3. 王女は王太子と喧嘩する
行儀よく、行儀よく、と自分に言い聞かせながら、セレンはしずしずと足を動かす。
食事が置かれている部屋は隣室ではあったが、舞踏会会場と隣接していて扉が開け放たれていた。その扉の上のほうの天井からカーテンが吊り下がっている。それをタッセルで両脇にまとめていた。
その下をくぐり、料理が用意された長机に向かう。
長机には床まで届く白い布が掛けられていて、その上にはたくさんの料理が並んでいる。目移りして仕方ない。
すると、母になにやら声を掛けられていた一人の男性が、セレンに向かって歩いてきた。白い調理服を着ているから、きっと料理人なのだろう。
彼はセレンの前に立つと、腰を折った。
「マッティアの姫君でいらっしゃいますね?」
「はい、そうです。セレンと申します。よろしくお願いします」
そしてセレンはドレスの裾を少し持ち上げて、小さく礼をした。
これが一つ目のご挨拶だ、と思う。
男性は、ほう、と大仰にうなってみせた。
「これはお行儀のよい姫君ですね。お母君にそっくりでいらっしゃる」
行儀がよい、と言われてセレンは安堵した。
ついでに少し、気も抜けた。
「さあ、こちらの皿をお使いください。フォークはこれを。お好きなものを取り分けて差し上げましょう」
その男性は、かいがいしくセレンの世話を焼きはじめた。子どもで、こういう場に慣れていないから、エスコートしようということだろう。
そのとき、ふいに音楽が鳴り始めた。
セレンは思わず振り返る。
部屋の隅にいた楽団が、曲を奏で始めたのだ。
それに合わせて、会場の中央に華やかに着飾った男女が集い、そして手に手をとり舞い始めた。
「うわあ……」
セレンは、目の前の食事のことも忘れて、その光景に魅入った。
「やっぱり、物語とおんなじだあ……」
セレンの読んだ絵本。その挿絵の一枚が切り取られてここにあるようだ。
耳に染み入るような美しい楽器の音色。くるくると回る、色とりどりのドレス。
鮮やかな、夢のような光景。
だが。
ぷっ、と噴き出したような声が聞こえて、慌てて振り返る。
「物語だって。子どもだなあ」
その言葉を発したのは、セレンよりも少しだけ年上に見える少年だった。くりくりの黒髪で、釣り目で、つんとすましている。
どう見ても彼も子どもにしか見えないのだが、違うのだろうか。
「王太子殿下?」
料理人が、少し強い口調で少年をたしなめた。少年は、ぷいとそっぽを向く。
王太子殿下。ということは、この少年はクラッセの王子ということか。そういえば、同じ年頃の王子がいると聞いたことがある。
ご挨拶しなければいけないのよね、と考えていると、さきほどの料理人がまたこちらに話しかけてきた。
「さあ姫君、どれがよろしいでしょうか?」
王子から気をそらそうとしているのか、料理人の男性は、セレンを料理の並んだテーブルへとうながした。
ちらっと王子のほうに視線を送るが、彼はもうこちらを見てはいなかった。完全にタイミングを逸してしまったのだ。
あとでまたご挨拶しよう、とセレンは心の中で納得する。
そんなセレンに気付いているのかいないのか、料理人の男性は、そのまま話を続ける。
「お飲み物はメイドがすぐに持ってまいります。その前にどうぞ料理を選んでください。姫君は何がお好きでしょうか?」
「あ、あの、私……」
どれと言われても。どれも見たことのないくらい美味しそうで、判断できない。
「ええと、あの」
皿とフォークを持ったまま言いあぐねていると、また声が飛んできた。
「早く決めろよ。うざったいなあ」
またそちらに振り返る。さっきの王子だった。
あからさまに悪意が入っていると思ったので、言いたいことがあるなら受けて立つ、とばかりにじっと見つめた。
が、王子は一向にこちらを見ない。さきほどからずっと、こちらに視線をよこさない。
もしかしたら、セレンに対して言っているのではないのかしら、と思うほど。
ふと見ると、王子も食事をとっているのだが、その食べ方がおかしかった。
テーブルの上に並ぶ食事をフォークでとって、一口食べては、別のお皿に落としていく。
