密林の女神
深夜、月明かりがどうにか足元を照らす中、少し前まで死霊に支配されていた密林を進む。そこは腐った地面の臭気がいまだに排気されておらず、湿度も高く、生物の声が消えた不気味な雰囲気が、いまだに滞留していた。
あの後バッシは、少し離れた場所にある元集落の倉庫で、ゆっくり静養していた。傷の手当てや着替えも済ませると、気づけば夕方になっている。
全ての装備品も綺麗さっぱり整備し直して、魔力皆無なバッシ自身は、体力も回復して完全な状態に戻っていた。
そして猫背組は、ドルイドたるブラムを残して、近くの村や町に散った村人を呼び戻しに出かけていった。それを見送ったバッシは、そっと森の中に入ったのである。
昼間夢中で走った道なき道も、明るさが変わると全く違う場所のように感じる。だが、巨亀との激しい戦闘のおかげと言うべきか、やつの発した光柱によって破壊された後を辿ると、ようやく昼間石柱が並んでいた沼に辿り着いた。
地面に身を横たえる豹姿のマンプルが、薄っすら金色の毛並みを輝かせながら、巨亀の甲羅が埋もれた沼を見つめている。
「約束、来た」
横から近づき声を掛けると、
「ありがとうだニャン、夜中に呼び出して申し訳ないニャ」
と言って立ち上がると、バッシの元に歩み寄って来る。
「この大きな亀、この土地に生息する百数十年も生きた噛み付き亀だニャン、その子はただの亀だったニャ。それをサイスは魔力の拠点として利用したんだニャ。まさかこんな巨大モンスターに変えてしまうとは、森の汚染といい、自分勝手な恐ろしい男だったニャン」
目の前で金の渦巻き紋を発して人間の姿に戻ったマンプルが、バッシの目を覗き込んでくる。金色の光が増し、その体温のような温かさが伝わると、唇が触れそうなくらいに接近した。
「バッシ、貴方のおかげでこの森もやり直せるニャ、お礼ではないけど、貴方の頭に罹った呪いを解かせてもらうニャン」
密着した彼女からの吐息、そして豊満な胸は、バッシの胴鎧に密着して、直接その鼓動を伝えている。嫌な気はしない、というかとても心地よい。そして悲しい事だが、この状況に興奮はするが、襲いかかりたくなる欲望もまた湧いて来なかった。
マンプルが右手を握ると、小さな瓶を渡してくる。
「これは〝解呪薬〟を人間用に作った物だニャン、それでも強烈な作用をもたらすから、一度に服用すると脳に障害が残る可能性があるニャン」
バッシは劇薬と言われた瓶を見下ろす。何の変哲もない液体だが、昼間の森の様子を見ているため、その強烈な作用が人体に悪影響を及ぼすさまが、簡単に想像された。
「どうする?」
バッシは素直に聞いた、何も策が無いのにこんな事を言う女では無い事は、少しの付き合いでも分かっている。
「そうだニャ、まず私が新たな結界を張るニャン、それはここに住んでいた時からの聖域結界だニャ。この場ならば、充分な魔力を持って、薬の作用をコントロール出来るニャン」
「そうか」
「だけど結界を張ると、私はそこに縛られてしまうニャン。聖域に入れるのはドルイドたるベイルと、結界を張る時に一緒に居た者だけだニャン」
「他の者、良いのか?」
これから集落の再興を目指す彼らに、マンプルは欠かせない存在に違いない。そう思って尋ねると、
「大丈夫だニャン、というか、私が土地神として安定しないと、森の汚染もこれ以上取り除けないニャン。それに他の者とは、年に一度のお祭りで会えるニャ」
密着したマンプルから、淡く放射された光が周囲に拡散して行く。なるほどそういう物かと納得したバッシは、促されるままに地面に座り込んだ。
その時点で、腐った沼だった地面は、綺麗な緑の下草に覆われ、天然の寝床のような心地よいクッション性をしめした。
