18. 王妃はお皿を空にする
「お話しくださって、ありがとうございます」
セレンは軽く頭を下げた。
もちろんこのお茶会が、セレンを見定めるために開かれたという見解は、間違いないとは思う。
けれど、先々王の優しさとして、巻き込まれたセレンのために疑問を解いておいてあげようという気持ちもあるのだと思う。
だとしたら、もうこの際、なんでも訊いておけ。
もし怒りを買ったら、最悪、権力を笠に着て母に連絡してみよう。
今のエイゼン国王は母の兄だし、その場合は上手いこととりなしてもらおう。
そこまで考えて、うん、と一つうなずく。調子に乗り過ぎてはいけないし、実際に権力を振りかざすようなことをするつもりもないけれど、これはなかなか心強い。
セレンの前では、先々王は面白そうに口の端を上げている。
あとは。
もう一つ、はっきりさせたいことがあるにはある。
けれどさすがに、少し訊きづらい。
なのでセレンはもじもじしながら、恐る恐る口を開いた。
「あの、母に……」
「レイリー殿?」
「ええと、母に、求婚なさったの……ですよね」
「そうだよ。有名な話だ」
苦笑しながら、先々王は肯定した。
酷い断り方をしたというなら自分が代わって謝罪するべきなのでは、と考えていると、先々王は思わぬことを言いだした。
「ちなみに、『エイゼンの至宝』と言い出したのは、この余だよ」
いたずらっぽく笑って、そう言う。
なんと。
「まあ」
「さすがにここまで広まるとは思ってはいなかったんだけれどね」
先々王は、花壇の花に目を移す。そして風に揺れる槍水仙を眩しそうに眺めながら続けた。
「クラッセとエイゼンでは国力にさほど差はなかったけれど、まさか断られるとは思っていなかったから、余計に意地になってしまったかな」
先々王は、小さく笑って肩をすくめた。
「当時王子だった自分は、文を毎日のように送った。けれど、どうしても良い返事がもらえない。贈り物もしたし、会いにも行った。これだけやっているのに、なかなか手に入らない。そうするとエイゼン側も大事に大事に隠してしまってなかなか会わせてもらえない。元々、エイゼン王は末姫に甘くて有名だったしね。だから、『至宝』と呼んだ」
「なるほど」
当時のエイゼン王は今では隠居しているが、確かに母に甘かったかもしれない。
セレンには祖父に当たる人だが、国が違うこともあって、さほど会ったことはない。
だが会ったときには、母だけでなくセレンにも甘くて甘くて、なんでもわがままを聞こうとするので、父と母が困っていた記憶がある。
「気が付いたときには、『エイゼンの至宝』という言葉が、広まりに広まっていてね」
先々王は困ったように、眉尻を下げる。
そして答えをうながすように、セレンのほうに手のひらを指し示しながら言った。
「さて、『エイゼンの至宝』という言葉が一人歩きを始めると、どうなったと思う?」
「どう、なったんですか?」
「母君のもとに、求婚者が殺到し始めたのだよ」
クラッセ王子の求愛に、まったく応えないエイゼン王女。けれど諦めないクラッセ王子。
どれだけの美貌なのだろう、どんな美姫なのだろう。では自分ならどうだろう?
