ドイツ文学の思想性、ロマン派作品を中心に、、。
小説の起源は語り物であり、
どこそこで誰それがどうしてどうなった、という
世間話、、ほら話、嘘話、笑話、
風説の類
ですよ。
これはたとえば典型的なのが「デカメロン」でしょうね。
まさに風説・俗文、世間話、三面記事です。
このように俗っぽいものが本来の小説なのですね。
現実的な事実に基づいたストーリーであること、
現実から離れないこと、
到底、天の高みに上り詰めて
神々とネクタル(神酒)を酌み交わす体の高雅さなどないのが本来なのです。
あくまでも地に足がついた、、というか
俗世間の巷間話から乖離しえない地平にとどまる。
それが本来の小説なるものの有りうべき姿、、なのであろう。
しかし、
その一方では、神話とか、奇譚とか、の
怪異譚系も脈々としてありますね。
どちらかといえば、、
そういう神話系がおそらくドイツ文学の背骨なんでしょうね。
だからドイツ文学となると、
現実にべったりの俗文からは異質さが常について回るのである。
たとえば、、ドイツ小説の祖と言われる
「ジムプリチウス」グリンメルスハウゼン作
を見てみよう。
ここに書かれているのは
ドイツ30年戦争の時代の庶民の悲惨さに彩られた風俗絵巻である。
しかしこれが単なる風俗描写だけにとどまらず
それはまず神の視点からの因果劇であるということだ。
あくまでもこの悲惨な有様は、
神の与えた主人公への試練というか
敷いて言えばカリカチュア?
運命劇?
因果譚?なのである。
だからさまざまな運命に翻弄される主人公「ジムプリチウス」は
神のあやつり人形にすぎず、
彼の体験は結局、最後のサトリのための序章に過ぎなかったという
霊験譚?に到達して終わるのだ。
つまりあらかじめ仕組まれた方便、、主人公があるべき悟りに達するための
経験値を上げるために虚構された仮想事実としての風俗絵巻なんでしょうね?
そういう意味ではこれは寓話劇です。
決して事実べったりの私小説?ではないですね。
それに対して
いわゆる、りアリスム小説というのは
バルザックやゾラを持ち出すまでもなく
市井の悲惨な庶民の描写に終始していて、
そこから一気にサトリとか出家とか
まで飛躍することは皆無ですね。
ところがドイツ文学は市井の描写はあくまでも
悟りの階梯の前段としての描写でしかなく
リアリズムだけにとどまることができません。
最後は神との和解であったり
サトリとしての出家であったりしなければ気が済まない、
精神成長劇としてのプロセスを踏み続ける。
それがドイツ文学です。
そういう意味では現実世界にべったりとのめり込み
市井の暮らしや庶民の女の一生を子細に描きつくす、
そこにサトリだの、精神成長だのという
思想性を持ち込まない、
あくまでも悲惨な庶民の日常描写だけを徹底する。
そういうような、リアリズムはドイツ文学にはムリ?というか
出来ないのですね。
というか、、したくないというのが本音ですね。
たとえばここにゲーテの長編小説「ウイルヘルムマイスターの徒弟時代・遍歴時代」
という1500ページにわたる大長編があります。
主人公ウイルヘルムの青春彷徨を描き、
さまざまな人物との交友で精神的に成長してゆくという
言わゆる「ビルドウンクスロマン」(独逸教養小説)ですね。
そこにはさまざまな人物との出会いや別れ愛憎・旅、風俗・風物が描かれてはいますが
それをたとえばゾラやバルザックの風俗小説のあのいかにも俗悪な露悪的な
地べたを這いずり回るような描写と比べると、
実はそうではなくて
すべてがゲーテの作り出した運命劇のその階梯のための
登場人物は、操り人形でしかなく、それぞれの運命劇の担うべき
パートを演じさせられているにすぎないのである。
たとえばウイルヘルムマイステルの登場人物の
ミニヨン
老竪琴弾き
まさにこれらの人物とは現実ににこんな人がいるわけもなく
ゲーテの総体としての運命劇の中1パートの役割を担った
