14. 王妃は深くため息をつく
その日。
昼過ぎには、王宮の侍女がレグルスの渡りを言いに来たのだが。
だが彼は星が瞬く時間になっても、一向に現れなかった。
セレンは夕食を終えてから、じっと席に座って待っていたのだが、侍女たちが落ち着かなくなってきている。
「遅いわね」
セレンがそう言うと、彼女らは顔を見合わせる。
「なにかあったのでしょうか」
いつもなら、もうとうに来ている時刻だ。
とはいえ、多少遅れたからといっても、どうということはない。
どうせこれからの時間は、レグルスとセレンが語り合うだけの時間でしかない。
けれどセレンにとっては、とても大事な二人だけの時間だった。
夫婦としての繋がりがない二人の、それでもお互いを理解していこうとしている貴重な時間のはずだった。
どうしてだろう、胸騒ぎが収まらない。
「お迎えに行きます」
「えっ」
なぜだか、嫌な予感がする。
セレンはすっくと立ち上がって、早足で部屋を出る。
「姫……妃殿下、お待ちください!」
タナとフェールの制止の声も無視して、すたすたと歩く。
今の自分がどんな表情をしているかだなんて考えたくもないし、彼女らに見せたくもない。
そして回廊を曲がってすぐ。レグルスの背中が見えた。少し安心して、ほっと息を吐きだす。
もうこんなに近くに来ていたんだ。だったら焦ることはなかったかしら。
やっぱりいろいろ、考えすぎているのだわ。
そう思って胸を撫で下ろす。
嫌だ、焦って迎えに来ただなんて知られたら恥ずかしい。
そっと部屋に戻ろうかしら、けれどその姿を見られて誤魔化そうとしたのが知られてしまったら、もっと恥ずかしい。
ここはもう、待ちきれなくて出迎えに来たと開き直ってしまおう、と足を一歩踏み出す。
だが。
彼の陰に、もう一人誰かがいるのが目に入った。
思わずその場に立ち止まる。
間違いない。あの黒髪。蠱惑的な身体の線。
シャウラだ。
こちらに背中を向けているレグルスは、セレンには気付いていないようだった。
だがシャウラは気が付いたようで、こちらを横目で見て、すっと身体をレグルスに寄せる。
レグルスの手が上がって、彼女の肩に置かれたのが見えた。
後ろからタナとフェールが追いついてきて、息を整えながら言う。
「姫さま、待ってくださいよ」
「待たない」
「えっ」
そして身を翻し、自室に戻ろうと歩き出す。
タナとフェールの横を、なにも言わずにすり抜けた。
「なに……あっ」
タナも人影に気付いたらしい。
「姫さまっ」
フェールの制止の声も聞かず、セレンは歩き続ける。
なにあれ。
これから私の部屋に渡るのではなかったの?
それなのに、どうしてあの女と一緒にいるの?
いったい、どういうことなのよ。なにか説明できる理由があるの?
訊きたい。でも、聞きたくない。
心配そうに待っていたクラッセの侍女たちが、セレンが帰ってきたと同時に顔を上げる。
けれど今、セレンには微笑む余裕はなかった。
自分の口から、こわばった声が絞り出される。
「陛下がこちらに来られても、お断りしてください」
「えっ?」
「セレン妃殿下?」
「急に具合が悪くなったので」
それだけ言うと、すたすたと寝所に入る。
「王妃殿下!」
呼び止められる声を聞いたが、構わず扉を閉める。
思いの外、大きな音で扉が閉まって、身をすくめた。
なんてみっともないんだろう。
自分の思い通りにいかないからって、当たり散らして。
側室だなんて、さして珍しい話ではない。
どうしても抱きたくないのなら、セレンは世継ぎを産むことはできない。
だったら、側室が必要なのは当たり前ではないか。
でも。
そんなことなら、期待なんてさせないでいて欲しかった。
最初から、私の部屋になんて通わなければよかったではないか。
喜ばせるために、遠乗りなんてしなければよかったではないか。
あのとき、頬に口づけしなければよかったではないか。
「もうっ!」
足を振り上げて、どすどすとベッドを踏みしめる。
「あ」
シーツが、汚れる。
「靴……」
履いたままだった。
「もう……やだ」
ぺたりとその場に座り込んで、手でシーツの上をはたはたと叩いた。それで、少しは汚れが落ちる。
「もう……ほんと、やだ」
セレンはそのまま、ベッドに顔を埋めた。
寝所の外がざわざわとしている。
きっと、レグルスがやってきたのだ。
お断りして、とは言ったけれど、彼女らが国王を追い返せるはずもない。
寝所の扉がノックされる。
「セレン?」
レグルスの声がする。
「遅くなってごめんね。それで、具合が悪いって聞いたんだけど」
本当に心配しているような、声音。
では、二人でいるところを見られたとは思っていないのか。
扉のほうに向かって、ズルズルとはいずって行く。
「ええ、申し訳ありません。少し……、お腹が痛くて。だから今日はお引き取りいただけますか」
「お腹? なにか……あっ、ああ、うん、わかった。じゃあ、今日は帰るよ。お大事にね」
あっさりと引き下がる。少し寂しかった。
いや、けれど、追い返したのはセレンのほうだ。そんなことを言う筋合いはない。
耳をそばだてていると、扉の外で、彼が立ち去っていく足音が聞こえた。
もし今、この扉を開けて、行かないで、とすがったら、なにか変わるのだろうか。まさか。
はあ、とため息をついて、扉にすがる。
そろそろ覚悟を決めなくてはいけないのかもしれない、と思った。
◇
それから十日ほど経って、レグルスは後宮へやってきた。
「セレン? もう身体の調子はいいの?」
席に座る前から、そう尋ねてくる。
「ええ、もうすっかり」
元々、お腹なんて痛くなかった。調子が良くなるも悪くなるもない。
「それならよかった」
そう言って、にっこりと微笑む。
反則技の笑顔のはずだが、なぜか気分が落ち込んでいく。
だってその笑顔は、私だけに向けられているものではないのでしょう?
