1. 王女は嫁ぎ先に向かう
とにもかくにも、おしりが痛い。
セレンは心の中で、もう何度思ったかもわからない言葉を、そうつぶやいた。
ガタゴトと馬車が揺れている。もうどれくらいこうして座っているのだろうか。
いいかげん、おしりが擦れてきて、痛くてたまらない。
セレンは痛みが少しでも和らぐようにと、おしりをちょっとだけ動かした。気のせいかもしれないが、いくらかは楽になったと思う。
何度も何度もそうしておしりの位置を動かしては、少し楽になったような気になって、しばらくしてまた痛くなってきて、座り直す。
もう何度、そうしたのかも覚えていない。
大国クラッセが用意してくれた馬車だから、もちろん車輪の造りもいいし、馬はよく調教されているし、内装も豪華だし、クッションもたくさん用意されていて、座り心地は悪くない。
さらに言えばクラッセ国内に突入してからは、美しく舗装された道のおかげで、かなり振動が少なくなっている。
それらはクラッセ王国の名誉のためにも声を大にして言おう。
だがもう、二週間も同じような姿勢でいるのだ。疲れないほうがどうかしている。
クラッセは隣国だし、自分一人で馬に乗ってまっすぐに向かえば五日程度で王城に着くだろうが、あちらこちらに寄って挨拶などするし、馬車の周りにはクラッセの兵士たちや従者たちが取り囲んで列を作っていたりするから、どうしても時間が掛かってしまう。
用意されたものは従者や馬車だけではない。今着ているこのドレスもクラッセが準備してくれた。
ドレープがたっぷり入っている上に、上等のレースがふんだんに使われた、金糸が細やかに刺繍されているこの薄紫色のドレスを、「豪華なだけでなく上品」だと、見る者一人残らず讃えていたが、着ている本人からすると、重い、の一言に尽きる。疲れも倍増だ。
それだけではない。
首から下げられた豪奢なネックレスも、首を動かすたびにじゃらじゃらと音をたてて揺れるイヤリングも、金の髪を編み込んで、それをまとめ上げるドレスと同じ薄紫色のヘアドレスも、とにかくとにかく、疲れるのだ。
なにせそれらの装飾品は、惜しげもなくたっぷりの金を彫金している上に、これでもかといろんな色の宝石が使われている。
セレンはマッティア王国の王女として生まれたけれど、宝石という代物を、これだけ一度に身に着けたことなどない。
貧乏国の王女は、質素倹約、清廉潔白が身上であるべきだと思う。幸いかどうかはわからないけれど、そんなに宝石などに興味もなかった。
それでも用意された装飾品を初めて見たときには、乙女心がうずいたのか気持ちが浮き立ったのは否定できない。
けれどこんなに重いとは知らなかったから、もう二度と欲しがることはないだろうと思う。
「あー、痛い」
少し腰を浮かせて、おしりをドレスの上から撫でた。
他のことは慣れもするが、このおしりの痛さだけはどうにも我慢ならない。
乗馬で鍛えたおしりも、さすがに耐えられなくなったのだろう。直接触ったわけではないからわからないけれど、もしかしたらもうおしりの皮が剥けているのじゃないかしら、と心配になる。
「姫さま、はしたのうございます」
セレンの前に座る二人の侍女のうち、タナが声をひそめてそう言った。
「誰も見てないんだから、いいじゃないの」
唇を尖らせてそう抗議すると、もう一人の侍女であるフェールが言葉を重ねた。
「姫さま? 私どもは、姫さまがはしたない真似をなさったときにはすぐに注意するようにと、姫さまご自身が仰られたから……」
「そうですわ、私どもだって好きで……」
「あー、そうだったそうだった、ごめんごめん」
慌てて侍女たちの言葉を遮る。
気を抜くとこうしてすぐに地が出てしまうから、気付いたら止めるように言い含めたのは、他ならぬセレン自身なのだった。
だが、他に誰もいないこの馬車の中ならば、多少は許されるのではないだろうか。いや、許してほしい。
侍女たちは、セレンの不満を表情から読み取ったのか、胸を張って言い放った。
