5. 王女は王と手をつなぐ
大きな木の門が、じりじりと開く音がする。
「開城ー! 開城ー!」
という声が馬車の中にも響いてきた。
「姫さま、やはりとても大きな王城ですこと。ここからでは門の上が見えませんわ」
タナが馬車の窓にかかっているカーテンを少し開けて、外を眺めている。
セレンも馬車の窓から首を出して見てみたいのは山々だが、やはりそれははしたないだろうと、じっと我慢をしていた。
いや、我慢というよりも、このおしりの痛さから解放されるのはいつだ、ということに気を取られて、そこまで自分の欲望が回らなかったとも言える。
しばらくして、馬車が止まる。三人は、慌てて居住まいを正した。
外からゆっくりと馬車の扉が開く。そこには一人の侍従が、恭しく頭を下げていた。
「セレン王女殿下、長の旅、お疲れ様にございました」
その声にうながされるようにして、腰を上げる。
やっと立ち上がることができた!
セレンの頭の中は、解放感でいっぱいだった。
馬車の外では、ずらりと並んだ侍女や侍従たちが頭を下げて出迎えてくれていた。
足元に、クラッセの侍従が小さな階段を置いてくれる。
フェールが先に降りて、確かめるように階段を踏みしめてから、こちらに振り向いた。
「姫さま、お手を」
侍女たち二人の顔つきが変わってきている。
そうだ、馬車を降りれば、もう気を抜いてはいけない。
猫かぶりの時間だ!
セレンはゆっくりと、一歩一歩、階段を踏みしめて馬車を降りた。ドレスの裾を少々持ち上げて、目は伏せがちに。けれども、背筋は伸ばして。
こちらをちらちらとうかがう視線を、そこかしこから感じる。
王妃となるマッティアの王女とは、どのような女なのかと値踏みされているに違いない。
見なさい! 私は黙っていれば、かくも王女らしく振舞えるんだから!
……たぶん。
少々自信はないが、特に下手を打っているわけでもないはずだ。
馬車を降りて数歩前に進んだところで、扇をタナから受け取る。それを腰の前でゆるく持つと、声を張った。
少しばかりの不遜な印象と、でも傲慢には聞こえないように。堂々と。
「皆、わたくしのために、出迎えご苦労さま。感謝いたします」
その声に、一斉に、その場にいる人たちが深く頭を下げた。
それを見届けたあと、ゆっくりと辺りを見回す。
舞踏会のときにこの城に到着したのは夜になったところだった上に、馬車の中で目が覚めたばかりであまり見ていなかったし、幼い頃のことだから、少々記憶が曖昧だ。
さらに言えば、身長も伸びたからか印象が違っていて、なんだか新鮮に思える。
背後を見れば、馬車の後ろに正門が見える。タナとフェールが言っていたように、大きな木の門で、セレンの位置からなら上も見えた。
そして今ちょうど、大きな閂を抱えた警備兵と思しき者たちが、門を閉めているところだった。
門の横から石造りの城壁が続いている。
正面に向き直れば、その先に見えるのは、王宮だろうか。石造りで、とんがり屋根が何本も伸びている。
左右にはちょうど対称になるように回廊があり、柱の陰からこちらを覗き込んでいる人が何人もいた。
回廊に沿うように、均等に背の高い針葉樹が植えられ、その足元には小さな色とりどりの花が咲いている。
真正面には三段の噴水があり、流れる水がきらきらと陽の光に輝いていた。
「すてきな庭だこと」
セレンがそう言うと、馬車の階段を置いてくれた侍従がかしこまって頭を下げた。
「クラッセ自慢の庭園にございます。どの季節でも美しゅうございますよ」
「まあ、素晴らしいわ」
