」
「初めてのことですものね」
ほほ、とシラーは笑った。
彼女は、初めてこの部屋に入ったとき、寝所にはクラッセの侍女を立ち入らせない、と言ってくれた。
そういえばあのときシラーは、昼の間だけ、と言っていたっけ。
よくよく考えると、きわどい発言だった。あのときレグルスは、どんな反応だったんだっけ……思い出せない。それどころじゃなかったから。
シラーはあれ以降も、なにくれとなくセレンを助けてくれる。
頼りになる、とは彼女のために用意された言葉だ。訊いてはいないが、見た感じとその落ち着いた様子から、おそらくはセレンの父よりも年上かと思われる。
だからだろうか、言われていることは実はきわどいことだけれど、嫌味なく、すんなりと耳に入る。
「陛下が渡られましたら、しばらくして私どもは席を外します。ああ、待機はしておりますので、なにかありましたらお呼びくださいな」
待機。
それはいいことなのか、悪いことなのか。
というか、すっごく恥ずかしいことではないのか。
戸惑っているセレンに気付いているのかどうかはわからないが、シラーは話をそのまま続けた。
「そうしたら頃合いを見計らって、妃殿下が陛下を寝所にご案内してさしあげてくださいませ」
「わ、わたくしが、ですか」
「ええ、後宮の主は王妃殿下ですから」
「は、はあ……」
「それにここだけの話……」
「はい?」
シラーは息をひそめて、言った。
「まだ若くていらっしゃるから、陛下もまた緊張していらっしゃると思いますよ。うまく褥に妃殿下を案内できるとも思えません」
「え……えと……」
なんとも具体的な話になってきた。もう聞いていられない。
耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかった。
だが、シラーは話を止めない。
「まあでも、焦ることはありません。きっかけがつかめなければ、夜通しこちらの部屋で語り合ってもようございますよ」
「え、でも」
王妃の仕事は、一も二もなく、世継ぎをあげることではないのか。
セレンの思ったことがわかったのか、シラーは、ほほ、とまた微笑んだ。
「これから、いくらでも時間はございます。お二人は永遠の愛を誓われたのですから」
「はあ……」
永遠の愛、は存在しているかどうかも怪しいが、離縁だなんて王族同士の結婚としてはありえないから、時間があることだけは間違いない。
けれど、お膳立てされた初夜に、語り通すだなんてことは許されるのだろうか。
釈然としていないセレンの耳元に、シラーは口元を近づけて、さらに声をひそめた。
「実は私は、夜通しこちらの部屋で語り合って、初夜を伸ばされた方を知っています」
「え」
驚いて顔を上げ、シラーを見る。彼女はいたずらっぽく笑った。
「先々王陛下でございますよ。ですからどうぞ、ご安心を」
「まあ。大変な秘密を知ってしまったわ」
「内緒でございますよ。誰にも言わないでくださいませね」
「もちろん」
小さく笑いが漏れた。なんだか肩の力が抜けた。
先々王の話が本当かどうかは知らない。もしかしたら、セレンの緊張を解こうと冗談を言っただけなのかもしれない。
けれどとにかく、おかげで緊張はしなくなったようだった。
「国王陛下のお成りです」
だが、侍女のその一言で心臓が跳ね上がった。
席から立ち上がり、かの人を待つ。
扉の向こうから、レグルスはゆっくりとやってきた。やはり落ち着きなく、首の後ろに手をやったりしている。
まだ若いから緊張。なるほど、シラーの言った通り、そうなのかもしれない。
「いらせられませ」
セレンはそう言って、自分の目の前の席にレグルスをうながした。
彼は言われるがまま、席に座る。すかさず侍女が、彼の前にお茶を用意した。
しばらく沈黙が続く。
なにか言うべきなのかしら、と思い始めたとき、レグルスのほうが先に口を開いた。
「ええと、今日は、疲れた?」
「え、ええ。多少は。でも、大丈夫ですわ」
「そ、そう……」
「あの、陛下もお疲れでは」
「いや、私も大丈夫」
「そう……ですか」
そしてまた沈黙が訪れる。
セレンは再び、意味なくカップを手に取ったり戻したりしてしまっていた。
ああ、こういうとき、なにを話せばいいのかわからない。タナとフェール相手なら、いくらでも口が動くのに。
どうしようどうしよう、とそればかりで頭の中が占められていく。
そしてふと気付けば、周りには誰もいなくなっていた。
これが、頃合いを見計らって、ということなのか。
こんなに困っているのに! 置いて行かないで!
でも困っているのは、彼も同様のようだった。そわそわと視線を動かしたり、カップに手をやったりしている。
つまり、頼りになりそうな雰囲気はない。
なにか話さないと。この沈黙に耐えられそうもない。
とにかく、なんでもいいから。
「あのっ」
「あの」
二人同時に声が出た。なんというか、間の悪い。
セレンはおずおずと、手のひらでレグルスを指した。
「陛下からどうぞ……」
「あ、じゃ、じゃあ……ええと、ご兄弟はいらっしゃるのだよね」
「ええ、はい、兄が二人。陛下はお兄さまがいらっしゃるとか」
「そう。先王だね」
「教会に入られたとか」
「うん、そうだよ」
なにやら突破口が開かれたようだった。とにかく話を引き延ばそう! と思う。
「幼い頃に、一度だけお会いしたことがありますわ」
ああっ、まずい! 触れたくない話題に自ら切り込んでしまったあ!