レグルスはテーブルに肘をついて身を乗り出すようにして言ってくる。
「ねえ、また近いうちに遠乗りに行こう」
「えっ」
「今度はもっと遠くに行けたらいいね」
そう言って微笑む。
本当なら、とても嬉しいお誘いのはずなのに、以前のように喜ぶことができない。
行けたらいい。そう思っていた。
思っていたのだけれど。
浮かない表情をしていたのを、さすがにレグルスも気付いたのだろう。
首を傾げて問うてくる。
「まだ具合が悪い?」
ぶんぶんと首を横に振る。口を開いたら、涙が溢れてきそうだった。
「遠乗り、行きたくない?」
「そんなことは……」
行きたかった。おねだりしよう、だなんて思っていたのに。
どうしてもあの浮かれた気持ちが湧いてこない。
すると彼は、見当違いなことを言い始めた。
「あの、もしかしたら、怒っている?」
「……わたくしが? なにを?」
「遠乗りのとき……、ええと、口づけしたのを……」
俯いたまま、首を横に振る。
怒ってなんて、いない。
本当に、嬉しかったのだ。
ただ、あれが、愛情からきたものではないのではないか、と思って、悲しくなっているだけ。
シャウラには、もっと触れているのかと思うと、虚しくなってくるだけ。
ぱっと顔を上げる。
レグルスが少し、狼狽したように見えた。
「怒ってなんて、いません」
「そう……?」
言葉とうらはらな表情を見たのか。彼は納得していないようだった。
そして探るように言葉を発してくる。
「ところで、舞踏会はどうだった? 皆、とてもセレンを褒めていたよ」
「そんなこと」
「本当に。私は楽しかったけれど、セレンはどうだった?」
「楽しかった……です」
楽しかった。あのときは。
ただ、本当に舞踏会に参加するのは私で良かったのだろうか、という考えが頭から離れない。
踊りも苦手で、挨拶も一人ではままならなくて。
シャウラなら、セレンよりも上手くやれるのだろうか。
「でも、わたくし、そんな褒められるようにはできなかった」
「そんなことはないよ?」
「皆さま、気を遣っていらっしゃるのですわ」
「もしかして、それを気にしているの?」
「気にして……いるわけでは……」
ただ、もっと適任な妃がいるのではないかと思うだけ。
「大丈夫だよ、皆、喜んでいたし。そんなに心配しなくても」
レグルスはそう言葉を重ねる。セレンを励まそうとしてくれている。
どうしてこんなに彼を困らせているのだろう。
セレンは妃なのだから、愛情があろうがなかろうが、国王を支えなければならない。
母が言っていた。
『ああー、心配。本当に心配だわ』
『クラッセ国王妃なんて本当につとまるのかしら』
その通りだ。母の心配はきっと的中している。
セレンはきっと、王妃となるには未熟すぎたのだ。
劣化版だから。
膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
覚悟を決めると、ゆっくりと顔を上げた。
レグルスはなにも言わず、こちらを見て目を瞬かせている。
「……側室を迎えられてもいいんですのよ?」
「……えっ?」
「わたくしも、王妃となるからには、それくらいの覚悟はして参りましたもの」
そして、微笑む。ちゃんと笑えているだろうか。悔しさに、表情が歪んでいないだろうか。
レグルスの戸惑うような声が返ってくる。
「どうしたの? 急に」
「急ではありません。ずっと考えていました」
そしてしばらくの沈黙。
「……そう。わかった」
レグルスはそう言って立ち上がる。
「陛下」
「私も、よく、考えてみる」
そして彼は、こちらを振り向かないまま、部屋を出て行ってしまった。
言った言葉は呑み込めない。
本当は、側室なんて迎えて欲しくない。
側室などいらない、妃は一人でいい、と言って欲しかった。
自分で決めたはずなのに、なんて勝手な言い草だろう。
そんなこと、あるはずないのに。
くすくす、くすくす。
この場にいないのに、シャウラの笑い声が、耳元で聞こえた気がした。
◇
それからも、彼女とは何度も後宮内で鉢合わせするようになった。
そしてそのたび、くすくすと嘲笑を向けられた。
「姫……妃殿下、野放しにしすぎではないですか」
「ああ、シャウラ?」
「そうですわ! いくらなんでも無礼です。姫さまは王妃なんですよっ?」
セレンよりも、タナやフェールほうが憤慨している。
「まあ……放っておきましょうよ」
「ええ? でも放っているからあんなに調子に乗っているんですよ」
「いいのよ。放っておいても」
「そう……ですか?」
なんというか、怒る気力が湧いてこないのだ。
タナとフェールは顔を見合わせたあと、気を取り直したように言い連ねた。
「そうですわよね、姫さまは王妃なのですもの。堂々としていればいいのですわ」
「ええ、そうです。国内外にいたって、姫さまが正室であることは、ゆるぎない事実ですもの」
けれど。
どれだけの人がセレンを正室と認めていようとも。
でも、現実的に、セレンはまだ王妃ではない。少なくとも、レグルスにとっては。
はあ、と深くため息をつく。
侍女たちが心配げな視線を向けていることにも気付かないほど、セレンはそのとき、重く重く沈んでいた。