11. 王妃は王と遠乗りする
「セレン、遠乗りに行こう!」
ある日突然、後宮に現れたレグルスは、にこにこと微笑みながら、そう言った。
待ってましたー!
「ぜひ!」
「では先に厩舎に行っているから、着替えておいでね」
そう言って立ち去っていく。
本当はあれから、自由に馬に乗ってもいいよ、とは言われていたのだが、さすがに贈り主を無視して自分だけが楽しむのは違う気がして、大人しく誘われる日を待っていたのだ。
優しいところばかりが目立って、威厳のなさが国王としていかがなものかと思われても、やはり彼はクラッセの国王をやっているわけで、当然、毎日忙しくしている。
なかなかまとまった時間が取れないようで、これは仮に一年後、だなんてことになってもいいように覚悟しておこう、だなんて考えていたのだけれど、どうやらなんとか時間を捻出してくれたらしい。
無理をさせてしまったかしら、と心配な気持ちもあるけれど、嬉しいものは嬉しい。
やったー! と叫び出したいのを堪えて、口元に両手を当てて、ふふふ、と笑う。
その様子を見ていたシラーは、にっこりと笑いながら、乗馬服を取り出してきた。
「これでよろしゅうございますか、王妃殿下」
「ええ、もちろん」
侍女たちに手伝ってもらい、ドレスを脱いで乗馬服に着替える。
そういえば、入国したときほどの豪華なものではないとはいえ、毎日どなたかに会うからいつもきちんとドレスを着る。
乗馬服のような軽装は、本当に久しぶりだ。なんだかほっと、人心地ついた気がする。
そんな風に、うきうきで着替えてから、厩舎に向かう。
厩舎内には、侍従たちが何人か待っていて。そしてその中心にレグルスがいた。
するとセレンの姿を認めたレグルスが、ひらひらと手を振ってくる。
「陛下」
駆け寄ると、彼の前に立った。
するとレグルスは、少し言いにくそうに謝罪してくる。
「ごめんね、このあと視察があるから、遠乗りといってもそんなに遠くまでは行けないんだけど」
セレンはふるふると首を横に振った。
「いいえ、わたくしのためにお時間をつくってくださっただけで」
「そう? それならよかった」
そしてまた、にっこりと笑う。だからそれ、反則なんだってば。
顔が赤くなってないかしら、そうだったら恥ずかしい。
そう思って俯く。
「王妃殿下、馬の用意ができました」
侍従がそう話しかけてくるので、救いとばかりに顔を上げる。
馬の手綱の根本あたりを持って侍従はこちらに歩いてきて、そして立ち止まる。
「久しぶりね!」
言いながら、自分の馬に駆け寄る。毎日の運動や世話は、厩舎番がしてくれるというのでセレンは手が出せず、あれ以来だ。
けれど馬は、セレンがわかるのか、鼻を鳴らした。
本当に、賢い子だわ。なんていい馬をくださったのかしら。
馬の前に立つと、ぎゅっと首に抱きつく。すると顔を摺り寄せてきた。
「わたくしを覚えているのね? いい子だわ」
そして鼻筋を撫でると、そこに軽く口づける。
「陛下、本当にありがとうございます」
そう言ってレグルスのほうに振り向くと。
彼は口元を真一文字に結んで、瞬きをしながらじっとこちらを見ていた。
……あれ。いつものように笑ってくれると思っていたのに。
もしかして、はしたなかったかしら……。
失敗してしまったのだろうか、と不安に思いながら彼の顔を見ていると、しかしすぐにいつもの笑顔に戻った。
その表情を見てほっとする。
一瞬だったし、勘違いかもしれない。いろいろ考えすぎてしまって、悪いほうへ悪いほうへと思考が傾いているのは否めない。
彼はいつものように優しい声音で語り掛けてくる。
「そんなに喜んでもらえて嬉しいよ。では行こうか」
「はい!」
先日、介助なしで馬に飛び乗ったのだ。下手なふりをするとか、もう考えない。
せっかくなのだから楽しもう、と心に決めた。
馬の背に乗ると、厩舎の門から外に出る。
振り返ると、レグルスだけでなく、ぞろぞろと侍従たちも騎乗して門から出てきた。
あ、そりゃそうか。国王と王妃だけで遠乗りなんて、そういえば無理よね。いや、マッティアではできたけれど。
クラッセの遠乗りは、セレンの知っている遠乗りとは違う。さすが、大国。
などと妙なところで感心してしまう。
見れば、いつも帯刀しているレグルスはもちろん、侍従たちも全員帯刀している。
マッティアでは父も兄も割合自由に王城に出入りしていたから、この厳重な警戒態勢に、身が縮こまる思いだ。
きっと、この遠乗りのために本当に無理してくれたんだわ。
二人きりでないのは、ほんの少し残念だけれど。
い、いやいやいやいや、残念とかないから!
