13. 王妃は舞踏会に参加する
ついに恐れていた事態がやってきた。
ああ、どうしよう。どうしたらいいの。
けれど、それを避けて通るわけにはいかない。
「セレン妃殿下、ドレスはこれでよろしいでしょうか?」
シラーが、紺桔梗の色のドレスを手に持って、セレンの前に立つ。
「セレン妃殿下は肌の色が白くていらっしゃるから、こういった濃い色合いのものが、肌が映えていいと思うのですよ」
「え、ええ、ではそれで」
そう言うと、侍女たちがいつもよりも華やいだ声で、話し合い始めた。
「じゃあ、ネックレスはどれがいいかしら」
「これはどう?」
「石は薄い色合いのがいいんじゃない?」
「同色で揃えるのはどう?」
きゃっきゃっ、とはしゃぎながら、机の上に置かれた装飾品が並べられた箱から選んでいる。
クラッセの侍女たちの中に入って、タナとフェールも楽しそうに話をしている。
上手くやっているようで、なによりです。
正直なところ、ドレスだの宝石だのには、さほど興味はない。
だから、彼女たちに任せたほうがいいだろう。自分で選ぶととんでもない組み合わせになってしまうかもしれないし、クラッセにはクラッセの流行りというものもあると思う。
一つ一つ、これはどうかと確認しに来るが、うなずいておけばきっと最善のものを選んでくれる。
問題は、そこではない。
舞踏会なる代物が、今夜、王宮にて開催されるのだ。
はあ、とため息をつくと、シラーが目ざとくそれを見つけたようだった。
「いかがなさいましたか、セレン妃殿下」
「えっ、いえ、なんでも」
「王妃殿下は、舞踏会が苦手でいらっしゃるんですよ」
フェールが口を挟んできた。要らぬことを。
シラーは少し驚いたように、口元に手を当てた。
「あらまあ、そうなんですか」
「え、ええ、情けないことなんですけれど」
マッティアでは、舞踏会なんて代物が、あまり開催されていなかった。
母はそれがとても不服だったようで、王城で何度か開いたのだけれど、セレンは参加しても結局、食事にばかり興味を示してしまっていたのだ。
美味しい料理に舌鼓を打つ王女をダンスに誘う勇気のある者は、マッティアにはほとんどいなかった。
「舞踏会、というか、ダンスのほうが苦手で……」
虚勢を張っても仕方ない。正直に、肩を落としてそう言う。
すると、シラーはにっこりと笑って返してきた。
「そういうことなら、陛下にお任せしておけばよろしいですよ」
「え?」
「陛下は、王太后さま方にいろいろと鍛えられておりますからね。幼い頃から舞踏会には散々参加させられておりましたし。今ではもう慣れたものですよ」
「それなら頼りにしようかしら」
ではレグルスに引っついていれば、大丈夫なのだろうか。
なにせセレンのほうはと言えば、舞踏会の初参加の結果が、大暴れ、という有様だ。
その後の舞踏会でも、さして踊ったことはない。
兄たちもあまり興味なさそうで、少ししたら抜け出して、三人で剣を打ち合ったりなんてしてたなあ、と懐かしく思い返す。
今度、兄さまたちに文を書こう、と思う。
ちゃんと舞踏会に参加しておいたほうがいいですよ、って。あれでも彼たちは王子なのだから。
セレンが言っても説得力はないだろうけれど。
侍女たちの、ドレスや装飾品や靴の選定が終了して、着替えさせられる。
姿見を覗くと紺桔梗色のドレスは、確かにシラーの言う通り、セレンの肌の色を透き通るかのように見せている。
しかし肩をほとんど見せるように開いた襟元が、なんだか自分では心細い。
「よくお似合いです」
とシラーが言うし、侍女たちも満足げに微笑んでいるから、良い出来栄えではあるのだろう。
せっかく選んでもらったのだし、肩のことは気にしないようにしよう、と思う。
「では参りましょう。陛下もきっと待ちかねておられます」
シラーにうながされ、後宮を出て、王宮に向かう。
王宮に到着すると、一つの部屋に通された。どうやら控室らしい。
「陛下を呼んで参りますから、少々お待ちを」
侍女の一人にそう言われて、用意された椅子に座る。