城門から入ってすぐ、これだけのものを見せつけられると、やはり国力の違いというものを思い知る。
一目で王城を見渡せない。王宮の奥がどうなっているのかわからない。マッティア王城と比べたら、いったい何倍の広さがあるのか。
というか、この中庭にマッティア王城がすっぽり収まってしまうのではないだろうか。
嫌になるわ、と心の中でつぶやいたところで、噴水の水が揺らいだ気がした。なので視線をそちらに向ける。
いや、よく見ると、噴水の向こうから誰かがやってきているのだ。
目をこらすと、その奥から歩いてきているのは、一人の男性。
彼は何人もの侍従やら大臣らしき人たちやらを侍らせて、こちらにゆっくりと歩を進めている。
元、第二王子。クラッセ現国王。
この場、この状況で、皆の真ん中をかしずかれながら歩く人は、それ以外には考えられない。
セレンは彼が近くまで来るのを待って、ドレスの裾を持ち上げて、少し膝を折った。
「お初にお目にかかります、国王陛下。ご拝顔賜り、光栄ですわ。わたくしは、マッティア第一王女、セレン・ブロコール・マッティアにございます」
公的には、まだセレンはこの国の王妃ではない。七面倒くさい儀式をいくつか経てから、ようやく王妃になれるのだ。
噛まずに無事に口上を述べられた、と安堵の息を吐くとともに、口元に扇を当て、その上から、ちら、とかの人を見やる。
彼は落ち着かなく、首の後ろに手をやって首筋を撫でていた。
なかなかセレンと目を合わせてくれなくて、思わず首を傾げてしまう。
栗色の髪と瞳、どちらかといえば女性的で端正な顔立ち。セレンよりも頭一つ分高い、身長。
世間的に言えば、美形の部類に入るだろう。そういえば、幼い頃に会ったクラッセ先々王に似ているかもしれない。
ちなみに、あのいじわるな王子には似ていなかった。
でも……なんというか……なにかしら。
セレンは少し首をひねる。そして、あ、と思いついた。
威厳がない。
父親である先々王に顔の造型がそれなりに似ているだけに、そこが気になった。
クラッセ先々王に会ったときには彼は初老であったから、若い目の前の男性が、あのときの先々王ほどの威厳を身に着けることはどうやっても無理だろう。
けれど、大国クラッセの国王なのだから、もっと堂々としていればいいのに、なんとなく落ち着きがない。
周りの侍女も侍従たちも、気のせいかもしれないが、セレンに対しているときよりも、今のほうが気を抜いているように見える。
「私はクラッセ国王、レグルス・ヴィオニエ・クラッセ。長旅で疲れただろう、よく来てくださった、セレン姫」
ようやくセレンと目を合わせるとそう言って、クラッセ国王レグルスは、セレンを出迎えた。
ええ、疲れましたとも! まだおしりが痛くて仕方ないんです、ジンジンしているんです!
と言うわけにもいかず、セレンは扇で口元を隠したまま言った。
「いいえ、陛下が用意してくださった馬車や、尽くしてくださる侍従たちのおかげで、長旅ではありましたが快適でございました」
少々、気だるげに言ってみせる。後方の侍女たちがうなずくのが視界に入ったから、おそらくセレンの態度は及第点なのだろう。
「それはよかった」
レグルスはそう言って微笑む。
あ、なんだか優しそうな笑顔の人だわ。
セレンはほっと息を吐いた。
「けれど、今は疲れを感じなくとも、やはり休んでおいたほうがいいと思う。後宮に案内したいのだけれど、いいかな?」
「まあ、陛下、自ら?」
「もちろん」
そう言って手のひらをこちらに差し出してくる。なので、そっとその上に自分の手のひらを乗せた。