などと焦ってしまったが、彼は特に気にもしていない様子で続けた。
「似ていないだろう?」
「そうですわね。彼は黒髪だったように覚えておりますわ」
「兄の母親が正室でね。髪の色は母譲りのようだ」
「そうですの」
なんだか込み入った話になりそうだが、王妃になった以上、知っておいたほうがいい気がした。
彼もそう思って話をしているのだろう。
「母は側室な上に、弟だから、私に王位は巡ってこないものと思っていたのだけれどね、兄が退位してしまって、お鉢が回ってきてしまった」
どうして退位を、と訊きたかったが、それを話題にするのは時期尚早な気がして止めた。
いきなり深すぎる話は、しないほうがいい気がする。
「ではご自身でも驚かれた?」
「そうだね、驚いたし、焦ったかな。一応、それなりに帝王学とか学ばされてはいたけれど。おとなしく授業を受けていてよかった」
そう言って苦笑した。
「わたくしの兄は、二人とも授業から逃げ回ってばかりですわ。どちらかが王位につくのは決まっておりますのに」
「セレンも?」
「そうですね、わたくしは作法の授業などは逃げ回っておりましたわ」
そう言って笑うと、彼も笑う。
なんだか身体の力が抜けてきた。
「じゃあ、兄妹は似ているのだね。顔も?」
「顔はどうですかしら。兄は二人とも父親似で」
今まで話をしてこなかったからだろうか、それからもいろんな話をした。
クラッセとマッティアは隣国といえども、文化や慣習が小さく違うこともあり、お互いに驚いたり、笑ったりして、話は尽きなかった。
楽しかった。たぶんレグルスは、とても聞き上手だ。
セレンのくだらない話にも、笑ったり、うなずいたり、先をうながしたりする。
さきほどまで緊張していたこともあり、急に力が抜けて口の滑りも良くなった。
ふと、机の上が明るくなってきたことに気付いて、窓の外を見やる。
「まあ、もう明るくなってまいりました」
後宮の中庭に、静かに陽が差そうとしている。じわじわと、空と城壁の境目がはっきりとしていく。
いつの間に、そんなに時間が経ってしまったのか。
これはじきに蝋燭もランプも必要なくなるだろう。
「ああ、では、王宮のほうに帰るとするよ。眠いだろう、このまま寝るといいよ。付きあわせてしまってすまないね」
そんなことを言いながら、レグルスはゆっくりと席を立つ。
セレンも慌てて立ち上がった。
「いえ、楽しゅうございましたわ」
扉に向かおうとする彼の背中を追う。
出て行く彼が、ふとこちらに振り返った。
なんだろう、とその顔を見つめていると、レグルスはふいに腕を伸ばしてきた。
「えっ」
そしてセレンの頭を抱えるように腕を回すと、そのままぐっと引き寄せる。自然とセレンは彼の肩口に顔を寄せることになった。
温かい。それからなんだか、気持ちいい。目を閉じて、しばらくそのままの体制で止まる。
耳元で、レグルスの声がする。いつかと同じように、響きの甘い、声。
「楽しかった」
「わたくしもです」
「またね」
「はい」
そう言葉を交わすと、彼の腕が緩んだ。
なんだか少し寂しいような、惜しいような気がしたけれど、それを顔に出すのは恥ずかしくて、セレンはなんとか笑顔を顔に貼りつかせた。
「じゃあ」
最後にレグルスはにっこりと微笑んで、そして部屋を出て行く。
セレンは笑顔のままで、後宮を出て行くレグルスの背中を見送った。その背中が小さくなっていく。
しばらくはその体勢と表情のまま、立ち尽くしていたが。
完全に姿が見えなくなってから、身体の力を抜いた。
「……いやいやいやいや」
思わず、つぶやく。
本当に。本当に、何もしないまま、出て行ってしまった。いや一応、最後に抱き合った……のだろうか。いや抱き合うってもっとこう、全身を使う感じだから違うか。
父と母の抱擁を思い出して考えると、やっぱり抱き合うというほどでもなかったかな、と思う。
セレンは、うーんと腕を組んで考える。
先々王の話が本当なら、親子二代ということだわね……。
いや、楽しかった。楽しかったんだけれども。
しかし、そこではた、と思いつく。
……もしかして。
劣化版だから、そういう気にならなかったということ……ではないわよね?
もしそうなら、私は一生、この後宮で飼い殺し?
だって王妃の仕事とは、一も二もなく、お世継ぎをあげること。
それができない王妃がどうなるのかだなんて、考えたくもない。
ぞっとする。思わず自分の二の腕をさすってしまう。
いや、今回は話がはずんだだけ。それできっかけが掴めなかっただけだわよ。
だってまだ、夫婦初日だもの。結論を出すのは早すぎるわ。
セレンはそう何度も何度も、自分に言い聞かせたのだった。