魔導書の内面世界
リリの手に触れられて、一瞬警戒する気配を示したタンたんは、サッと掴まれ、あるページを開かれると無抵抗になった。
「これはもう貴女の物だから、本来は私にも手が出せないのよ。けどこのページだけはある事情から開けられるようになっているわ」
と告げる手の中には、タンたんの最後のページ〝666〟が並んでいる。
タンたんを託された時に禁忌のページと言われ、絶対に開くな、開けば死ぬとまで教わった。それが呆気なく開かれた事に、リロの全身がゾクリと粟立つ。
それは何の変哲もない、真っ白なページだった。
「リロ、今の貴女には資格があるわ。ゆっくりと両手を乗せて、タンたんに呼び掛けてみて」
本の端を持って見守るリリが促す通りに、リロが両手を乗せる。後ろで見守るバッシが唾を飲み込んだ。
「そしてこう唱えるの〝フレイム・タンよ、私に道を示せ〟」
リロは一つ頷くと、
「フレイム・タンよ、私に道を示せ」
と唱えた瞬間、火に触れたような痛みが手のひらに走った。
「大丈夫、落ち着いて。何時もタンたんをコントロールするように同期していくの。私は貴女、貴女は私。溶け合う精神が一つになる……」
「私は貴女、貴女は私、溶け合う精神が一つになる……私は貴女、貴女は……」
繰り返す文言に落ち着きを取り戻したリロの手から、ジワリジワリと熱の無い焔が立ち昇る。
それは真っ白だったページに魔法陣を描くと、薄暗い部屋をユラユラと照らし出した。
次の瞬間、閃光が迸るとーータンたんと同期したリロの意識が、彼方に放たれる。
その頭が前倒しに落ちる。それを支えたリリは、タンたんの上にそっと誘導すると、
「さて、どんな出会いを果たすかしらね? 少し見せてもらうわよ」
と言いながら、リロの頭頂部に自分の額を押し当てた。
バッシはとまどい、重なって眠るようにうずくまる二人の後ろで、どうする事も出来ずにいた。しばらく経ってから、
「バッシ大丈夫か?」
とドアの向こうのトゥーマルタスの護衛組メンバーが問いかけてきたが、
「大丈夫だ」
という、全くあてにならない言葉しか出てこなかった。
*****
目を開けているのか、閉じているのかも分からない程の暗闇の中で、己の視力自体が働いていない事に気付く。
心臓から伸びる魔力の管を感じたリロは、血液のように循環する魔力に意識を向ける。その流れに乗って行くと、その先には世界が広がっていた。
空間に充満する触覚にも似た感覚が、ダイレクトに脳裏を彩る。考えるよりも早く理解する魔知覚に、普段は眠っている内面世界が覚醒したような、全能感に包まれた。
そこで初めて、自分が守られた結界の中に居る事に気付く。どうやら半径20メートル程の、ドーム状に覆われた閉鎖空間にいるらしい。
その中心には、圧倒的な輝きを放つ少女が、ちょこんと座っていた。
事情を聞こうと近づいた時、その異常性に気付く。一人の少女だと思っていた輪郭は次第にボヤけ、更に近寄って見ると、複数人が幾重にも重なって、一人の像を作り出しているのが分かった。
ためらいを覚え、半身を引いたリロの心臓から伸びる管は、少女の足元まで続き、その端は地面に繋がっている。
その時、少女を形作る幾重もの像が、バラバラに振り返り、一斉に口を開いた。何十も同時に上がる言葉は不揃いで、何を言っているのか理解不能である。
その中の最大多数意見が、
「¥%♪ワあなたが8〆|9〜現代の○4÷**2」
と部分的に大きく聞こえてきた。
これは……以前にリリから聞いていた、先代達の魂の集合体だろう。死後もフレイム・タンの管理人としての責務に縛られた哀れな獄火の巫女……