それを何度も繰り返しているから、食欲がないから全部食べられない、というわけではなさそうなのだが。
「姫君?」
料理人に話しかけられ、慌てて口を開く。
「あっ、はいっ、あの、どれも美味しそうで決められないので、できればクラッセでしか食べられないものをお勧めしていただきたいです」
どうせなら、いつもは食べないものを。マッティアで食べられるものは、まだ食べたことがなくとも、いつかは食べられるだろう。
でもクラッセでしか食べられないものは、今、食べておきたい。
「おお、姫君。これは料理人冥利に尽きることを仰る」
男性は、本当に嬉しそうに微笑んで、ではどれにしましょうか、などと悩み始めた。
「では、これなどいかがでしょう」
セレンの皿の上に、何かの肉を少し乗せて、その上にスプーンでソースを回し掛ける。
「姫君には少し甘めのソースがよろしいでしょう。どうぞお召し上がりになってくださいませ」
言われてフォークに肉を刺し、一口、口に含む。口の中でよく味わって噛んで、飲み込んだ。
さっぱりとしたお肉の旨みに、絶妙に合う甘いソース。今まで食べたことがない味だ。
「美味しい! なにかしら、鶏よね? でも少し違う感じもするけれど」
料理人は、得たりとばかりにうなずいた。
「姫君、それは我が国の東のほうで育てられた、鶏の肉でございます。マッティアのものより体が大きいのです。でもよく運動させているので、肉が締まっておりましょう」
「そうなの。とても美味しいわ!」
料理人がとってくれた鶏肉をすべて平らげると、彼は嬉しそうに微笑んでいた。
が、その会話を聞いていたのであろう件の王子が、「げえー」とあからさまに舌を出した。
「鶏だって聞いて、美味しいとか言えるもんかなあ。気持ち悪いって思わない? 女のくせにさ」
相も変わらずそれをセレンに面と向かっては言わずに、明後日の方向を見ながら言うものだから、イラッとしてしまう。
さすがにここまでくると、自分に対して言われているのはわかった。
目の前の料理人は、困ったように首を傾げて口の端を上げている。
王子は引き続き、テーブルの上に並べられた食事を一つフォークに刺しては、一口だけ食べて、皿の上に落としていく。
この時点で、セレンのイライラは頂点に達していた。
そして王子は、さきほどの鶏の肉にも手を付けた。
やはり同じように、一口だけ口にすると、皿の上に落とす。皿は、彼の食べ残しだけで山盛りになっていた。
「ちょっと」
セレンは堪えきれずに、口を出した。
急にきつい口調で呼ばれたのに驚いたのか、王子は少したじろいだように見えた。
セレンは、彼の食べ残しの皿を指差して、言う。
「それが鶏の肉だって聞いたわよね?」
「……そ、それがどうしたんだよ」
「どうして最後まで食べないの」
「は? どうしてって」
「鶏の命を無駄にする気なの?」
これは、彼女が常日頃、父や周りの人たちに口を酸っぱくして言われていることだ。
相手が王子だろうがなんだろうが構うものか。私は間違ったことは言っていない。
セレンはそのとき、そう強く思っていた。
だが王子は、ぷっと噴き出した。
「これだから、貧乏国の人間は!」
そして高らかに笑い出したのだ。
「な、なによ」
どうやらその頃から、周りの注目を集めだしたらしい。二人の周りだけが静かになり、ひそひそと誰かが何かを話す声がする。隣の舞踏会会場からも、こちらを覗き込んでいる人たちがたくさんいた。
「貧乏国の王女は知らないだろうけど、こうするのがマナーなんだよ! そんなことも知らないのかよ」
嘲るようにそう言う。
確かに、周りを見渡しても、セレンのように皿を綺麗に空けている人はいないようだ。少しだけ皿の上に残している。
だがどう見ても、彼の食べ方は周りに比べて異常だ。
「あなたのように食べている人はいないみたいよ?」
「俺は王子だからな」
そう言って、彼は胸を張った。
「少し食して捨てる。それが許される身分なんだよ」
そういうものか? と一瞬思うほど、彼は堂々としていた。
だが、譲れないものは譲れない。
「意味がわかんない。食べ方が汚いとしか思えないんだけど」
