腐り沼の主
背筋に悪寒が走り、咄嗟に身を捻じって横に跳ぶと、バッシが直前まで居た空間を巨大な顎が〝ガツン〟と噛んだ。
その衝撃音に身を固める暇も無く、今度は地中から土や石、木片などを飛ばしながら持ち上げられた塊が、土砂崩れのように振り下ろされる。
横っ跳びに更に手をついて加速させたバッシは、そのままの勢いで横転すると、大きく避けた。
飛んでくる土石の向こうに見えるのは、岩のような表面を持つ前脚。鋭い爪を持つ太い脚は、バッシの胴体の倍ほどもあった。
空中を噛んだ顎をバッシに向けると、開けざまに轟音を放つ。唾と土石を伴う咆哮爆風が襲う中、口の中を見ると、乳色の地面から湧き出した浮遊モンスターが集まっている様な、ぼんやりと青い灯火が、幾つも詰まって見えた。
バッシが咄嗟に右前脚を斬りつけると、〝ザリッ〟とした石を切るような手応えとともに、確かに肉を断ち、骨に到達した感を得た。だが切り口からは血も肉の断面も見えず、ただ乳色の腐り水が飛び散り、それすらも直ぐに癒着する。
切られた事は認識できるのか、首を少し引くと、より攻撃速度を上げた噛みつきが襲いかかってきた。
咄嗟に後退したバッシの目の前で、全身を地中から引き上げて襲いかかってくる。その硬い鼻面に一撃を見舞うと、押し返されながらも、その勢いを借りて大きく横に飛びのいた。
斬りつけられた鼻面が即座に癒着されていく。乳白色の体液はそのまま固まると傷跡に白く残った。
その全容は、まるで刺々しく巨大な噛み付き亀のようである。だが、優にバッシを一呑みできそうな顎を持つそれが、正確に亀と言えるかどうかは疑問が残った。
是非ともポコを使って調べたい所だが、この場ではそんな余裕も無い。硬そうな巨大甲羅を見上げた時、地面を踏み鳴らした巨大亀の足元から、乳色の飛沫が散った。
即座に水かさを上げる液体に、その巨体が半ば沈みかけた時、バッシの足元も液状化すると、再びめまいを伴う衝撃が襲ってくる。
驚いて飛び退くと、いつの間にか足元から、浮遊モンスターが湧き上がっていた。
『ここに居なかった訳では無いのか! 逆にこの亀を形成する為に他よりも多く密集していたに違いない』
バッシが気付いた時には、足の踏み場も無い程の浮遊モンスターで満たされていた。咄嗟に鎌鉈を引き抜くと、飛び上がって身近な木に打ち込む。それを取っ掛かりに体を持ち上げると、一先ず鋼の剣を納めて、右手にも鎌鉈を抜いて、打ち込みつつ木をよじ登った。
その最中にも何度も浮遊モンスターが当たってきて、気絶しそうになりながらも、歯を食いしばって耐える。物音と振動に足元を見ると、首を伸ばした噛み付き巨亀が大木に噛み付いてきた。
たった一噛みで半ばまで噛み切られた大木は、その振動に揺れるバッシを乗せて、ゆっくりと傾斜していく。それが他の木と交差した瞬間を見計らって飛び移ると、乳液の飛沫を上げて倒れた。
樹上から見る噛み付き巨亀は、背中の甲羅にさっき見た石柱群を背負っている。これを崩さない事には、サイスの怨霊を倒す事が出来ない。それは分かっているが、次々と湧き上がる浮遊モンスターに遮られて、地上にすら降りたてぬ状態で、何をどうする?