噂だけが一人歩きをして、会ったこともないような人や、交流のほとんどない国からの申し出もあったそうだ。
「で、まあ、噂の元を断とうと思ったのかな、余に会いたい、と母君から申し出があった。そりゃあもう、浮かれたよ。やっと自分の想いが通じたか、と思った」
「でも……」
「そう、はっきり断られるために呼び出されたのだね」
先々王は、どこか楽しそうだった。
小さく笑ったあと、少し母の口調を真似た。
「『わたくしはあなたとは結婚しません』」
「ああ……」
「とまあ、きっぱりと言われたよ」
そう言って、くつくつと喉の奥で笑う。
懐かしい、そして輝かしい思い出話をするかのような、そんな表情だった。
先々王の中ではもう完全に方が付いたことなのだろうというのはわかる。
けれど未だにそれが『エイゼンの至宝』という言葉とともに語られるというのは、なんだか申し訳ない。
「そのとき母が酷い断り方をしたと、つい先日、聞きました。それが本当なら、母に代わって……」
「ああ、それはかなり誇張されているから。面白おかしく話が広まっているのだね」
そう言って先々王は、頭を下げようとするセレンを手を立てて制する。
「そうなんですか」
「ただ、そのとき、こちらの人間が怒り出してね」
先々王は、小さくため息をついた。
「レイリー殿には、申し訳ないことをしたと思う。謝罪するなら余のほうだ」
椅子に深く腰掛けて、背もたれに身体を預けて、先々王は目を閉じた。
その当時のことを、頭の中で思い浮かべているのだろう。
しばらくそうしたあと、身体を起こすと、口を開く。
「王子の求婚を断るとはどういうことだと。こちらは第一王子だし、あちらは末姫だからね。馬鹿にされたと感じたのだろう。危うくエイゼンとの国交に影響を与えるところだった」
「国交に影響?」
「そう。お互い、自国を宥めるのに苦労した。二人は友好関係にあると思わせるために文を交わしたり、会って交流したり。もちろん怒り狂っている者たちを説得したり。そうするうちに、なんとなくお互い戦友のような気持ちになってね。いつの間にか求婚という話は立ち消えた」
先々王は苦笑しながらそう説明する。
思わず安堵のため息が出た。
それは、結構な危機だったのではないのだろうか。
「その様子に他の求婚者たちも腰が引けたらしくて、いなくなっていったね。その後、レイリー殿がマッティアに嫁ぐと発表されて、完全に落ち着いた」
母はそのとき、どう思っていたのだろう。
通常、王族同士の婚姻を、そこまで表沙汰にして断るなどということはない。というより、断った、という話を聞いたことがない。きっと水面下でお断りをすることはあるだろうけれど、表には出てこない。
本来ならば、母もそうするべきだった。けれど先々王が表立って求婚したために、表立って断るしかなかったのだ。
いや。この場合、王族に生まれた人間は、断らない、という選択肢を選ぶのが普通だ。
それでも自分の意思を貫き通した結果、大騒動になってしまった。
「その後、面白そうな話だけが残った。そして『エイゼンの至宝』という言葉に、気が強い、という情報が加わったのだね」
あの大暴れ舞踏会が終わって、母に叱られたとき。
『王族に生まれたからには、自分の発言一つで、何百何千という命が失われる可能性を考えなさい』
母はそう言っていた。
自分の発言が引き起こした実体験が元だったのだろう。
ああ、それで……。やけに説得力があると思いました……。
どう考えても、母がこの目の前の人と婚姻するのが一番早く落ち着ける方法なのではないだろうか。
それでも二人は結婚しなかった。
もし結ばれていたら、セレンはこの世に存在していないが、そこは気になる。
「あのう、お断わりした理由は、言っていましたか?」
口にした直後に、生理的に嫌だから、とかだったらどうしよう、と思ったが、先々王はうなずきながら軽い口調で返してきた。
「ああ、もちろん。余がクラッセの王子だからだそうだよ」
「えーと……?」
「力がありすぎる、と言うんだ」
それから先々王は詳しく教えてくれた。
エイゼンの末姫、ということで蝶よ花よと育てられた母は、けれどもその境遇に疑問を感じていたようなのだ。