何も言わずに鎧の留め具を外すマンプルに任せて、温かい空間にリラックスしていると、褌をも外されて全裸になったバッシの上に、マンプルが跨ってきた。
『少し待つニャ、これから本来の結界を張るニャン』
頭に直接言葉が響くと、唇を触れさせたマンプルが伸び上がり、両手を広げて、魔力を解放させた。
光の塊となったマンプルは、目を閉じても明るさが浸透してくるほど輝きを放つ。温かさよりも熱を感じる皮膚はジリジリと焼かれるようで、顔を覆う腕で遮りようやく周囲を見る事が出来た。
少し前まで無秩序に絡みつき、密集していた原生林が、今では緑の下草に覆われ、秩序だった植生を取り戻している。
月明かりの下でも、その違いはハッキリと分かるほど、マンプルの光が届かない所まで風景が一変していた。
「さあ、これから施術を始めるニャン。頭を動かさないように蔦で縛るから、抵抗しないでニャ」
バッシの頭を地に押し付けたマンプルの言葉通り、スルスルと伸びた蔦が額や顎、そして四肢に絡み付いて行く。
〝バッシ〟
最後の抵抗とばかりに鋼の精霊が声を上げるが、
『お前も分かってるニャ? しばらく黙るニャン』
という念話に、それ以上の共鳴は無かった。
目の端に見える小さな瓶の蓋を開けたマンプルは、その液体を一雫づつバッシの額に落とす。
だがそれは額に落ちる寸前にマンプルの放つ金光と交わると、蒸発して魔光の中に取り込まれていった。
それをひたすら続けることしばし、バッシの目の前には〝解呪薬〟を取り込んだ金光が渦を描いている。
『息を吸い込むニャ』
マンプルの指示に従って、大きく息を吸うと、
『ゆっくり吐くニャ』
次の指示に従って、長く細く息を吐く。
それを数度繰り返す内に、頭の芯がほんのり温かくなって来た。
『少し薬を入れるニャ』
マンプルの念話を遠くに聞くと、呼吸の合間に金光が鼻を通って、後頭部で弾ける。
目の裏で弾けた閃光に鼓動を上げると、
『大丈夫かニャ? もう一度いくニャン』
こちらの準備も待たずに、また同じ様な閃光が弾けた。
「むゔ〜っ」
口元を抑えられたバッシが手を上げようとするが、それすらも雁字搦めに拘束されている。
思わぬ生命の危機感に呼吸が苦しくなる所へ、
『大丈夫! 大丈夫……大丈夫……』
最初強烈な思念波が、続けてなだめるような波が押し寄せると、動悸が収まり、過呼吸気味になった息を吐き出させた。口の中を切った鉄の味が、かえって現実味をもたらし落ち着く。
『詳しく分かったニャン、やっぱり頭の中心部に魔法由来の呪いの軛がはめ込まれているニャ。しかも相当高度な技術で施術されてる上に、生まれた時から据え付けられている、しぶとい呪いだニャン』
マンプルが落ち着いた頃合いを見計らって優しく告げる。その意味を咀嚼している内に、
『治らないのか?』
という疑問が湧き上がった。
『でも大丈夫だニャン、これから再度〝解呪薬〟を使った呪術外しを行うニャ。体の力を抜いて、もう一度息を吸って……なが〜く吐くニャン』
指示の通りに呼吸を繰り返すと、金光が目の前で渦を作り、その速度が加速していく。目が回りそうになって、硬く瞼を閉じた時、
『いくニャン』
マンプルの念話を聞くと同時に、熱い塊が鼻一杯に侵入してきた。
その熱は鼻腔を焦がし、頭蓋骨を浸潤して頭部を焼く。余りの痛みにショックを受けた俺が気絶しそうになると、
『しっかりするニャ! これから軛を焼き切るから、お前の意識も同期させるニャン!』
マンプルの叱責に、それでもどうして良いか分からず狼狽えると、頭の中に呪いの軛が明示される。それを包む解呪薬をひたすらに、
『頑張れ! 頑張れ!』
と応援すると、薬が反応して活性化していった。徐々に、時間をかけて軛が細く、弱くなって行くのを、我慢しながら耐えていると、