優しい手だ、と思った。
そっと気遣うように、セレンの手を指で包んでくる。
いやだ、手が荒れていないかしら、と急に心配になる。今まで気にもしていなかったのに、なんだか気恥ずかしくなった。
少々威厳がないくらい、気にすることではないわ、と思えた。やっぱり添い遂げるなら、優しい方が一番だし。
繋いだ手から、ぬくもりを感じる。
強引でもなく、セレンを導くように、優しく握られた手。
「では行こうか。後宮までは少しかかるけれど」
「大丈夫ですわ」
そうして二人してゆっくりと歩き出す。
それを合図に、周りの侍従や侍女たちもそれぞれに動き出した。
何人かは、レグルスとセレンに付き従うように、ついてきている。
レグルスは少しこちらを覗き込むようにして、語り掛けてきた。
「後宮に直接馬車で乗り入れてもよかったのだけれど……やはり、王城内を案内しつつ歩くほうがいいかとも思って」
「ええ、わたくしも早く慣れたいと思いますし」
「そうか、それはよかった」
セレンの返事を聞くと、ほっとしたように小さく微笑む。
ますます威厳がなくなって、むしろ少年のように感じられた。
「今、王城前の中庭から、そのまま王宮に入ってきたんだけれど……」
ご丁寧にも、本当に歩きながら案内するつもりらしい。
響きが甘い、高い声だ。
少しすると、あらあら、とでも言いたげな視線が侍女や侍従たちから、いくつも飛んできたことに気付いた。彼らの視線は、二人の間あたりに注がれている。
そ、そうか……。手、繋いだままだ……。
セレンは握られた手に視線を落とす。
これは……このままでいいのかしら? 振りほどくのもおかしいし、されるがままで構わないわよね。
少し自分の頬が染まったのを感じたところで、ふと顔を上げる。
こちらをちらりと見やる、レグルスがいた。一瞬、目があったが、すぐに逸らされる。
「ええと、この先に広間があって……」
取り繕うように、そう案内を進める。
それを見て、少し俯いて考える。
私もなんだか気恥ずかしいけれど、この人もそうなのかしら?
これから夫婦になるのですもの、気恥ずかしくもなるわよね。
いつかはこういうことにも慣れるのかしら。なんだか想像もつかないけれど。
などと考えて、もう一度、顔を上げると。
今度は目は合いはしなかったが、だが確実に、こちらを見ていて首を正面に戻すところだった。
そして。
少し、首を傾げた。
「や」
思わず、声が出た。慌てて口元を扇で押さえる。
「え? 『や』?」
セレンの声に気付いたのか、立ち止まってこちらをじっと見てくる。
セレンはあたふたとする自分をなんとか押し込めながら、『や』の続き、『や』の続き、と頭を回転させた。
「あ、いえ、あの、や、やはり立派な王城だと思いまして……」
「そうか。そう言ってもらえると嬉しい。私が作ったわけでもないけれど」
などと言って、レグルスはご機嫌なご様子に戻った。
どうやら誤魔化せたらしい、と心の中で胸を撫で下ろす。
とはいえ。
セレンのほうは、さきほど感じた甘酸っぱい想いはどこへやら、軽く染まっていた頬からも、血の気が引いていた。
『や』の本当の続き。それは。
やっぱりー!
そう叫び出しそうになっていたのだ。
やっぱり、母さまの生き写しの姫を貰ったつもりだったんだわ! それで、実物を見て、あれ……違う……ってな感じだわよ。
あーもう、ばかばかばか! 残念でしたー。そうそうそんなにそっくりな親子なんていないわよ。ちょっと似ているかなーってのが普通だわよ。夢見すぎ。妃を娶るのに夢見すぎだってばー!
