逃走
重量感のある皮袋を片手で掴んだまま、アレンは階段を降りていく。
行きと違い、やや大きな足音を踊り場に反響させる。
そしてそれはもちろん、他の人間にも聞こえるのだ。
「どたどたうるせえなぁ、せっかくの良い気分が台無しじゃねぇか。」
「俺は料理に埃が入ったな。」
「おいおい、からむのはやめろよなぁ。相手はなんせAランクの上級冒険者なんだぜ?」
「討伐達成率ゼロパーのナ。」
「一件も受けたことがないんじゃなく、一件も達成したことがないというところがみそだな。」
げらげらと耳障りな笑い声が酒場を包む。
ここにいる人間は一様に顔が赤くかなりのアルコールを摂取していることが伺える。
酒のにおいか、大きな笑い声のせいか。
リョートがびくりと体を震わせ、まどろみが覚醒しつつあることを伝える。
アレンは階段の最後の一段を下り、ひどく機嫌が悪そうに酒場の集団を見る。
勿論、酔っ払い相手にその反応は悪手でしかない。
「あぁ~ん?なんか言いたい事があんのかよ。」
階段のすぐそばに座っていた男がのっそりと立ち上がる。
身長こそアレンよりやや高い程度だが、腕の太さが二周りは違う。
そして、その特化した腕力を有効に使うための槌が彼の座っていたテーブルに立てかけられている。
「別に。」
アレンはあくまでそっけなく言うが、体から滲み出た苛立ちが隠しきれていない。
酔っ払いは、それを敏感に嗅ぎ取る。
「別にって目じゃねぇだろぅ?しけた面してんじゃね……持ってんのは金か?」
「やる。」
酔っ払いに皮袋を押し付けて、アレンはすばやく出口へ走り出した。
走るのは、好きだった。
走り出した最初は息苦しいし、足は重くなるし、周りの視線も痛い。
息苦しいもやもやしたものを抱えて、それでも走れば必ず出口があった。
出口にたどり着いた時の視界が広がる感覚は癖になる。
熱い息を吐いて新しい空気を吸うたびに、全身に力が溢れ何処にでも行けそうな全能感に思考が麻痺する。
走っている間は何も考えなくていい。
それが、好きだった。
ギルドを出たのが昼過ぎ。
そこからアレンは走り続けた。
人込みを避け裏路地へ、暗い目を避け大通りへ、怪訝な顔の門番を尻目に街道へ。
何十人もの人間を追い越し、十何台かの馬車を追い越し、何匹かの馬に抜かれ。
東へ、東へ、東へ。
アレンが足を止めたのは、少し大きな町の入り口が見えた頃。
日は傾き、空は赤から緑へそして黒へと姿を変える刹那の時間。
鳴り響く心臓の音とさらに前へ踏み出そうとする足を意志の力で止め、一つ大きく息を吐いた。
「ん?着いたのか?」
リョートが欠伸を一つする。
「いや?まだまだだな。」
水を求めてかすれる声で、アレンが答える。
「ふむ、何処に行くかは決まったのか?」
あくまで暢気に、リョートは聞く。
「あぁ、決まった。」
アレンが町を睨む。いやそのもっと先を睨みつける。
その顔に、商館での苛立ちは浮かんでいない。
「国境へ、凶龍の住む山へ行く。」
そうか。とリョートは眠たげに答えた。