遠乗りに出掛けられるだけで充分だから! 贅沢言っちゃダメ!
そんな風に自問自答を心の中で繰り返しながら、先に進む。
輿入れするときに入った正門ではなく、裏門を通り抜ける。
そちらには民家も店舗もなにもなく、平地が広がっていて、そしてその外に川があった。川を渡るために橋の上を通るので、そこまではゆっくりと馬を歩ませる。
「セレン」
前を行くレグルスが振り返ってきた。
なので、軽く馬を走らせて並進させる。
「はい、陛下」
しかし、レグルスはぎょっとしたように目を見開いた。
「本当に、上手いね」
「えっ?」
「今、馬に指示を出したのがわからなかった」
「そ、そうですか?」
「それに躊躇なく近くに寄ってきたよね、すごいな。しかも初めて走らせる馬なのに」
そう言って、感心したようにうなずく。
マッティアでは乗馬は当たり前だから、上手く乗れるのが普通で、褒められることはほとんどない。幼いころ、乗馬を始めたあたりでは上手いとおだてられたけれど、それもやる気を出させようとしたものだろう。
こうしてまっすぐに褒められると、なんだかくすぐったい。
「へ、陛下は……」
「ん?」
「陛下は、褒め上手ですよね……。わたくし、調子に乗ってしまいそうです」
本当に、照れてしまう。
下手なふりをする、なんて考えなくても良かった。それはきっと、彼にとってとても失礼なことだ。
レグルスは、妬みとか嫉みとか、そういう嫌な感情をあまり持っていない人なのだ。
だからきっと、その笑顔が眩しく思えてしまうのだ。
彼は笑って言う。
「調子に乗っていいよ。だって本当に上手いから」
「……ありがとうございます」
きっと今、本当に顔が真っ赤だ。子どもっぽいって思われないかしら。
レグルスと接していると、いつも顔を赤くしてしまっているような気がする。恥ずかしい。
そんなセレンには気付かない風で、レグルスは続けた。
「そうそう、橋を渡って林を抜けたらね、そこからもう草原だから」
「そうなのですか?」
「うん、それでしばらく走らせると、湖があるんだよ。今日はそこまで行こう」
「はい!」
「林の中も、走れるね?」
「はい、たぶん」
「じゃあ行こう!」
橋を渡ってすぐさま、二人は馬の脇腹を軽く蹴って走らせる。
侍従たちが背後で、慌てたように追いかけてくるのが、わかった。
◇
湖に一番乗りしたのは、セレンだった。
「見失うかと思った」
次に到着したレグルスはそう言ったけれど、でも言うほど差は付かなかった。
乗馬が苦手、とは言っていたが、そうでもないように思う。
「わたくしが先に到着したのは、単純に体重の差ですわ」
「そうかなあ」
「そうですよ」
でも実際、ちょっと調子に乗った。というか、はしゃぎすぎた。
だってこんなに広い草原を、どこまでも速く駆けるなんて、したことがない。
なんて気持ちいいんだろう!
ああ今、さいっこーに、嫁いできて良かったと思ってる!