じっと座っていると、なんだか落ち着かなくなってきた。
「ええと、大丈夫かしら」
「セレン妃殿下?」
シラーが首を傾げる。
気にしないようにしよう、としても、やっぱり少し不安になってきた。
「このドレス、少し肩が開きすぎていないかしら。いえ、ドレスが変って意味ではなくて、わたくしが、変じゃないかしら」
鎖骨も思いっきり見えているし、今まで肩なんて気にしたことがない。
肌が荒れたりしていないだろうか。
「髪は落ちてきていない? わたくしの髪、あまり引っかからなくて、すぐ落ちたりしてしまうの」
落ちてきた髪をその場で直す技術をセレンは持っていない。みっともなくないだろうか。
「まあ、セレン妃殿下、大丈夫ですよ。お美しいですわ」
にっこり笑ってシラーが言うから、ほっと息を吐く。
「そ、そう? 陛下は気に入ってくださるかしら」
けれどなんだかそわそわしてしまって、さらに口を開いた。
レグルスは、私を見てなんて思うだろう。似合わない、だなんて思わないだろうか。
「あら」
シラーはセレンの言葉を聞いて、小さく笑った。
そこで、部屋の扉が開いた。
「セレン、お待たせ」
部屋に入ってきたレグルスはすぐさま微笑んで、そして、さらりと言った。
「今日はまた、一段と綺麗だね。国中を探して集めたどんな美しい花も、セレンには敵わないのではないかな」
ひー!
ど、ど、ど、どうしてこの人は!
「あ、ありがとうございます」
なぜそんな風に、なんの抵抗もなく、嬉しがらせを言うのか。
好きだと自覚してしまったからか、破壊力が半端ない。
「あ、あの、陛下も……」
レグルスも正装を着用している。
白に近いグレーのスーツは縁に金糸の刺繍が施され、その上から萌黄色のコートを羽織っている。
「ああ、でも舞踏会の華は女性だから。こちらは地味だろう? 私は今日は、美しい妃を披露する引き立て役になるよ」
そんなことはない、とても素敵に見える。
だからレグルスみたいに、さらっと褒めたいのに、頬が熱くなるばかりで口が動かない。
「では行こう」
そう言って、手を差し出してくる。
その手に自分の手を乗せると、やはり彼は優しく包み込むようにセレンの指を握った。
「少々わずらわしいかもしれないけれど、皆、我が妃を見たいとお待ちかねだったから」
「わたくし、自信がなくて……」
「自信? 大丈夫だよ、とても綺麗だから。胸を張って」
「は、はい」
言われたように、背筋を伸ばす。
そうだ、堂々としていなくちゃ。私が俯くばかりでは、彼に恥をかかせてしまうに違いない。
それから部屋を出て、会場に向かう道すがら、いろんな人に声を掛けられた。
「ご尊顔を拝しまして、陛下。おや、麗しいお妃さまをお連れになっておられますな」
「まあ陛下、ご機嫌麗しく。王妃殿下には、先日ご挨拶させていただきましたのよ」
一歩進むごとに、話しかけられている気がする。
ほとんどレグルスがにこやかに応対して、セレンは結局、扇越しに「ご機嫌よう」だの「ご無沙汰いたしております」だの「嬉しゅうございます」だの言っておけばいい状態だった。
シラーの言っていた通りだ。
広間に入ると、波が引くように人だかりが動いた。その真ん中を二人で並んで歩く。
先には一段高いところに玉座が用意されていて、そこに向かう。
レグルスはそこまでセレンを導いてから、耳元で小声で言った。
「私が着席したら、座ってもいいからね。それまでは申し訳ないけれど立っていて。簡単に済ませるから」
「はい」
少々緊張しているから、言ってくれて助かった。なにも言われなかったら、もしかしたら失敗していたかもしれない。
威厳がない、だなんて最初に思ってしまったけれど、彼はとても頼りになる。
セレンはレグルスの横顔を見上げて、眩しく見つめた。
レグルスは一歩前に出ると、声を張った。
「皆、本日は足を運んでいただき、感謝する」
その声で、ざわついていた会場が、一気にしん、となる。
「妃を迎えたことを皆知っているだろうが、申し訳ない、独り占めしたくて後宮に閉じ込めてしまった」