「姫さまだけではありません。王妃殿下からもよーく監視するようにと、言い含められております」
「ああ……母さま……ね……」
だとしたら、彼女らはその言いつけを決して破ったりはしないだろう。
マッティア王国王妃であるセレンの母は、元々はエイゼンという国の王女で、『エイゼンの至宝』と呼ばれるほどの美姫だった。
が、並み居る他国の王子たちの求婚を袖にして、なぜだか気が弱い上に貧乏国のマッティア王子であるセレンの父の元に嫁いできて……以下略。
このあたりから、ずらずらと伝説めいた話が続くわけで、直接父から聞いたセレンですら、八割は話を盛っている、と思っている。
だが、どこまで本当かわかりもしないこんな称賛話がマッティア国内ではまかり通ってしまっていて、セレンの母は国王である父よりも民草に崇拝されてしまっているのだ。
貧乏国に嫁いでくれた美姫。それに伴う大国エイゼンからの援助は、もちろんマッティアにとっては天の恵みだった。なのでそれは仕方ない。
だが、その美姫の娘であるセレンにとっては、あまりありがたくない話なのだった。
「姫さまは、あの! 王妃殿下の実の娘なのですから、もっと凛としていただかないと」
何度そう言われたことか。そして今も目の前でタナとフェールが口を揃えて言っている。
セレンは横を向いて、そっとため息を漏らした。
確かに母は、娘の目から見ても美しい。
王子二人と王女一人を産んだとは思えないほどに、たおやかな身体。静かな新緑の色の瞳。肌はすべらかで、透けるように白い。金の色の髪は、陽の光に照らされて輝く。
ここまで考えて、セレンの気持ちはどんよりと落ち込んできた。
セレンは母に似ている、とは言われる。
母と同じ金の髪と新緑の色の瞳。色合いが同じなら似ても見えるだろう。
でも……なんというか、劣化版、なのだ。
どこが、とは言えない。どこも少しずつ、母と比べて劣化しているような気がする。
セレンがそう愚痴ると、周りの者は「そんなことはありません」と慌てたように言ってはくれる。けれどそれは、王女であるセレンに気を遣っているだけではないだろうか。
実際、二人の兄は、「惜しいよな」と言って子どもの頃からよくセレンをからかっていた。
「セレンが母さまくらいの美女だったら、きっといろんな国の王子さまから求婚されるのにな」
「金銀財宝片手に、押し寄せてくるに違いないよ。そうしたら我がマッティアはもっと豊かになるのにな」
そんなことを言ってはセレンを見て笑う。今、思い出しても腹が立つ。
そのあとセレンが兄二人を追いかけまわして鬼ごっこが始まり、そして母の「やめなさーい!」という声が王城中に響き渡り、それから三人並んで座らされ、くどくどと説教される。
「あなたたちは本当に……。王族としての自覚がなさすぎるのではないの? あなたたちは王子、王女であるのよ? 恥ずかしいと思いなさい」
ため息とともに母がそう言い、頃合いを見計らって「まあまあ」と言いながら父が助けに入ってくる。
それがいつもの光景だ。
いやさすがに、十五を過ぎたあたりから、そこまでのことはあまりないけれど。
「実の娘だって、瓜二つになるとは限らないわよ」
ぷう、とわざとらしく頬を膨らませてそう言うと、タナとフェールは言い過ぎたと思ったのか、慌てたように取り繕ってくる。
「ええーっと、ああ、姫さまはお転婆でいらっしゃるから」
「そうそう。ほら、黙っていれば美人なのにって、そういう感じですわよ」
それは慰めになっているのかなっていないのかよくわからない言葉だったが、まあ好意的に受け取れば、そうなのかもしれない。
だが、そうは言われても、渓谷の国であるマッティアでは、おしとやかに生きるのは難しい。
王城ですら、崖の途中に造られているのだ。防御力に優れた城と言えなくもないが、不便といえば不便だ。
もちろん、王城付近に道はある。馬車も通れるように舗装されている。
でもやはり、谷と崖だらけの国内を移動するのに、馬車は使い勝手が悪い。足腰の強い馬を手に入れて、一人で乗り回すほうが便利に決まっている。
