行軍
一度動き始めてしまった軍隊というものは、個人の力でどうこうしようとしても、中々止まるものではない。
ましてや敵に襲撃され警戒心を強めた兵士達は、クロエ大臣の乗る牛竜車の周りをガチガチに固めると、斥候兵を多重に配しながら、何が有ろうとも前へ前へと進む覚悟で目を血走らせていた。
これ以上の失態は、隊全体に対する厳罰が待ち受けている可能性がある。現にクロエ大臣の危機を回避できなかった斥候兵士長は、首をすげ替えられていた。
苛烈な処断を好むクロエ大臣が、先を急げと声を荒らげているのであるーー指揮官は己の首を守ろうと、兵士達に出立を急がせた。
進軍ラッパによって、重い腰を上げたヤマタ兵達は、徐々に速度を上げながら、狭い山道をかき分けるように進んでいく。
すでに彼らにとっては敵よりも、上役の機嫌を損ねる事の方が、恐怖の対象となっていた。
その真ん中辺りで、バッシ達も遅れないように行軍に歩調を合わせると、後方からジュエルが追いついて来る。
「どうだった?」
とバッシが彼女に荷物を渡しながらたずねると、
「ああ、一応報告はしたんだが、色々と事態が変化したらしくてな。大陸からの緊急連絡があって、それの対応に会議をしていたから、マロンの事は後回しになった。取り敢えず同行を許可して、様子を見るらしい」
と背負い袋に腕を通しながら答えた。聖騎士の鎧に引っかかる背負い紐を通してやりながら、
「大陸からの緊急連絡?」
と気になる部分を聞き返してみる。今回の遠征における総括リーダーであるゲマインには、ギルド・マスターであるハムスから、緊急連絡用の魔道具が貸し与えられていると聞いている。
だが特別貴重な魔石を消費するその魔道具は、よっぽどの事がない限り使われないはずだった。
「ああ、チラッと聞いた話では、増援の冒険者パーティーが派遣されたらしい。しかもいつ着いてもおかしくないくらいの日数が経っているとの事だ」
と、ありがたい情報をいただいた。異郷の地で地元の諍いに巻き込まれそうになっている今、冒険者側の武威を示せる事は、いらぬ闘争を回避するための手札としても、有効に働くはずだ。
そう思い、一瞬明るくなったバッシの顔を見たジュエルは、逆に少し影のある顔で、
「だがその冒険者達が問題だ。〝カース〟という男の事を聞いた事はあるか?」
と聞いてきた。〝カース〟といえば、冒険者組織〝狂信団〟のカリスマ的リーダーである〝狂司教のカース〟という奴が有名だが……
「まさか……」
「そうだ、そのまさかだ。〝狂司教のカース〟が派遣されて来るらしい。名目は我々の補佐となっているが……まともに受け入れられる話ではないだろうな」
眉間に寄せた皺が、クッキリと縦線を描く。風の噂にしか聞いたことがなかったが、狂司教カース、そして狂信団というクランからは、血生臭く、悪い話しか聞こえてこなかった。
曰く、狂信団とは、カリスマ的リーダーのカースに率いられた、狂信の徒が集まる巨大組織。対立するクランは暗殺も厭わず潰し、依頼主を脅して資金源にする事数知れずーーそれでも正規クランとして、冒険者ギルドに居座り続けている。
その裏には、ギルド幹部との太いパイプが噂され、有力貴族とも繋がっているとされるが……
「政治、ですか……」
隣で話を聞いていたリロも、顔をしかめて口にする。
「そうだな、ギルド長のハムスもしきりに悔しがっていたそうだが……今回の増員派遣には反ハムス派のギルド幹部や、有力貴族などの影響もあって、どうしても変更できなかったそうだ。それに奴らは本採決以前に出発していたらしい。いわゆる不意打ちってやつだな、幸い通信魔具で、事前に知る事ができたが……つまり我々にとっては、増援とはいえ手放しに喜べない事態って訳だ」
ホーリー・メイスを、ギュウッと音を立てて握ったジュエルの全身から、青い聖光が立ち昇る。彼女にしてみれば、Sランクへの道が僅かに見え始めたーーところにきて、いきなり障害要素が増えたことで、追い詰められた心境になっているのだろう。その固い横顔を見て、
「だがやるんだろ? どんなに困難な状況でも諦めるお前ではあるまい。ならば俺たちは付いていくのみだ。だが引際だけは見誤らないでくれ。俺たち兵隊を生かすも殺すも指揮官次第だからな」
と淡く発光する碧銀の肩当てを叩いた。聖なる光がバッシの右手を軽く押し返す。うむ、と頷くジュエルの頬を生命力が血潮となって染め、心なしか活き活きとして見える。先頭を行くウーシアも振り向くと、
「ご主人様なら大丈夫だワン!」
と久しぶりにハツラツとした声を上げた。その横では事情の分からないマロンがキョトンとバッシを見上げている。こいつの事は結局うやむやになってしまったな、まあ……何とかなるか?