そこで小さな笑い声が聞こえた。
レグルス自身がおどけたような口調で言ったからだろう。
「しかし我が妃も皆と交流したいと言うので、不承不承連れ出してきた。披露も兼ねてのこの場、どうか堅苦しいことは抜きで、ゆるりと楽しんでいただきたい。では」
レグルスがちらりと音楽隊を見やると、それを測って曲が流れだした。
集まっていた者たちは、自然と歓談を始め、踊りだす者もちらほらと現れる。
レグルスが着席するのを見て、セレンも座る。
少しだけ身を乗り出して、レグルスのほうに向かって言った。
「ありがとうございます」
「え?」
「わたくしを、立ててくださって」
交流したいだなんて、一言も言っていない。閉じ込められた覚えもない。
要は、セレンの立場を考えた発言だった。
「ああ言ったほうが、好評だから言っただけだよ。堅苦しい挨拶なんて、誰も聞きたくないだろうし。さっさと始めたほうがありがたがられる」
そう言って笑う。
シラーがいつの間にか背後に立っていて、少し落ちてきていた髪を直してくれた。
「王妃殿下、わたくしがおりますから、安心なさってくださいね」
「ありがとう」
少しすると、入れ替わり立ち替わりで人々が挨拶にやってくる。
多少は見た顔がわかるが、初対面なのか会ったことがあるのか判断が難しくて、シラーが背後からさりげなく補佐してくれる。
ほほほ、と優雅に微笑みながら、挨拶を返すだけで、どっと疲れが押し寄せてくるようだ。
これでも一応、勉強はしたのだ。
爵位やら領地の状態やら、一応は覚えようと努力はしたのだが、やはり一人だけでは心もとないので、シラーがいてくれて本当に助かった。
しばらくして、初老の女性が一人、前に立った。
「ご機嫌麗しく、王妃殿下。お初にお目にかかります」
「ああ、ラリマー」
横からレグルスが女性に話しかけた。
その隙に、シラーが耳打ちする。
「クロサイト伯爵未亡人。昔から陛下を可愛がっておられますの」
昔から。では、第二王子だった頃から。
彼女はにっこりとこちらに微笑んだ。とても柔和な雰囲気の人だ。
「王妃殿下、実はわたくし、このような会では必ず陛下に一曲踊っていただいておりますの」
「まあ」
「ですから、今日もお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、それはもちろん」
うなずいて、レグルスのほうを見ると、彼も腰を浮かせていた。
だが、なぜか彼女は首を横に振った。
「いけません、陛下。まず最初に妻である王妃殿下と踊っていただかなくては。そのあと、お相手してくださいますか?」
「それもそうだね。では」
そう言って、レグルスは立ち上がって、セレンの前に手を差し出した。
うわあ、来た。やっぱり逃れられないわよね……。
蒼白になりつつ、レグルスの手を取って立ち上がる。
すると、一斉に視線がこちらを向いたのがわかった。
血の気が引く。
まずい。ほんっとーにまずい。
「どうかした?」
レグルスはこちらを覗き込むように言った。
セレンが硬直しているのがわかったのだろう。
隠していても仕方がない。シラーの言う通り、頼ればいいというのならば、頼ってみよう。
しかしそうは思っても、口にするのは少し勇気がいる。
「……私、実は……」
「なに?」
「実は、あまり、踊れなくて……」
なんだか冷や汗が出てきた。
まったく踊れないということはない。一応、母には教わっている。
けれど、とにかく場慣れしていない。
自分はいい。
けれど、レグルスに恥をかかせることになるのではないか。
けれど彼は、少し首を傾げて、軽い口調で言った。
「あまり、ってことは、全然、ではないのだよね?」
「ええ、まあ……」
「それなら大丈夫」
「えっ……、えっ?」
レグルスに手を引かれて、広間の中央へ導かれる。
あたふたとしながらも、されるがままに足を動かす。
「まあまあ、可愛らしい二人だこと」
「初々しくていらっしゃる」
そんな声が聞こえる。