空想の、、存在である。
このようにドイツ文学を代表するゲーテにしても
いわゆるリアリズム小説は書けない、、というか
書く気もない、、というのが
ドイツ文学なのである。
そうした意味ではドイツ文学に
リアリズム小説はできない、、という結論だろうか。
ゾラのように市井の庶民の悲惨な現実をそのままに
冷徹に描くというようなことはできない、また、したくもない。
そうではなくて
神の視点から地上を眺めて
人の子のたどる運命や階梯を一種の寓話として
事実らしく登場人物を配置して描く。それこそドイツ文学の真骨頂なのです。
どうしてもドイツ人は
神の目で見た人の子の運命をトレースさせるというか
そういう運命劇しか書けないのである。
それがドイツ文学なのだろう。
その典型が
ハインリッヒ・クライストであろう。
彼の小説、、戯曲、、すべて運命劇である。
人の子と運命との激突、相剋、和解。それだけがクライストのすべてです。
そしてこのドイツ的な姿勢をさらに
集約し、、凝縮したのが
「ドイツロマン派」なのである。
ここまで来るともはや運命劇すら超越して
彼らの書くものは。
「思想小説」
或いは「哲学小説」
「因果譚」
だけとなるのである。
到底、現実描写だとか
リアリズムとかそんなものは問題外となるのだ。
ヘルダーリンの「ヒュペーリオン」など
まさに彼の思想の展開でありその色付けのためストーリーでしかないわけである。
まず表白すべき思想ありき、、であり
その思想を物語に乗せて、、神話?あるいはメルヘン?として、説き語りする、、
そういうスタイルである。
だからこの「ヒュペーリオン」は、思想小説というか、、哲学小説というか、
まるで聖書の中の、一物語のような寓話的な啓示小説、
「知恵の書」、、、宗教の宣布書みたいな体裁と化すのである。
のちにポエムで自らの思想をまるで教祖のように
宣布したあのニーチェの先駆者がヘルダーリンだったといえようか。
その意味で「ヒュペーリオン」は
ニーチェの「ツアラストラ」の先駆的作品と言えるわけであろう。
同じように詩で自らの世界観や思想・教義を展開した
ノヴァーリスの「青い花」になると
これは詩の称揚であり、
ポエムの世界の構築と
オカルト的な自然哲学の説き語りであり
ストーリーはそのための、方便?というか
現実味など皆無な荒唐無稽な
メルヘンとなっているわけだ。
もともと市井の庶民描写などしようとも思っていないし
目標は詩文学の水晶宮の構築であり、
聖なる自然の秘密の解明だから
庶民が悲惨な暮らしをしたというような描写のリアリズム小説など
まったく問題外というわけだ。
みずからの思想、ポエムの王国の構築それが目的であるから
ゾラのような庶民描写など全く問題外なのである。
これがドイツ人の精神性であり
精神性の実の空中浮揚?という心性なのである。
もっといえば民族性である。
現実の事実をそのままに描写するというような
それだけに終始するようなことはドイツ人のもっとも嫌うところであろう。
もっと精神性の浮揚を、
もっとポエムの天空へ。
もっと空想の翼を広げて。
もっと、思弁的に
もっと神話的に
もっとメルヒェンチックに、
こういう現実離れ?というか
思索性というか、、内面性へののめり込み?
これこそが
ドイツにあのヘーゲルやカントという哲学者を排出せしめた最大の理由なのだと私は思う。
そしてドイツロマン派はそれを
究極のポエム形式で表白したということである。
ポエムと思想が結着した。
そしてまず表白すべき思想や哲学あるいは理想の王国があり
ポエムやメルヘンは
あくまでもその表白手段にすぎない。
それこそ、ドイツロマン派の本質なのである。
それこそがドイツ文学そのものなのである。
それこそがドイツ的な心性そのものなのである。
まさにドイツロマン派文学とは
そうしたドイツ的な心性の
究極の頂点と言えるわけなのである。