加えて、二人の兄について回った結果、遠乗りだの狩りだのをしているほうが、作法だの刺繍だのを学ぶよりも楽しくなった。
ドレスに隠れてはいるが、セレンの膝には、幼い頃にあちこちですっ転んでできた小さな傷跡がたくさん残っている。
まあ確かに、王女にあるまじき膝ではあるな、とは思う。
そんなわけで、とにかくセレンはじっとしているのが苦手なのだった。
こんなに長い間、大人しく座ったまま平地を馬車で移動するなんて、セレンにとっては生まれて初めてのことなのだ。
「早馬に乗って、一人で入国できたらよかったのに……」
セレンのそのつぶやきに、二人の侍女はこめかみに手を当てて目を閉じて眉根を寄せた。
「どこの世界に、馬を操って輿入れする王女がいるんですか……」
「なにを言い出すかと思えば……」
そう、マッティア王国第一王女であるセレンは、今から隣国クラッセに輿入れする。
そのための馬車、そのためのこのドレスの重装備だ。
きっといろんな国の王女がセレンと同じように、嫁ぎ先であるどこかの国に輿入れしてきたのだろう。
そしてこのおしりの痛さに耐えてきたのだろう。
けれど、世界は広いのだ。世界の端は誰も見たことがない。
つまり、馬に乗って輿入れする王女だって、見たことがないだけで探せばいるかもしれない。
いや、きっといる。だっておしりが痛いから。
「あなたたちだって、おしりが痛くなってきたでしょう?」
同意を求めて、そんなことを言ってみる。
二人の侍女は顔を見合わせてから、苦笑して言った。
「ええ、それは、まあ」
「じゃあ、馬車の中くらい、気楽に行きましょうよ。これではクラッセ王城までもたないわ」
二人ももしかしたら我慢の限界だったのかもしれない。
それもそうですね、とあっさりとセレンの提案に乗ってきた。
きちんと背筋を伸ばして手を膝の上に置いていた二人は、おしりをずらして横座り気味になった。
姿勢が崩れたことで気も抜けたのかもしれない。タナはセレンに問いかけてきた。
「姫さまは、クラッセに入国したことがおありで?」
フェールも隣で身を乗り出してきている。
今まであまり、込み入った話はしてこなかった。人伝ではいろいろ知っているのだろうが、直接聞く機会があるなら聞いておけ、という感じなのだろう。
「私? むかーし、一度だけね」
「では、そのときに見初められたってことでしょうか」
二人の声に華やかさが加わった。きゃーいやだ、見初められたですって! 素敵!
……などと、セレンをそっちのけにして盛り上がっている。
「ううん、違うわ」
セレンは首を横に振った。頭の中でなにやら恋物語を作り上げている二人には申し訳ないが、それはない。
セレンの言葉に、二人はさらに身を乗り出してきた。
「まあ、断言なさいましたね?」
「でもクラッセには来たことがおありなのでしょう? それであちらの王子さまに会わないなんてこと、ありませんでしょう?」
その疑問に肩をすくめる。
「王子さまには会ったわよ。でも、今の王さまとは別人ね。あれは先王さまだわ。王太子殿下って呼ばれていたもの」
「あら、そうなんですか」
今から七ヶ月前、クラッセの国王が突然、生前退位をした。
その後、即位したのは、王太子であった第一王子だった。
しかし、その第一王子はすぐさま退位し。
そして第二王子がそのあとを継いだ。
訳がわからないが、これが事実だ。
幼いころの記憶を辿る。だがどうやっても、クラッセ現王と思しき人間は浮かんでこない。
もしもあのとき会っていたとしたら、もう一人、第二王子。三つだけ年上の少年がいなければならなかった。
「クラッセって、どうなっているのかしらね。先王さまはどうして退位したのかしら。知っている?」
セレンが問いかけると、二人はふるふると首を横に振った。
「さあ? なにやら神に身を捧げるとかなんとかいう話は聞いたことがありますけれど」
「それは私も聞いたわ。即位からわずか三月で、教会に入っちゃったとか。おかしいと思わない?」