汚い、という単語に彼は反応したようだった。
「無礼な!」
王子はそう言うと、つかつかとセレンの元に歩み寄り、肩をついた。
「アルダー殿下! なんてことを」
料理人の声が響いた。
両手に皿とフォークを持ったままだったためか、バランスを崩して、セレンはしりもちをついてしまう。
「きゃっ」
「姫君!」
はずみで皿とフォークが床に落ちた。幸い、皿は割れずにすんだようだ。だがフォークのほうは、先を上に向けて転がってしまっている。
あのままでは危ないわ、とセレンは手を伸ばそうとしたが、王子の声に遮られた。
「ちょっとかわいいからって付け上がりやがって! この俺が声を掛けてやっているんだ、ありがたく思えど、口応えなど!」
……声を掛けられた覚えはまったくないんですが、と思った。
もしかして、さきほどから横でちらちら嫌味を言っていたのは、声を掛けたつもりだったのか。
「なにするのよ!」
母から言われたことはすっかり忘れて、セレンはぱっと立ち上がり、王子のそばに行くと同じように肩をついた。
手押し相撲なら負けないのに! と、変な意地も湧き上がっていた。
王子は倒れはしなかったが、完全に頭に血が昇ったようだった。
「無礼者! おまえこそ、なにをするんだ!」
あわや、とっくみあいになろうかというのを止めたのは、料理人だった。
二人の間に割って入って、つかみ合おうとするのを止める。
「お静まりください、お二方とも」
「うるさい、どけ! おまえはいつもいつもうるさいんだよ!」
「セレン!」
周りにできていた人垣をかきわけて、慌ててやってきたのは母だった。
「なにをやっているの!」
「母さま!」
「こちらへいらっしゃい!」
セレンの二の腕をつかんで、引き下がらせる。
「だって!」
反論しようとする口を、母の手で塞がれた。
「申し訳ございません、王太子殿下」
そう言って、セレンを腕の中に抱えたまま、目の前の王子に向かって頭を下げた。
今、なにが起こってどうなったのか、母は知らないはずだった。
けれど、どちらが悪いのかとかなにも訊かず、セレンが悪いものと決めつけて頭を下げたように見えた。
悪いのはあっちよ、と言いたかったけれど、母の手はセレンの口元から動かない。
「躾のなっていない娘で。わたくしの責任でございます」
セレンは母の手から逃れようと暴れたが、母の力は一向に緩まない。
「これは、なにごとかね?」
ふいに声がして、皆がそちらに振り向く。
人垣をかきわけてきた母と違って、その人の前の人たちは、波が引くように道を開けた。
訊かなくとも、わかった。
クラッセ国王、その人だ。立派な髭を口と顎にたくわえた国王は、悠然とこちらに歩いてくる。
「国王陛下、わたくしの娘がお騒がせいたしております」
母は再度、ぎゅっとセレンの口を押さえ、覗き込むようにして睨みつけてきた。
仕方なく、セレンはこくこくとうなずく。もう暴れませんよ、の意思表示だ。
セレンの口から手を離すと、母はクラッセ国王の前にしずしずと進み出て、また頭を下げた。
しかし国王は、どうか頭を上げられよ、とそれを制した。
「『エイゼンの至宝』に頭を下げられると、居心地が悪い」
そう言って、はっはっは、と豪快に笑った。
後になって思うがおそらく母は、頭を下げればそう返ってくる、と確信していたように思う。
国王は辺りを見渡して、だいたいのところを察したようだった。
「料理長、こちらへ」
クラッセ国王は、さきほどセレンの前にいた料理人を指をちょいちょいと動かして呼んだ。
「は、陛下。失礼いたします」
料理長は、国王の斜め前で跪いた。
彼は単なる料理人ではなく、国王お抱えの料理長だったのだ。
「お前は、この諍いを見ておったか?」
「はい、私の目の前でございましたので」
「では、先に手を出したのはどちらかわかるか」
「はい」
「申せ」
料理長は、ちらりとこちらを見た。
言うわけがない。自国の王子を貶めすはずもない。
結局は、セレンが悪者にされるのだ。
それがわかっているのか、王子は胸を張ってふんぞり返っている。
私、悪くないのに!