侍従たちも追いついてきたので、馬から降りた。
一番乗りできたのは、セレンの腕もあるかもしれないが、ほとんどは馬の能力だ。レグルスは本当にいい馬を贈ってくれた。
「頑張ったわね」
携帯していた角砂糖を与えると、嬉しそうに食べる。
もっと欲しい、とばかりにセレンの頬に顔をすり寄せてくるから、セレンも頬をすり寄せて、鼻筋に口づける。
「あまりたくさん食べると、良くないわよ」
笑いながらそう言って、レグルスのほうを見ると。
またしても、真顔でこちらを見ていた。
……馬と戯れるのは、もしかしたら、クラッセでははしたないことなのかしら。
思わず、俯く。
しまった。さっきので、学んでおくべきだった。
「セレン、少し、散歩しよう」
「は、はい、ぜひ!」
にっこり笑ってそう言われたから、ほっとして答える。
馬の手綱を従者に預けて、二人して湖の周りを歩くことにした。
従者たちは、遠巻きにこちらを見ているようだ。
草原で視界が広いから、厳重に警備する必要もないのだろう。
並んで歩いていると、レグルスがこちらを覗き込むようにして問うてきた。
「楽しい?」
「はい! それにとても美しい風景ですもの、大満足ですわ!」
本当に、楽しい。クラッセにやってきてから、一番楽しい時間かもしれない。
なのでセレンは大きくうなずいて微笑んだ。
「それはよかった」
そう言って、彼は反則の笑顔をこちらに向ける。
なんだかやっぱり気恥ずかしい。
まともに顔を見ていられなくて、湖のほうに視線を向けると。中ほどでなにかが跳ねたように見えた。
「陛下、見てください! なにか跳ねましたわ! 魚でしょうか」
湖の真ん中付近を指差しながらそう言うと。
急に、頬に、温かな感触。
「え」
頬に手を当てて、慌ててレグルスのほうに振り返る。
彼は小さく、口の端を上げて、肩をすくめた。
「な、な、な」
一気に顔が熱くなった。
今。
今、頬に、口づけされた。
慌てて周りを見渡す。侍従たちはこちらを見ているのか見ていないのか、よくわからなかった。
少し首を傾げて、レグルスが言う。
「驚かせた?」
「お、驚きました……」
まったく予想していなかった。
湖の魚のことは頭の中から吹っ飛んだ。
こんな、外で。侍従たちもいる中で。
ど、どうしよう。馬に乗ってここまで来たから、汗だってかいている。汗臭くなかったかしら。嫌な気分になったりしていないかしら。
「な、な、なんで」
「なんとなく」
「なんとなく……」
なんとなくでするものなのか。セレンの心臓は今にも飛び出しそうなのに。
こういうとき、どうしたらいいんだろう。
頭の中でぐるぐると考える。
ありがとう、とか言うの? いや違うでしょ。お礼言うものじゃないでしょ。
嬉しかった、とか言えばいいのかしら。でも、おかわり要求しているみたいで、はしたないと思われないかしら。
というか、レグルスは落ち着いている態度なのが気になる。一人でやたら動揺しちゃってて、なんだか悔しい。
そうだ、仕返しだ。やり返そう。
なぜかセレンの頭の中で、その意見が採用された。自分でもちょっと意味がわからない。
いやでも、はしたないかもしれないけれど、先にしてきたのはあっちだもの。はしたないとか言われる筋合いはない。
たぶん。
「陛下」
彼の袖口を掴んで、軽く引っ張る。
「ん?」
「あ、あの……」
彼の顔を見上げる。
レグルスは高いところから低いところだから、不意打ちできたのだ、とそのとき気付いた。
なんか、それってずるくない?
「え、ええっと……」
「陛下」
そのとき、ふいに侍従に声を掛けられた。
セレンは慌てて、つかんでいた袖口を離す。
「そろそろお時間です」
「ああ、もう?」
レグルスはこちらを振り向いて言った。
「ごめんね、そろそろ帰らないと」
「あっ、はいっ、帰りましょう」
そうだ。元々、少し空いた時間でやってきたのだった。
とても残念だけれど、仕方ない。
少し肩が落ちてしまったけれど、慌てて姿勢を正す。
せっかく連れてきてくれたのに、ガッカリしているのを見せるのは失礼だ。
馬に向かう途中、レグルスのほうをちらりと見やると。
小さくため息をついているのが見えた。
彼も、残念って思ってくれたのなら、いいのだけれど。