そこに、大きな吸引音とともに、眼下の浮遊モンスターが見る間に数を減らしていく。その先を見ると、巨亀の口中に消えていくのが見えた。
淡い光が集約され、青く輝いて見えたその時、一際大きく開かれた顎から、同口径の光の奔流が放射された。
〝バッシ〟
鋼の剣の共鳴に、バッシは自然と抜剣すると、下に向かって思い切り剣を振るう。それが届くか届かないかの瀬戸際で、光柱がバッシの木を貫くと、周囲の空間を丸ごと吹き飛ばした。
その威力は、紫光を纏った破邪の剣で完全に断ち切ったにも関わらず、余波でバッシの体を弾き飛ばすほどーー大きく体勢を崩して後方の木に衝突すると、生い茂る幹を伝って地面に落ちた。
体中に擦り傷を作りながらも、何とか鋼の剣を落とさなかったバッシは、倒れた木の上に立ち上がると正眼に構えて前方を見据える。
その一直線上で、口から白い煙を立ち昇らせた巨亀が、薄青く光らせた無機質な目をバッシに向けた。
無心で倒木の上を走るバッシは、知らぬ内に雄叫びを上げていた。その眼前には無数の浮遊モンスターが湧き出て来ているが、全て無視して前に構えた紫光の剣が消し去るに任せて突進する。
すると目の前には、浮遊モンスターを吸い込みながら、徐々に発光を強める巨亀が、大きな口を広げ待ち構えていた。その山の如き体躯に向かって、突進したバッシの至近距離で、第二射が放たれる。そこに突きを放つバッシの剣は、紫色の魔光を一際強めた。
質量を伴った光の放射と、紫光の剣が摩擦熱をあげる。吹き飛ばされないように全体重を預けたバッシは、前へ前へと押し込む。
分解された魔力の飛沫が靄を作る中、力の奔流に腕の筋肉が振動し、全身が張り裂けそうな負荷を覚える中で、
〝バッシ……ガンバレ〟
と明確に鋼の精霊の激励の声が聞こえた。その瞬間、紫の光が手元まで、そして全身を覆い尽くすと、超力を得て一気に光柱を貫く。
巨亀の口から後頭部を切り裂いて背中の甲羅に飛び出ると、青く光る石柱群が目の前に並んでいる。
当たるを幸いに剣を振るうと、本来硬いであろう石柱が、バターを切る様に軽々と切り裂けた。残る石柱をも全て切り裂くと、一際大きな光の奔流を撒き散らしながら、巨亀が〝ズズン〟と地面に倒れ伏し、乳液化した地面に沈んで行く。
ーーその時、遠方から「ぎゃああっ!」という悲鳴が聞こえた。
『サイスを殺ったか?』
紫の光を掻き消したバッシは、脱力感にめまいを覚えつつ、沈む甲羅から浮かぶ倒木に移動すると、落ちないようにしがみ付いた。足元の乳液化した沼に、精神力が吸い取られていき、やがては手足を動かす気力すらも奪われていく。しばらく我慢していると、
「バッシ! 大丈夫か、バッシ!」
多分ジュエルの物であろう声が、遠くからぼんやりと響いた。安堵感に一瞬気が遠くなると、そのまま意識を手放したバッシは、それでも鋼の剣だけは固く握り締めていた。
*****
サイスの猛攻に耐え続けてきたジュエルの聖守護力場は、魔力切れ寸前に追い込まれていた。その事を既に承知のマンプルは、仲間達全員に金光を纏わせ力を引き上げると、各々の武器にも土地神の力を宿らせていく。
「もう限界だ! 力場が消えるぞ」
サイスが一際派手にぶつかって来たのを受け止めた後で、ジュエルが叫んだ。それを受けた猫背組の弓手が、
「任せろ」
と金線を尾引かせる矢をもってサイスを射抜く。更に猫人族の前衛夫婦が前に出ると、湧き出し続ける浮遊モンスターを、金色に光る武器で切り裂いた。
サイスは空中で矢を受けると、一瞬体の闇を震わせて反応したが、次の瞬間には「カアアァッ」と威嚇音を発して飛び込んで来た。
それを迎え撃つマンプルとブラムは、二人で練り上げた金光を放射して、サイスの突進を退ける。
本来ならば、不浄の者を即座に消滅させる威力を持つ金光は、サイスの肉を蒸発させるが、不死身と化した再生能力によってすぐに再生していく。
突進しては光の放射で退ける。お互い膠着状態が続く中、マンプル達の魔力も限界に近づいた……その時、突如として金光の矢を受けたサイスの傷が再生されなくなる。
「ぎゃああっ!」