「もしかしたら、裏から手を回されて、退位させられたとか。王位継承権争いに敗れた現王が、先王を罠にはめたのですわ!」
なにか新しい物語を思いついたのか、タナが手を叩いてそう言った。なんだか少し、楽しそうだ。
「だったら今の王さまは、悪い人?」
だがフェールが声をひそめてそう言うと、タナの頭の中の物語はあっさりと立ち消えたようだ。
「それだと姫さまにはいい話じゃありませんよねえ……」
「まあ別に、どんな人でもいいんだけど。どうせこっちには選択肢はなかったのだし」
四月前のことを思い出す。クラッセからの使者が、マッティア王城にやってきたときのこと。
第一王女を、ぜひともクラッセ国王の妃として貰い受けたく思う。我が王は、セレン王女を切望しておられまする。
平身低頭で、使者はそう言った。
謁見室で、父と母は玉座に腰かけていたが、目前で頭を下げる使者を見て顔を見合わせていた。
どうやら書簡でそれより先に縁談話はあったようなのだが、本当に使者が来るまでは半信半疑だったらしい。
その場に居合わせたセレンも、口を開けたかなり間抜けな顔をさらしてしまっただろうと思う。
ありえない。
クラッセとマッティアでは、あまりにも国力が違いすぎる。
ふんぞり返って、ありがたーく我が王の御言葉を頂戴せよと言ってもおかしくないくらいなのに、どうかどうかとお願いされたそうだ。
父と母は、その申し出にうなずいた。大国クラッセに嫁ぐ不都合が思いつかなかったのだ。
それに、使者の態度がそれでも、弱小国マッティアがその使者を無下に帰せるわけもない。
セレンはもちろん、嫌です、なんて言える立場ではなかった。
一国の王女たるもの、結婚相手を自由に選べるとは思ってはいなかったが、これは予想していなかった。
望まれて大国に嫁ぐ? なんというできすぎた話だ。
「望まれて嫁ぐのは、女の幸せですわよ」
「そうかもしれないけれど」
「しかもクラッセ王妃だなんて。まるで物語のようですわ!」
また、きゃー素敵! などと二人がはしゃぎだす。
どうも、この手の話題に弱いらしい。
「それもそうかもしれないけれど。どうして私なのかしら、と思うのよねえ」
窓枠に肘をかけて、頬杖をつく。
近隣諸国に、嫁ぎ先の決まっていない年頃の姫が少ないから、たまたまセレンが名指しされた……ということだろうか。
正直、それくらいしか思いつかない。
十七歳。すでに世の王女たちの中では行き遅れの部類ではあるのだが、まあすぐに子どもが産める年齢ではある。
婚姻の申し出を了承してから、クラッセ主導であれよあれよと話は進んでいき、わずか四月でのこの輿入れだ。
早い。早すぎる。嫁ぐまでの時間を、しんみりと過去の出来事に思いを馳せながら過ごす暇もなかった。
それを考えると、今お世継ぎのいないクラッセ王国は、世継ぎの王子をとにかく早くもうけたい、ということで選ばれたのだろうか。
だがそれも、しっくりこないような気もする。
「選ばれた理由なんて、どうだっていいじゃありませんか。クラッセ王妃に選ばれた、という事実が大事ですわよ」
「うーん……というか……嫌な予感がするのよねえ」
「嫌な予感?」
セレンの言葉に、二人は首を傾げた。
「子どもの頃、クラッセに行ったとき、私、大暴れしちゃって……」
さすがにそれは予想していなかったらしい。二人とも、鳩が豆鉄砲をくらったような、そんな表情をしている。
「お、大暴れ……ですか……」
「そうなのよね……。それを皆、忘れているわけでもないと思うのだけれど」
「ああ……もうすでにやらかしちゃっているんですか……」
頭を押さえてタナが言った。頭痛の種が増えた、と言わんばかりだ。
フェールもその隣で深く深く、ため息をついた。
「で、姫さま。なにをされたのでしょう?」
覚悟を決めた、とばかりに二人が顔を上げて身を乗り出してくる。
これからしばらくの間はクラッセでともに暮らす仲間である彼女たちには、予備知識として教えておくほうがいいだろう、とセレンは口を開いた。
「まあ……幼い頃の話だから、うろ覚えの部分もあるんだけど。私が五歳のときのことよ」