だがその姿は幼く陽気で、後輩たるリロを見る目も総じて柔らかい。まるで幼な馴染みのような雰囲気で、時折「キャッキャッ」とはしゃぐ声も聞こえてくる。
「第58代継承者、リロ・セィゼンと申します」
自分の声を遠くに感じる。不思議な感覚の中、深々と頭を下げると、またしてもバラバラな言葉が発せられた。首の振り方も各人各様で、頭部は顔が無くなったかのように希薄になる。
やがてそれが収束していくと、その中から一人の女性が分離して、歩み出て来た。
「ご苦労様、リロ・セィゼン、リリ・ウォルタの愛し子にして、アルミナの塊を受け継ぐ孤高の魔術師よ。私はラーダ・ニコリス。初代管理者にして、一応ここの責任者をしているわ。ニコちゃんって呼んでね?」
快活に笑みを見せる小柄な女性は、純白のローブを纏い、素足のまま近づいて来る。可愛らしい人間種の少女だった。
「ラーダ・ニコリス……様、獄火の管理者にして、偉大なる伝説の魔導師。お師匠様から貴女の事はうかがっております」
リリから知識として教えられていた人物と実際に話す事になって、緊張から口が回らなくなる。何と言えば良いのか? 何を言わないべきか? 頭を回し過ぎて知恵熱が出そうだった。
「あらやだ、私の事はニコちゃんって呼んでね? リロちゃん」
?の所にアクセントを付ける、その笑顔はどことなく師匠を彷彿とさせた。二人に共通する人当たりの柔らかさに、フッと笑みを浮かべたリロは、
「はいニコちゃん、よろしくお願いします」
小難しく考えるのはやめて、素直に頭を下げた。それを見て笑みを深めたニコは、
「この子達は貴女の先代達、閉ざされた高魔力環境で子供返りしてるけど、気にしないでね? リリちゃん覗いてるんでしょ? お久しぶり。この子を少し預かるわね」
目の前まで近寄ると、天に向かって一声掛けてから、リロを集合体の元へと誘導していった。
「皆、良い子だから、少し見え易いように体をズラしてくれる?」
ニコの声に、
「ハ〜$#イ&/z」
数十の像がブレながら立ち上がり、場所を譲る。そこにはリロから伸びる管の終着点があった。
「これは何だかわかる?」
ニコの質問に、
「獄火の通り道ですか?」
と答えると、
「そう、みたいなもんね。初めて見るでしょ? この下は火の地獄、そしてこの穴は過度な圧力で爆発しないように開けられた無数の排気口の一つよ」
そう言われて見ると、穴から昇ってくる熱気が不意に温度を上げたように感じる。圧迫感に気圧されていると、
「気持ちを落ち着けて。契約者は傷つけないようになっているから、気持ちを強くして、炎気の噴き出し口であるタンたんを従えなさい。大元は私達がしっかり抑えているから大丈夫よ」
「つまり定期的に炎気を排出する必要が有るんですか? 現世への排気口を管理するのが私の役目?」
思わず呟いたリロに、
「う〜ん、そう単純でもないんだけど。難しく考えなくても、他にも排気口は有るの。それよりも漏れに気を付けて。排気欲に溺れて廃人になる者も居るわ。いまだに私も、排気の際は喝采を上げてしまうもの」
つまりこの人達は元栓なのだ。そしてリロは現世側の開栓者。術を使う時の麻薬のような高揚感は、彼女達の喝采であり、獄火の持つ性質でもあるのだろう。
現に立ち昇る炎気からは、焚き付ける高揚感が、心を弾ませてくる。
タンたんが毒書と言われるゆえんーーあの破壊衝動は、先代達のフィルターを通して、大分ソフトなものに変換されているらしい。
高魔力フィルターと化した先代達が、子供返りを起こしているのも頷ける。自分もその中の一人になるのだ、という精神のざわめきをなんとか抑えようとすると、