セレンは口を尖らせて、事の成り行きを見守った。
なにか言おうと思っても、またセレンの傍にやってきた母の手のひらがこちらに向いていて、口の前をさえぎっている。いつでも口を押える準備はできているということだ。
見守るしかない。
料理長は、小さく言った。
「正直に申し上げても?」
「もちろん。だからこそ、お前を呼んだ」
「では、恐れながら申し上げます。我が国の第一王子が先に、そちらの姫君の肩を押しまして、姫君が倒れました」
セレンは耳を疑った。
まさしく正直に、ありのままを言った。
「その後、姫君も応戦いたしまして」
苦笑とともに料理長が続ける。
「それはそれは」
国王はそれを聞いて、喉の奥でくつくつと笑う。
「嘘をつくな!」
そのとき大声を上げたのは、かの王子だった。
「俺は悪くないぞ! なんだお前、料理人の分際で、自国の王子を貶めようというのか! 解雇されてもいいのか!」
会場にざわめきが広がっていく。
なんだか、セレンが思っていたよりも大事になってきた気がして、怖くなって母のドレスを握って身を隠した。
「黙れ、アルダー!」
その場を一瞬にして治めたのは、クラッセ国王の一喝だった。
「情けない。それが一国の王子が言うことか。それから、料理長を雇っているのはこの余ぞ。お前が口にすることではない」
その迫力に気圧されたのか、王子はしばらくなにか言おうと口をもごもごさせていたが、少しして周りの視線に耐えられなくなったのか、逃げるように会場を後にしていった。
残された者は、今起きたことは大したことではない、とでも言うかのように、諍いが起きる前と同じくまた散っていき、なごやかに歓談し始めた。
いつの間にか止まっていた音楽は、またいつの間にか鳴り始めていた。
料理長は、母に深々と頭を下げる。
「申し訳ありません、頼まれておりましたのに、こんなことに」
「いいえ、どうぞお顔をお上げになって」
言われて顔を上げた料理長は、それでももう一礼すると、一歩引いた。
「どうも我が息子は、わがままに育ってしまったようでしてな」
クラッセ国王は、髭をしごきながら母に向かってそう言う。
母は国王のほうに振り返った。
「とんでもない。それはこちらの言うことですわ」
恐縮して母が応えている。
「けれど、おかげでこうして『エイゼンの至宝』と話す機会に恵まれた。役得ですかな」
そう言ってまた豪快に笑う。
母はその言葉に、小さく微笑み返した。
「相変わらず、お口が上手くいらして」
「いやいや、余はそなたに向かって世辞を言ったことなど一度もありませんぞ」
「まあ」
そう言って二人で笑い合っている。
なにがどうなったのかはよくはわからなかったが、とにかくこの場は収まったらしい。
セレンはほっと安堵の息を吐いた。
「本日は、せっかくご招待いただいたのに、お騒がせしてしまって」
「いやいや、遠路はるばるお越しいただいて、それだけで。正直、断られるのではないかと思っておりましたが良かった。しかもこんな愛らしい姫も連れてきてくださった」
国王はセレンのほうに視線を向けた。
セレンは目を瞬いて、その優しい微笑みを見つめる。
「しかし、マッティアの姫は、やはりレイリー殿によく似ておりますな」
「そうでしょうか?」
「そっくりだと、ご自身でお思いにならないか?」
国王はそう言って、こちらにゆっくりと歩み寄ると、その大きな手をセレンの頭の上に乗せる。
暖かい手だった。
「そうですね、……似ている、と思います」
セレンのほうを見ると小さく笑って、母はそう答える。
「セレン、国王陛下に謝罪は?」
そう言われて、今度は素直に自分が悪いと思えた。
「あの、陛下の舞踏会でお騒がせして、申し訳ありませんでした」
ぺこりと頭を下げると、国王はまたセレンの頭に手を乗せて、今度はぐりぐりと頭を撫でた。
「我が息子は逃げ出してしまったようだが、姫はきちんと謝るのだな。よくできた御子だ。これからは母に恥ずかしくないよう振舞いなさい」
「はい」
セレンがうなずくと、国王は髭の向こうでにっこりと微笑んで、そして立ち去って行った。
母も、舞踏会会場に戻っていく。
それからセレンは、料理長にも謝り、事件の前と同じくもてなしてもらった。
新しい皿に新しいフォークを手渡されたが、ふと気になって見てみると、落ちていたはずのフォークは、いつの間にかテーブルの上に戻されていた。
落ちた皿と一緒に置いてある。間違いないだろう。
どうして?
セレンは皿とフォークを見て、首を傾げる。
危ない。新しいフォークだと思って誰かが使ってはいけないわ。拾った人は、どうして下げなかったのかしら。
そのままにはしておけず、テーブルのそばに控えていたメイドに落としたことを告げると、片付けてくれた。
これでなにもかも、元通り。
なにごともなかったかのように、舞踏会は終わった。
そしてセレンは、舞踏会にいる王子さまは、必ずしも素敵ではないということを学んだのだった。