ただ笑ってそこにいればいい。
母に求められるのはそれだけ。
「力があるかどうかはわからないけれど、それでも自分の力を活かせる場所に行きたい、と言うんだ。余がいずれ即位して彼女を妃とするならば、確かに彼女に求めるものは、それ以外になかったかもしれない」
「はあ……」
先々王は立派な髭をしごきながら続ける。
「マッティアに嫁ぐと聞いたときには、さもありなん、と思ったかな」
「でもっ」
母は、ただ、弱小国のマッティアに嫁ぎたかったのか。そこでなら、自分の力が発揮できるからと。
母はマッティアにおいて、国王である父よりも崇拝されている。それは、弱小国に嫁いでくれた美姫、母の祖国エイゼンからの援助、それだけが理由ではないのだ。
事実、母はマッティアではある程度の実権を握ってしまっている。もちろん父がなにもしていないとは言わない。けれど母の力がなければ、渓谷の国マッティアは、あそこまで安定はしていないのではないかと思う。
観光地にするように土地や宿泊施設を整えたり、安定した生活を送れるように水路や貿易路を整備するよう進言したのは母だ。
さらに言えばそれらには結果がついてきた。だからこその実権だ。
でも。
二人を一番近くで見てきたセレンは知っているのだ。
「父と母は、愛し合っているように見えます」
「なら、よかった」
そう言って、先々王は眩しそうに目を細めた。
「美貌もだが、聡明で心優しくて、そこが彼女の魅力だったからね。もし自分の力が奮えるならどこでもいい、というなら興ざめだったよ。でも」
「でも?」
「余は、君を見ていたからね。きっと愛し合う二人に育てられたのだろう、とは思っていた」
そうしてセレンを見て、微笑む。
あの舞踏会のとき、頭を撫でられたことを思い出した。
とても大きくて、優しい手だった。
つい、甘えたくなってしまうような。
だからついでに甘えてしまおう。
「あの、国王陛下は……大丈夫だと思いますか?」
「レグルスかね」
「はい」
「あれでも、きちんと仕事はしているよ。なかなか良くやっている」
その言葉に、ほっと息を吐く。
セレンの前では気弱なところをよく見せるので少し心配だったけれど、先々王に言われると、なんだか安心できた。
「もう、余もそろそろ、完全に隠居するときが来たのだと感じている。それこそが、レグルスが一人立ちするときがきた、という合図の気がしているのだがね」
それはかなりの高評価なのではないのだろうか。
彼がレグルスを見定める時間は、もう終わりに近づいている。
「まあ、余も賢王には程遠い人間だったから、言われても嬉しくないかもしれないがね」
「そんなことは」
だが彼は、首を横に振った。
早々に表舞台から姿を消さなければならないほど内部は乱れていたから、それを気に病んでいるのかもしれない。
だが今もクラッセは大国としての体裁を崩してはおらず、世は平和だ。
それは十分に評価されるべき事柄ではないか。
「隠居して、なにかなさりたいことでも?」
「そうだね、余というより、妻二人が余をいじめたくてたまらないらしいよ」
そう言って、軽く握った手を口元に当て、小さく笑って肩を揺らす。
「二人は離宮で一緒に住んでいるんだがね。実はこのあとも、呼び出されている」
「まあ」
セレンが、ふふ、笑うと、彼は大仰に肩を落としてみせた。
離宮に行って、どんな風にいじめられるのだろうか。
二人の妃は先々王を敵と認識している、とは言っていたが、いじめるためとはいえ呼び出すくらいだから、情の一つや二つはあるのかもしれない。
「それを甘んじて受け入れるのが、余のやりたいことかな」
「やりたいんですか」
「そうだよ。二人の愚痴を聞いて余生を過ごすのも悪くない」
そして先々王は、侍女に向かって手を上げた。侍女は一礼して、身を翻してどこかに行ってしまう。
それを見送ったあと、彼はセレンのほうに振り向いた。
「実はね、君に、お詫びというわけではないのだけれど、食事を用意させている。離宮に行くまでの時間、少々付き合ってもらえるかな」
「ええ、それはもちろん」
少しして、給仕台を引いて侍女が戻ってきた。
侍女とともに、もう一人、男性も。
あれは。
