サイスの怨霊
「いま認識魔法をかけましたから、しばらく待って下さい」
ブラムが注意を促すと、森にかけられていた結界が可視化される。これは怨霊と化したサイスという元魔術師の、昼間の可動範囲を示すものらしい。淡く発光するその範囲内では、昼間とはいえ彼に危害を加えられる可能性が高いと言う。
「これは……益々範囲が広がっている……日中でここまでとは。夜の支配域は森を抜けている可能性もあるな。もはや我々では太刀打ちできない可能性も……」
薄っすらと輪郭を見せる結界の大きさに、年老いたブラムの顔が曇る。その腰を鼻面で突ついたマンプルは、
「大丈夫ニャン、私達には心強い味方が居るニャン」
とジュエル、続いてバッシを見た。ジュエルは確かに頼りになるかも知れない。何せ邪悪なる怨霊に対して、聖職者ほどうってつけの対抗者は居ないだろう。
それに比べてバッシは、単に破邪の剣を持っているだけの存在である。怨霊という存在相手に、単体では能力的にも知識的にも、全く役立たずで経験も無い気がした。
だが最近のバッシは、魔法に対する鋼の剣の能力に自信を深めている。それと同様に、リリの睡蓮火由来の破邪能力にも期待していた。それを試す絶好の試金石と言えば、真剣に故郷を奪還しようとする、マンプル達に申し訳ないか? だが、お互い利を得る関係は、決して悪い事ではないだろう。
そう一人納得したバッシは、鋼の剣の柄を握ると、前方の結界を見つめた。目の前では水にインクを落としたように闇が拡がったかと思うと、あれよあれよという間に空中を黒く染め上げ、巡回する何者かの尻尾らしきものがバシャリと結界を打った。
「サイスだニャ」
前足を上げたマンプルが教えてくれた先にあるのは、蛸の様な、風になびく旗の様な、黒い浮遊物だった。本体が奥に飛び去ると、排気された黒い靄が結界内に滞留する。
「ここから先は昼間でも厳しいニャン。ブラム、一刻も早く儀式を始めるニャ」
と言うと、ブラムの横に身を伏せた。言われたブラムは木製の杖を地面に突き刺すと、魔石片や灰を周囲に振りまき、魔法行使の下準備を始める。
杖に充分な魔力が伝わると〝パキパキ〟と地中から音が聞こえてきた。事前の説明によると、刺した部分から根を伸ばして、広く地中に這わせるらしい。
その杖は、上端が窪みになっていて、そこに〝解呪薬〟の小瓶から、慎重に数滴の薬液を垂らすと、上からコルクの蓋をしめた。
「あと四箇所この作業を繰り返します。発動後はマンプル様の魔法をかけますが、サイスが反応すると思いますので、しっかり護衛をお願い致しますね」
ブラムがジュエルに向かって頭を下げる。バッシが周囲を警戒しながら見ていると、
「バッシ、ちょっと良いかニャ?」
後ろからマンプルに呼ばれた。
「これから準備が整ったら、森の呪いを解くニャ。だけど魔法の拠点は仕組みが違うから、魔力溜まりは祓えないニャン。そして拠点を持つ死霊のサイスは不死身だと思われるニャン」
「何故、分かる?」
「お前達に紹介された魔術師ギルドのリリと、聖都の司教を交えて相談したんだニャン。その時教わった事を魔力で確認したら、どうやらそういう事で間違いなさそうだニャン」
眉間に皺を寄せたマンプルが、金色の瞳を伏せて呟く。
「で、俺に、何を?」
とバッシが問うと、パッと見上げたマンプルが、
「ここで一人、待機して欲しいニャン。そして機を見て森の中心部にあるサイスの拠点を破壊して欲しいニャ。もはや真っ正面から挑んで敵う相手では無さそうだニャ」
と言ってバッシの瞳を覗き込む。金色の光彩に吸い込まれそうになったバッシが、確認のためにジュエルを見ると、無言で一つ頷かれた。
「分かった」
了承の言葉にホッとしたマンプルは、
「この結界が消えたらそれが合図ニャン。サイスは、私達の方に来る筈だニャ。特に私は目の敵にされるだろうから、バッシには目が行かない筈だニャン。けど、結界が消えたら浮遊モンスターが発生する可能性が高いニャ。それだけは気を付けて欲しいニャン」
要するに囮に集中している間に奇襲攻撃を仕掛けて、本拠地を攻略する計画らしい。バッシの行動が彼女達の生死に関わる、とても重大な役どころだ。責任の重さに顔が曇るバッシ、それを見たジュエルは、
「私は聖騎士候補だぞ! お前が失敗しても、正面から撃破してやる!」
鼻息も荒く宣言した。
「もしも無理な時はこれを爆発させるワン、それを合図に撤退も出来るワンウ」
ウーシアに渡されたのは投魔石、これは表面の小さな突起を折った人間が「爆ぜるワン」と唱えると爆発する仕掛けになっているらしい。
リロは無言でバッシを見ると、一つ頷くのみ。その胸元ではタンたんがページをめくり〝し〟〝く〟〝じ〟〝る〟〝な〟とメッセージを送ってくる。
「分かった、お互い、頑張る」
バッシが拳を見せると、仲間達、そして猫背組の面々も拳を突き出した。
*****
立ち去る皆を見送ると、生き物の気配が消えた不気味な森に、一人息を鎮めて待機する。サイスの拠点までは走ってもしばらくかかるらしいので、ストレッチで充分に足腰の筋を伸ばしておいた。