仕方ない。ここまで来たら、覚悟を決めるしかない。
広間の真ん中に出ると、ドレスの裾を少し持ち上げて、一礼。
出された左手に右手を乗せると、彼の右腕がセレンの脇の下を通ってきて、ホールド。
そこまで、まったく自然にレグルスが導いた。
緊張で、頭がどうにかなりそうだ。
「なるべく身体、くっつけて。右半身」
「み、右」
「あとは任せて。どうせ足元はドレスで見えないから、間違えてもいいよ」
王と王妃のホールドを見て、合わせるように曲が流れだした。
すると彼が動き出す。
周りも負けじとお相手を伴って踊りだしたから、さほど周囲の目を気にしなくてもよくなった。
上手い。
それが、すぐにわかった。
足の運びを考えなくても、自然と身体が動くようだ。
セレンの実力をあっという間に把握したのか、無茶な動きはしてこない。
「なんだ、踊れないっていうから、すごいの想像してたのに」
笑いながら彼は言う。
「いいえ、陛下が本当に上手いから」
「そう? ありがとう」
耳に、周囲の声が届く。
「まあ、素敵」
「本当に仲が良くていらっしゃる」
「これならお世継ぎがお生まれになるのも、もうすぐだな」
聞き捨てならない発言も少々あったが、もう、気にならない。
こんなに楽しく踊れたのは、生まれて始めてだ。
ここまで身体が密着しているからだろうか。そのまま、その肩に顔を埋めたいような衝動にかられた。
まるで、抱き締められているみたいで、ぽうっとしてしまう。
いやいやいやいや。落ち着け。落ち着こう、私。
慌てて、口を開く。
「えっと、ラリマーさまとは、いつも踊っていらっしゃるとか」
「そうだよ。彼女は母上と友人でね。私の踊りが上手いというなら、彼女のおかげだよ」
「そうなんですか。とてもお優しい方ですよね」
おそらく、挨拶まみれで緊張しっぱなしのセレンを、その輪から外そうとしてくれたのだ。
王妃はあまり踊れない、というのは誤算だったかもしれないが。
「そうだね。何くれとなく気にかけてくださるよ」
「このあと踊られるのですよね、わたくし楽しみですわ」
「そう? 妬いてはくれないの?」
「えっ?」
やきもち? あの優しそうな人に? そんなこと。
どぎまぎしていると、レグルスは笑った。
「冗談だよ」
「ああ」
からかわれたのか。
「そんないじわるを仰るとは思いませんでした」
少し口を尖らせると、レグルスは噴き出した。
「まあ」
「ごめんね、かわいいと思って」
「かわっ……」
また一気に顔が熱くなる。
なんというか、手のひらの上で遊ばされているのかもしれない。
そして、曲が終わる。
ラリマーと交代して席に戻ろうとするが、その前にレグルスが声を張った。
「今日は我が妃は私一人のものだから、誰も誘わないでくれよ」
その言葉に、周りが笑いに包まれる。
「おやおや、これは王妃殿下は苦労される」
「陛下がこんなに束縛される方だなんて、先が思いやられますわね、王妃殿下」
また顔が真っ赤になってはいけないので、扇で顔を隠してぱたぱたと席に戻る。
間違いなく、踊りが苦手なセレンを気遣って言ってくれた。
席に戻ると、シラーが微笑む。
「わたくしが言った通りでございましょう?」
「ええ」
深く、うなずく。
彼に引っついていれば、大丈夫。とても優しく守ってくれる。
なのにどうして触れてくれないのだろう。
シャウラをどうして追い出してくれないのだろう。
つまり、彼の優しさは、側室を迎えたいがためのものではないのか。
いろんな女性と踊るレグルスを眩しく見つめる。
今は、さして不愉快ではない。やきもちなどという感情は湧いてこない。
でも。
妬いてはくれないの? と彼は言った。
いいえ、私は嫉妬している。醜く、嫉妬している。
側室という存在に。
王妃でありながら側室が許せないなんて、心が狭いのだと思う。
彼はとても優しい。
自分も、かくありたいと思うのに、心が言うことをきかない。
こんなことなら、好きだなんて自覚しなければ良かったのかしら、と扇の陰でため息をついた。