バッシが少しばかり考え込んでいると、リロの鞄から久しぶりにタンたんが本の端を覗かせた。
リリと女神の一件で、膨大な魔力を消費して以来、すっかりなりを潜めていたタンたんも、そろそろ回復してきたのだろうか?
バッシが見ている事に気付いたタンたんはページを開くと〝お〟〝ば〟〝か〟とだけ文字を示して、サッと鞄の中に隠れてしまった。
お馬鹿か……タンたんは何かを独特な感覚で捉えて、それを教えてくれようとしているのだろうか? だが今のバッシには何のことかサッパリ分からない。
お馬鹿、大事な事を見逃しているのではないか? という気がして、もう一度タンたんの入った魔法鞄を見るが、まだまだ魔力の回復が追いつかないのか、鳴りを潜めたまま、静かに運ばれるだけだった。
結局バッシは、呪いの軛が外れても多少スッキリしただけで、頭の回転は悪いままだ。もっとも性欲などの生命活動に関する意欲は、以前とは比べものにならないほど増しており、身体も活性化してきているが。
頭を使うよりも、これを使う方が性に合っているな……と鋼の剣の柄に手をかけると、返事をするように鞘が龍装に当たって、カラリと鳴った。
嫌な予感ばかりに支配された今回の遠征は、バッシにとって、単純に剣を振るっていれば良い今までの冒険者稼業とは、また違った圧を感じる日々である。
前途多難な近未来を暗示するかのような曇天を見据え、重く湿気た下草を踏みしめると、森の影に蠢くヤマタ兵団を眺めた。
今後はヤマタ王軍と反王軍の諍い以外にも、背後や側面にも注意を払わねばなるまい。そのためにと、最適な位置取りをシミュレーションしながら、とぼとぼと歩を進めていく。
バッシの様子をジッと見ていたマロンが、
「バッシは凄いワンコ、皆の事を気遣って、隊全体を見ているワンコ」
と褒める。それは普段褒められ慣れていないバッシにも、スッと入ってくる心地よい言葉だった。
「ありがとう、マロンの事も適当な場所まで送ってやるから、安心してついて来い」
と言うと、少し嬉しそうな、困ったような、微妙な表情を見せて、
「ありがとうだワンコ、でもマロンは身軽だから、いつでも逃げ出せるんだワンコ」
とピョンピョンとその場で跳ねた。確かに犬人族の脚力と、余計な物を一切持たない身軽さであれば、何が起こっても逃げ切れるかも知れない。
バッシは腰元のポーチを探ると、行動食として持ち歩いている、高カロリーなホウジナッツの袋を一つ取り出し、マロンに放り投げた。
「逃げるにしても、食料はいるだろう? それを持っておけ」
と言うと、びっくりした顔のマロンが袋を見て、
「うん……ありがとうだワンコ」
と深々と頭を下げた。その後頭部を撫でてやりながら、
「俺たちも似たようなもんだ。この地の諍いからはなるべく逃げる。ヤマタ王軍は俺たちを利用しようとしているかも知れんが、そうはいくか、な?」
と言うと、口角を上げて犬歯を見せる。それにつられたのか、マロンも笑顔を見せると、嬉しそうに、
「そうだワンコ、逃げるが勝ちだワンコ」
と言って、ホウジナッツの袋を懐にしまいこんだ。
上手く逃げられれば良いが……不慣れな地で逃走する事の困難さは、魔法王国崩壊後に嫌という程身にしみている。
ましてや冒険者とはいえ女連れでは、一人で命からがら逃げ延びた、以前のようにはいかないだろう。
なんだか最近逃げることばかり考えているな……バッシが仲間を見ると、ヤマタ王軍に遅れまいと足を運ぶリロが、一生懸命感知魔法を唱えながら泥に滑る坂を降りて来た。
それを助けてやりながら、感覚鱗を立てて、周囲に注意を張り巡らせる。
その瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われて思わず振り向くと、前方から嫌な気配が圧となって襲ってきた。
バッシは気触りな感覚鱗を倒すと、リロを背に庇い鋼の剣を手に、いつでも抜剣できるように身構える。前に居たウーシアも、霊剣を現して身を低く構えた。
「何だ? 今のは」
最近では修練の賜物か、気配察知に敏感になってきたジュエルも、隊列の前方に気をくばる。
兵団が何かに襲われたのか? それにしてはヤマタ兵達が冷静すぎるが……
首を傾げるジュエルにウーシアが、
「ウーが偵察してくるワン」
と言うと、止める間もなく山道を駆けて行ってしまった。