池袋駅
「ええ〜続いての駅は〜池袋〜池袋〜です。」
週末の午前8時、大学生の僕は簡単な医療事務も兼ねながら受付のバイトを務める小さなメンタルクリニックに向かって、山手線を左回りに行く。
この山手線はやや特殊な路線で、全長約35km、駅数29駅からなる円環状の線路を、電車はひたすら回ってゆく。
そして道路上の車のように電車を左側通行と考えて、円周上の左回りは内回り、右回りは外回りと呼ぶのがこの線の慣例で、どこまでも直進しながら、そうしてその円環の外には決して出て行けない堂々巡りがこの線の特徴だ。
同じことをただ繰り返すだけの毎日。
それはうんざりするような僕の日常とよく似ている。
山手線上の各駅にはそれぞれ独特の特色があって、それらは互いに地続きの緩やかな関連で結ばれ、街には変わるものと変わらないものとがあり、この車窓もきっとそんな街の人々の光景を毎日飽きることなく映してきたのだろう。
その長い歴史のなかには幾つものドラマを目撃したかもしれない。
でも喜ぶ人も悲しむ人もこの車両からは皆去って行ったし、またその喜びと悲しみの感情の多くはこの車両とは直接に何の関係も持たないものだっただろう。
この車両は、ただ線路と前後の車両に接続されて、数人の駅員とごく少数の奇特な乗客を除いては何ものにも注意されず、合理的に計算された時間通りに、決められた道を歩んで来た。
そこには鉄道会社による合理的な支配があった。
レールとの接続があった。
しかしその車両がいかなる接続をも人間と結ぶことはなかった。
ここで僕は電車を擬人化してきわめて奇妙なことを述べるに至っているが、もう少し続けてみたい。
車両は理性を持っている。
それは鉄道会社の理性の光がそこまで行き届いている、という意味でだ。
その理性に接続され、また線路と物質的に接続されている限りは時間に狂いなく運行することができる。
車両は理性も身体も持っている低級なチューリングマシーンと見なすこともでき、ただ車両には感情だけがないのだ。
人間と機械の本質的な違いはおそらく理性的な部分以上に感情的な部分にある。
そして接続の現実的な形成に際して感情が身体性や理性に対して果たす役割がここで考えたいことだ。
感情がある駅員や乗客の側では特定の車両に対して、毎日利用を繰り返すうちに愛着を覚えることがあるかもしれない。
人間にあっては繰り返しはなぜだか温かな感情を育む。
記憶に刻まれた過去の継続・再現は危険に満ちた自然状態でないことを人間に約束し、安心と信頼を与えてくれるのだ。
しかし感情がなければ愛着がなく、愛着がなければ特定のものとの接続は生じ得ないだろう。
他方で繰り返しからは倦怠感も生じるが、それとセットで表れるのが新奇な出来事へのスリルだろう。
愛着が特定のものに芽生えるのに対して、スリルは真新しささえ感じられれば、特定のものには限られない。
逆に特定のものを否定して不特定を求める感情だと言える。
だがなぜ僕は今このように形式的な分類を行ったのだろう?
それは繰り返しと新奇さを対比させることで論理的に導かれたのだった。
つまり繰り返しへの愛着と新奇さへの恐怖は同義で、そうだとすればまた繰り返しへの倦怠と新奇さへの好奇心は同義であるというわけだ。
しかし人間の心というのは複雑怪奇なもので、僕は自分の心のなかにそれとは異なる論理が働いているのをはっきりと意識している。
それは繰り返しへの倦怠と新奇さへの恐怖の並存で、このために僕は世間に自分の居場所のないのを知りながら、いつまでも現状にしがみつくしか生きる方法を知らないのだ。
「ドアが閉まります、ご注意ください」
外界への扉を固く閉ざして電車はそのまま目白に向けて走り出した。