彼はテーブルの横にたどり着くと、セレンに向かって微笑み、そして一礼した。
「お久しぶりです、姫君。いや、今は王妃殿下ですね」
白い調理服を着て、頭を下げるこの人は。
「まあ! お久しぶりだわ」
セレンは思わず声を上げた。
あの舞踏会のときの料理長だ。あまり風貌が変わっていないので、すぐにわかった。
「覚えておいででしたか」
「それはもちろん。あのときの鶏は、とても美味しかったもの」
「やはり王妃殿下は、料理人冥利に尽きることを仰る」
そう言って嬉しそうに笑う。
それから内緒話をするように、密やかに言った。
「実は、王妃殿下が後宮に入られてから、私が王宮で調理したものを持ち込んだことがありますよ」
「やっぱり!」
セレンは手を叩いた。
「グラファイス伯爵夫人の……」
「そうです、そうです。気付かれましたか」
料理人は、嬉しそうに何度もうなずいた。
「だって同じ味だったもの。変わらず、とても美味しかったわ」
「そう言っていただけると。実は、いつも残されるので、少々心配しておりました」
そう言って眉尻を下げる。
いや、残したくはなかった。残したくなんてなかったのだ。
「だって、クラッセではそうするのがマナーだって聞いたから」
「ええ、そうです。でも私としては、あれは悪しき慣習と思っておりましてね。実は少々、期待しておりました」
「そうなの」
そういえばあのとき、シラーが言ったのだ。
こちらの料理はお口に合いまして? と。
「それは申し訳ないことをしてしまったわ」
「いいえ、王妃殿下のお立場であれば、仕方のないこととは理解しております。けれど、ほんの少し、皿が空くことを勝手に期待していたのです」
「本当は危なかったのよ。危うく平らげるところだったわ」
そう言って笑うと、料理人も笑った。
「それはようございました」
そこで先々王が口を挟んできた。
「実は、彼も離宮に連れて行っているのだよ。だから王宮や後宮で出されるものは、すべて弟子が作るものだね」
「まあ、それは残念だわ。けれどお弟子の方たちが作るものも、本当に美味しいんですよ」
そう言うと料理人は、伝えておきます、と微笑んで一礼した。
「実は、セレン妃殿下はきっと残さず食べるだろうと皆で言っていたのですが、こちらのマナーに合わせているのか一口残すので、弟子たちが泣きついてきたのです」
「あら……」
まさかそんなことになっているとは。
今までなんてもったいないことをしてきたのか。
「それであのときだけ私が調理させてもらったのですが、それでも残されたので、弟子たちも諦めたようです」
「そうだったの」
「でも私としては、そこですべて食べていただいたほうが良かったのですが」
料理人は、少々大げさに肩を落として、がっくりしてみせた。
あああ、言ってくれれば思う存分食べたのに。なんて惜しいことをしたんだろう、と思う。
「まあ、ごめんなさい。それなら食べておけばよかったわ。本当は食べたかったのに」
セレンが本当に残念に思いながらそう言うと、先々王が返してきた。
「今日は、余と二人だけの会食だ。マナーなど気にせず、食べてくれ」
「本当に? 嬉しい!」
そう言って手を叩くと、二人は笑った。
あのときのことを、三人とも、思い出したのかもしれない。
侍女が給仕台の上にある皿やカトラリーを、テーブルの上に並べていく。
立派な食事会が用意されていく。
そして出された食事は、やはりあの鶏だった。
料理人は、皿の上にある鶏にスプーンでソースを掛けながら、言う。
「今日のソースは、あのときよりも、少し辛味を加えております」
そう言われてナイフとフォークを手に取り、鶏肉を一口、口にすると、確かに少々濃厚で味わい深い感じがした。
「大人の味ということかしら?」
「そうですね。あの頃はあどけない少女であらせられましたが、今はもう慎み深い淑女になられたようですから」
「それはどうかしら」
少し眉根を寄せてみせると、料理人も先々王も笑った。
もちろんセレンは出された食事をすべて食べたが、先々王もセレンに倣ってすべて食べた。そして料理人は、それを見て満足げにうなずいていた。
そうして、先々王とセレンの、二人だけの会食は、終わった。