……と心の中で叫びながら、セレンは笑顔で彼の案内を聞いた。
握られた手は、後宮に到着するまで離されることはなかった。
◇
セレンのために用意された部屋は、マッティアにあるセレンの部屋の何倍もの広さがあった。
奥に続く扉がいくつか見えるから、おそらく今いるこの部屋は来客用で、寝所や浴室や衣装室があの扉の向こうにあるのだ。
華美ではなく、花が上品に彫り込まれたテーブルと椅子。
背もたれの布一つとっても金糸が縫いこまれて陽の光に輝いている。
木目で統一された調度品は磨き上げられてつややかな光を放ち、重厚な雰囲気を作り出している。
窓にかけられたレースのカーテンは、どれだけ手間をかけて編んだのか、細やかな花柄の編み目をしていて、そこから差し込む陽の光は柔らかい。
窓の外に目を向けると、小川の流れる庭園が見えた。
そして紺色の統一されたドレスを着た十人の侍女が室内でずらりと並び、セレンに向かって頭を下げて彼女を迎え入れた。
うわあ、すごいすごーい! なんかこう、大国って感じよねえ!
と、叫びだしたいのをぐっと我慢した。
本当は、すごいすごいと言いながら、部屋中を駆けずり回りたい気分だった。
「なにか足りないものがあったら、侍女にでも遠慮なく言うといいよ。極力、すぐに用意させるから」
などとレグルスが言うから、本気で驚いた。
これだけ用意されていて、足りないものとか存在するの?
と、そのまま口に出すわけにもいかないから、なるべくしとやかに言う。
「では、そのときはお願いさせていただきますわ。でもわたくしのために、こんな素敵な部屋を用意していただいて、それだけで身に余ります」
「そう言ってもらえると」
レグルスはほっとしたように笑った。
ふと、目の端にクラッセの十人の侍女たちが映った。なにやら目配せしているようだった。
なんとなく、わかる。
さきほどのレグルスのように、……なにか……違わない……? という表情だ。
あーあーすみませんねえ。劣化版で!
そこで一人のクラッセの侍女が歩み出た。髪には白いものが混じっていて、年を重ねているのがわかる。古参の侍女のようだった。
「お初にお目にかかります、マッティア王女、セレンさま。わたくしはこちらの侍女たちを束ねておりますシラーと申します。もし今後、不都合がございましたら、わたくしに言っていただければ善処させていただきたく」
そう言って頭を下げた。
「よろしくお願いしますわ、シラー」
セレンがにっこりと微笑んでそう言うと、シラーも微笑み返してきた。穏やかな笑顔の婦人で、なんだか警戒心が薄れていくようだ。
シラーは続けて言う。
「セレン殿下、私どもは当分、寝所には立ち入らないようにいたしましょう」
「え?」
「最初は、知らぬ者ばかりに囲まれると、それだけで気詰まりなものです。ですから慣れるまでは寝所にて、マッティアから連れて来られた侍女たちと語らうとよろしいですよ」
「まあ、そんなものかしら?」
そう答えて、一応、馴染むつもりはあったんだよ、と見せてみる。嬉しい、と大っぴらに喜んでみせるのは、この場にいる人たちの手前、問題がある。
だがなんという采配か。さすがはクラッセ王城の侍女たちを束ねるだけはある。
確かに、猫かぶりのままでは息が詰まる。ぜーったいに詰まる! 詰まって詰まってストレス溜まる。
これぞ、天の恵み。シラーさまって呼ばせてください。
セレンのそんな心の動きには気付いているのかいないのか、シラーは微笑みを崩さないまま言った。
「それでいかがでしょう。そうなると、寝所の掃除などは、そちらの方々にすべてやっていただくことになりますが」
「私どもはもちろん構いません」
タナとフェールがそう言って、契約は成立。
ああ、よかった、とセレンは心の中で胸を撫で下ろした。
「昼の間だけですけれどね」
そう言ってシラーはなにか含みがあるような笑顔を見せる。
「シラー、そういうことは」
レグルスは手を振って彼女の言葉を慌てたように遮った。
ん? なんだろ。
でもまあ、本当に助かった。まさか向こうからそんな提案をしてくれるとは。
最初だけでも、ほんとうにありがたい。そのうちきっとクラッセでの猫かぶりにも慣れるだろうし、それまでだけでも充分だ。
セレンはそのとき、そう楽観視していたのだ。