始めて行く拠点の位置が分かるのか疑問だったが、森の呪いが解けて、サイスに魔力を提供している間は、魔光が立ち昇っているらしい。
後はそれをいち早く見つけ、破壊する事が出来るか? どんな規模の拠点かも分からないバッシは、様々な事態を想定して、その対処策を考え続けた。
その時、フッと目の前の杖が光ると、薬液を入れた部分が小さな音を放つ。その光は杖を伝い、地面に吸収されると、淡く光っていた結界が突如消滅した。
その瞬間、森全体に耳をつんざくような、ヒステリックな悲鳴が上がり、地面からポコポコと水溜りの様な物が染み出てきた。よく見るとそれは乳様に白濁しており、その周囲に靄が立ち昇り出している。
その中心部が泡だつと、ヌルリと半透明な物が浮かび上がってきた。それは後から後から、継ぎ目なく湧き上がってくる。
バッシはその水溜りを避けて走り出した。全力で駆ける足元からは、半透明の浮遊モンスターが湧き出して、一斉に空間を埋めていく。
その圧倒的な数に一瞬避け損ねると、浮遊モンスターに接触してしまう。すると触れた肩の部分から悪寒が走り、めまいを伴う疲れがどっと襲ってきた。
『こいつはやばい、精神力を削るタイプのモンスターか』
バッシは腰元の大剣を引き抜くと、避けきれない浮遊物に刃を近づける。すると破魔の効果か破邪の効果か、近づけるだけで次々と皮膜が破れ、乳色の液体となって地面に降り注いだ。
腐った乳のような臭いが漂う中で先を急ぐが、森の中は高い木と浮遊モンスターが邪魔になって、先が見え辛い。それでもガムシャラに走っていると、ほんのりと周囲を照らす青い光が見えてきた。
あれが拠点か? と期待を込めて近づくと、突然少し開けた場所に出る。広場状のそこは、何故か浮遊モンスターも近づけないらしく、ポッカリと空間が開けて見えた。
空間の中心には、柱のように屹立する数本の岩と、周囲を飾る岩塊が円を作り、静かに青い光を放っている。
これが魔法の拠点に間違いない、と確信を持ったバッシが鋼の剣を構えて近づいた時、岩塊の一部が突如として隆起した。
*****
「ではいきます!」
準備を整えたブラム達は、バッシと正反対に設置した杖の元に集まると、解呪の儀式を始めた。用意した儀式場の中で佇むマンプルは、金の渦巻き紋を光らせると人間の姿に変身し、
「いつでも良いニャ」
とブラムを見る。一つ頷いたブラムが周囲を見回すと、全員が覚悟を決めて頷いた。ここまで長い旅路を経てきたのだ。皆の張り詰めた緊張感が、表情から伝わってくる。
息を深く吸い込み、ゆっくりと呪文を唱えていくと、目の前の杖に仕込んだ解呪薬が発光していく。その感覚はブラムに直接伝わり、五つ設置した杖全てに行き渡ったのを確認した。
さらにマンプルが魔力を込めると、解呪薬は空洞になった杖を伝い、地面に染み込む。そこから根を伝って循環した薬は、瞬時にして土地の呪いを焼き殺した。
突如として響き渡る悲鳴。驚いた一同に向かって、
「来るニャン」
前方を見据えたマンプルが、金色の魔光を放射しながら警告を発する。それに合わせて碧銀の盾を構えたジュエルが、
「私が抑えるから、皆は後ろに立って!」
と言いながら前に出た。すでに聖守護力場の準備は整っている。盾には以前とは比べ物にならない魔力が、聖騎士の鎧を介して引き出されていた。
遠くに鳴り響いていた悲鳴が近づいて来る、その恐怖感を振り払うように、さらに一歩前進すると、木々の隙間を縫ってサイスが飛来して来た。その時、地面からポコポコと音がすると、乳のような水溜りが現れる。
「気を付けるニャ! 浮遊モンスターがでてくるニャン!」
マンプルの指摘の直後、泡立つ水溜りから半透明の笠をかぶったクラゲ状のものが、無数に浮かび上がってくる。それは信じられないほどの数となって空間を埋め尽くし、神聖魔法を発動したジュエルの周りを囲うと、ぶつかった浮遊モンスターが次々と消滅していった。
腐った乳のような臭いに包まれる中、サイスの怨霊が悲鳴を発しながら飛来してきた。
それは結界に衝突すると、すがりついて黒い息を吐き出す。それを弾き飛ばそうと、神聖魔法の出力を上げたジュエルが、魔力行使の負荷にうめき声を上げた。
邪悪な存在を、触れるだけで消滅させる聖なる結界。それを逆に攻めたててくるサイスの魔力は、ジュエルを圧倒する程に強かった。
力場の中で集中していたマンプルが、金光を発してジュエルを支える。その癒しの効果に力を得たジュエルは、一際強い魔力を発すると、サイスの怨霊を弾き飛ばした。
「かなり強い怨念を感じる。どこまでもつか分からないから、皆もそのつもりで準備しておいて!」
呼吸を思い出したジュエルが、喘ぎながら警告を発する。彼女にとって聖守護力場は格上の魔法である。それは聖騎士の鎧を得た今でも、長時間使用できる魔法では無かった。
『バッシ、早くしてくれ!』
彼女は仲間の戦士を思いながら、再度襲い来るサイスを見据えた。