『解!』
マンプルの一喝と共に、軛を溶かし切った薬が消滅する。
脱力と共に、手足の感覚が戻ってくる。相当強く握り込んでいたのか、蔦を握る拳は真っ白に変色して、しばらく元に戻らなかった。
全ての魔光と拘束を解除していったマンプルが、
「終わったニャ、これでお前さんは自由だニャン」
と言ってバッシに抱きついて来た。
正直いまだに残る解呪の痛みで何も分からない。頭の芯が焼けるように……と意識を頭に持って行くと、不思議な事に、あれほど猛威を振るった痛みが、嘘のように掻き消えていた。
「痛く……無い!」
バッシが頭を抱えた手を見ると、視界も明瞭になっているのが分かる。今までよりも明らかに物が良く見えて、頭の回転もスムーズになっているのが感じられた。
それに何よりも溢れ出てくるこの感覚、今まで感じなかった〝生命力〟というか〝意欲〟といったものが湧き上がってくる。
「今まで抑えられていた能力が解放されたニャン、戦闘奴隷として抑圧されていた思考能力、そして精気が漲って来る筈だニャ?」
跨ったままのマンプルが解説する。だがその言葉よりも何よりも、彼女の豊満な体を見たバッシの下腹部には、精気と呼ばれた欲が集約されて行き、更に快感の波が襲いかかって来た。
「お前……初めてだニャ? これは楽しみだニャン」
妖艶な笑みを零すマンプルの体を、思う存分抱きしめたバッシは、初めての精気がもたらす快楽の渦へと身を委ねーー絶頂したーー
*****
翌朝ーー目覚めると、見覚えの無い泉のほとりで、全裸のまま仰向けに横たわっていた。バッシは、昨晩の事が全て夢の中の出来事だったのではないか? という疑問を抱きながら、しかし格段にクリアーになった思考に妙な確信を抱きつつ、泉に向き合う。
そこには昨日倒したばかりの巨亀の甲羅が、白濁した液体とはうって変わって、澄み切った泉の中に沈んでいるのが見えた。
『やっぱりここは昨日マンプルと居たあの場所だ……』
とぼんやりと周囲を確認していると、
〝バッシ、おはようだニャ、私は既に神格化されて土地に融合したニャン。目覚めの抱擁が出来なくて申し訳ないニャ〟
と少し笑気を含んだ声が響いて来た。
「おはよう、つまりもう姿を見る事は出来ないのか?」
初めての相手ともう会うことが出来ないのか? と少し残念に思うと、
〝そんな事は無いニャ、お前からもらった精気で一気に場を浄化したから、暫くは姿を固定化出来ニャイが、またその内もとの姿をとる事が出来るようになるニャン。だからしばらくしたらまた遊びに来るニャ。その時は目一杯精気を貯めて来るニャン〟
とんでもないお誘いに絶句していると、
〝今は余り会話も出来ないニャン、最後に一つだけ、お前自身の呪いは解けたが、生まれてから未発達だった頭が本来の力を取り戻すのは時間がかかる筈だニャン。昨日の事は私の力あっての事だから、それを肝に銘じておくニャ〟
と言って会話は途絶えた。
泉に顔を近づけると、そこには見慣れた自分の顔、しかしよく見るといつもより目が輝いて見える。
澄み切った水のせいか? と思いながら、一すくいの水で顔を洗うと、そのまま全身を洗い流した。
初秋にも関わらず気候も穏やかで爽やかな朝、よく体を擦って乾かすと、ゆっくり装備を整える。
途中、鋼の剣の柄を握った時に、何と無く違和感を感じて、剣身を引き抜いて見た。何時も通り青く澄み切った刃に見惚れると、どこか納得したような雰囲気が伝わり、違和感が解消される。
何故だろう? 本当に些細な感覚だが、鋼の剣がバッシを許したように感じたのは気のせいだろうか?
ふとこみ上げる微笑に剣を一振りすると、マンプルの居るであろう泉に一礼して、その場を後にした。