「こっちにいらっしゃい」
ニコが肩を持って、先代達の中へとリロを導いた。
そこは温かく、少女特有の甘い香りに包まれた、人一人分の空間。炎気の毒から解放されたリロは、ホッと息を吐き出す。
「ここは私達の中なんだけど、貴女の魔力供給で成り立っているのよ。つまりは貴女の中でもあるわね」
対面するニコの説明に魔知覚を働かせると、確かに自身の魔力しか感知出来なかった。
「私達はただの歯車、動力源は貴女。こうして一度顔を合わせて話し合えば、もっと私達を上手く使いこなせるわ」
にっこり笑ったニコは〝スウッ〟と周囲に溶け込んだ。
「貴女は貴女の道を進みなさい、過ぎると思う力も、もはや貴女の一部。何をしても自由よ、私達はただ見守っているわね」
という言葉を残してーー
「あっ、そうそう、彼、バッシ君の事が皆気になっているのよ。どうなの? 彼、中々良い男じゃない? 貴女どう思ってるの?」
引っ込んだと思った顔がスッと出現すると、満面の笑みで尋ねてきた。周囲からも、
「きゃ〜っ、聞いちゃった!」
「ねぇねぇどうなの?」
などと一斉に嬌声が上がる。リロはしどろもどろになりながらも、
「いえ、彼はただの仲間ですから。頼もしくは感じていますけれど……」
と呟くと、
「え〜っ、嘘うそ、契約で手を置かれた時の胸の鼓動、心の動きは筒抜けよ。何せ貴女と私達の心は一つなんだから」
意地悪な笑みを浮かべるニコに追求されたリロは、真っ赤になりながら己の心を暴露されまくった。それは散々いじり倒され、彼女達が飽きるまで続いたというーー
それからどのくらいその場に居たのだろうか? 数十年も瞑想を続けた気もするし、ほんの一瞬だったかも知れない。
だが、ニコ達の思いは、全身を包む毛布のように、リロの心を満たし続けている。
目を覚ましたリロの眼前には、微笑をたたえたリリが座っていた。
「良い出会いだったようね」
押し付けられて乱れた髪の毛を、手ですいてくれる師匠に、
「はい、良い出会いをしました」
と胸を抑えながら答えた。いまだに彼女達の結界が見えないベールとなって、包みこんでくれているように感じる。
師弟はその後何も語らず、ただ黙っていたが、
「さて、バッシも困っているでしょうから、これ位にしてあげましょう。私はもう少し寝させてもらうわね? 何せ久しぶりに守護獣など召喚したものだから、魔力が足りなくて眠いのよ」
フワ〜ッとあくびをしたリリは、甘えるように腕を伸ばす。待機していたバッシが抱え上げると、くすぐったそうに笑いながらベッドに横たり、すぐに幸せそうな寝息をたてだした。
「そうとう疲れているな、リロも大丈夫か?」
バッシが尋ねると、上気した微笑みを返しながら、
「ええ大丈夫よ。でもなんだか頭を使いすぎて、甘いものが食べたくなっちゃった。バッシ、そこのお茶を淹れて下さる? 大司教様の秘密のお菓子入れは……ここにあるはず」
豪奢な執務机の引き出しを勝手に開けると、
「あった」
銀器に入った砂糖菓子を見つけたリロが喝采を上げる。
早速一つ摘み食いをする少女から醸し出される雰囲気は、それまでに無い落ち着きを感じた。
どこか彼女の師匠を思わせる雰囲気に、笑みを浮かべて頷くと、お湯の沸き立つ魔具の元へと歩く。
「何があったか聞いて下さいますか? バッシに話す事で、頭の中を少し整理したいの」
口の菓子をモゴモゴと溶かしながら問われるが、もちろん異論は無い。バッシは湯気を立てて茶器を温めると、芳醇な香りを放つ茶葉を蒸しながら、静かに頷いた。