と絶叫を上げるサイスを追い打つマンプル達の金光に、全身を焦がしたサイスは、体の殆どを焼かれて、地面に墜落した。それを逃さなかったブラムは、手に持つ杖をその頭に突き刺すと、呪文を唱えて先端から根を生やす。
地面に串刺しにされたサイスが、のたうちまわり呪いの言葉を吐き続けるのを、侮蔑の目で見下ろしたマンプルは、
「これで最後ニャ、我々の受けた災厄、全て返すニャン」
と言うと、一際輝く光を放つ。魔力の後ろ盾を失ったサイスは一瞬にして消滅すると、後には塵一つ残らなかった。
「終わったニャン」
「フ〜ッ」と長く息を吐き出し仲間に振り返ったマンプルは、飛び上がって喜ぶメンバーと抱き合い、今までの労をねぎらった後で、ジュエル達に向き直った。
「ありがとうだニャ、全て貴女達のおかげニャン。バッシも良くやってくれたニャ」
涙に光る目を瞬かせると、巨人の戦士が居るであろう森の中心部に振り返る。目の前で、疲れも見せない聖騎士団は、彼の元へと走り出していた。
*****
「ッシ……バッシ……バッシ! 大丈夫か?」
遠くから聞こえる声と、頬を打つ平手。途中からジュエルに呼ばれている事に気付くが、どうにも体の動かし方が分からない。
しばらくそんなやきもきした気持ちで頬を打たせていたが、急激に覚醒したバッシは、
「分かった、殴るな」
とその手を掴んだ。
「バッシ! 良かった」
反対側の手からは温かいものを感じる。首を持ち上げて見ると神聖魔法で癒しを施してくれている事に気付いた。
「ありがとう、傷大したこと無い」
と癒しの魔法を止めさせると、周囲を見回した。バッシは巨亀を倒した位置から、少し離れた場所に引きずられたらしい。そこでジュエルの膝に頭を乗せられて、主に頭に向けて神聖魔法をかけられていた。
「大丈夫かワン、おかしな所は無いかワンウ」
ウーシアはバッシの体中を嗅ぎ回ると、異常が無いか精査している。後方からタンたんを抱えて、覗き込んでいたリロと目が合った。バッシは一つ頷くと、リロも笑顔で頷き返す。
地面にあぐら坐になったバッシが、体中に纏わり付いた石や木片を払っていると、マンプルが、
「良くやってくれたニャン、こんな大きな怪獣を守りに付けていたとは、狂いながらも妙に用心深い奴だったニャ」
体表を淡く光らせながら、バッシの元に歩み寄った。
「サイス、殺ったか?」
バッシの質問に、満面の笑みを浮かべたマンプルは、のしかかるように人化すると、
「おかげで無事討伐できたニャン、これも本拠地の魔物を倒してくれた、バッシのおかげだニャン」
豊満な胸にバッシの顔を埋めながら、土地神とは思えぬはしゃぎっぷりで笑い出した。その笑顔と過剰なサービスに、胸の動悸を自覚しながらも、課された使命を達成したと知ったバッシは、安堵を覚える。
「さあ、皆でもう一仕事済ませましょう。マンプル様、お願い致します」
ブラムの声に、猫背組のメンバーが準備を始める。どうやら密林の儀式を始める様だ。
バッシ達は邪魔にならないように端に身を寄せると、目の前で組まれる生木の祭壇を見上げた。
その中心部にマンプルが四つん這いになると、ベイルが輝く魔石粉を惜しげも無く振りまいて行く。
内在する魔力がキラキラと輝きながら昇華していく中で、一際強く輝く金光が周囲に馴染んで行くと、地面を覆っていた乳白色の沼の表面に触れて、バチバチとその表面を焼いた。
腐った物が焼ける臭い、金光が巨亀の甲羅に到達した時は、吐きそうなほど酷い臭いが充満した。だがそれも金光が強まるにつれて、次第に薄まっていく。
「さあ、これで応急処置は済んだニャ、後は時間を掛けて元の森に戻していくニャン。お前達、本当に良くやったニャ、全てが私の誇りだニャン」
両手を広げたマンプルは、仲間達、そしての聖騎士団のメンバーを抱き寄せながら、一人一人の労を労った。
そして鎌鉈を回収していたバッシの所にも来ると、
「今夜、この場所で待ってるニャン。月が一番高い時に、一人で来てくれニャ」
と耳元で囁き、豹の姿に戻ると、悠然と仲間の元に戻って行った。
『一人で?』
とバッシは訝しむが、
『ま、いいか』
と考えを放棄すると、一先ず撤収する皆に合流した。