STAGE 2-2 =妖狐と死神=
都内某所にその身を置く廃ビル。まだ日が真南に昇っている様な真昼間であるにも関わらず、その場所は陰湿で恐怖感を煽る雰囲気を漂わせていた。普通の人間ならば、本能的にこの場所を避けてしまうだろう。
だが今、そんな幽霊ビルに足を踏み入れんとしている男性が一人いた。首元まで伸び、酷い寝癖が付いた髪と、鋭く切れた漆黒の瞳を携え、まるで人を騙す妖狐の様な雰囲気を醸し出している。
彼の名は、楢橋剣斗。日本の首都「東京」の四分の一を使用した死亡遊戯、「ギミック・ゲーム」の監視者を勤める者である。
ゲーム監視用カメラの映像が映し出される複数のモニターが不気味に構える5階の一室を仕事場とし、おそらく他の誰よりもこのビルの構造を熟知しているであろう。
本来ならば、彼はこのまま5階のモニタールームへと赴くのだが……今日は違った。
廃ビルに入った後、普通なら階段を上る所を、今日は降りてしまっている。一階から階段を降りた場所にある空間、つまりは「地下」へと。
このビルは、過去はとある事務局のオフィスなどに使われていた場所で、本来「地下」などと言う空間は無かった。ディスクワークが主体という事もあり、作る必要が無かったのだ。だが、現にこうして地下たる空間は在る。
早い話が、作ったのだ。
ある組織が、ある実験のために。
折り曲がった階段を下り終えた時、暗く淀んだ空気が剣斗の体を舐める。何度も此処に足を運んでいる剣斗だったが、この空気にはどうも慣れない。
不快感に眉をひそめ、剣斗は薄暗い廊下を、コツン……コツン……と、音を立てて歩いていく。
苔むした、約50mほどの長い石造廊下の両端には、禍々しい雰囲気を放つ鉄の牢獄が、薄気味悪く連なっていた。これは「過去に牢獄として使われていた物を残してある」という様な代物ではない。
今、この時代に、現在進行形で使われているモノだ。
牢獄の中には、「人らしき者達」が、その尖りきった眼光を剣斗に向けている。身体は長時間地下に閉じ篭っていた為に穢れきっており、瞳以外からは生気が微塵も感じられない。一ヶ月近く何も口にしていない餓死寸前のライオンの様な瞳だ。いつ剣斗に襲い掛かっても全く不思議ではない。
だが、剣斗はそんな無数の敵意を気にすることなく、牢獄群を歩いていく。その鋭い黒眼を鈍らせる事なく。
しばらく行くと、そんな地下世界とは不相応な鉄の扉が、剣斗の前に立ちふさがった。
「禁断の扉」さながらの雰囲気を醸し出す扉の存在感に臆する事なく、剣斗は取っ手に手をかける。
しばしの静止の後、剣斗は取っ手を握る右手に力を込め、重くヒンヤリとした扉を押し開けた。
刹那、彼の視界を「光」が覆う。
陰湿な鉄の扉の先にあったのは、まるで「宇宙航空研究開発機構」の様な、静寂とパソコンが支配する、少年野球場ほどの広さを誇る空間だった。初めて入った者は、どこでもドアでも使ったのでは? と錯覚しても可笑しくない。
「あ、楢橋の旦那じゃないですかぁ~。お久しぶりですぅ~♪」
静かな室内に、ほわわんとした雰囲気を纏った声が木霊する。同時に、剣斗の前に一人の少女が、スキップをする様に近寄ってきた。
明るい朱色の髪は、少し巻かれて腰辺りまで伸びている。小さく可愛らしく整った顔の中には、大きく丸い小金色が二つ、キラキラと光っていた。頭には虎と思わしき獣耳のカチューシャを付け、黒いショートパンツとこげ茶色のブーツを着用。上半身は胸元に大きな赤いリボンの付いたパフスリーブで覆われ、両手首に桃色のシュシュを装着していた。年は10代前半だろうか。外見は年相応のものに見える。
ただ一箇所を覗いては。
それは、女子ならば誰もが気にするであろう、へその上辺りにある二つの膨らみ。そう、「胸」だ。
この年の少女は、まだ貧相であっても不思議ではない。いや、それが普通だろう。
だが彼女は、とにかくデカい。メロンでも詰めているのでは無いかと思われるほど、デカい。一体何を食べたら此処まで集中的な成長を見せるのだろうか。しかも彼女の着用するパフスリーブは薄手で、華奢な体つきに反するそれには対応し切れておらず、美しい谷間が露になっている。可愛らしいロリ顔に規格外の巨乳、しかも薄着の上着と言う、健全男子ならば卒倒してしまう様な少女に、剣斗は微笑んでみせる。
「よう、真紀菜。久しぶりだな」
「お久しぶりですぅ~。ずぅ~っと旦那に逢いたかったんですよぉ~?」
真紀菜、と呼ばれた少女は、天使の如き満面の笑みを剣斗へ向けた。
少女の名は、世道真紀菜。全国の幼女愛好家の皆様には申し訳ないが、こう見えてもれっきとした社会人であり、まもなく23歳の誕生日を迎える。
「ところで……アイツは?」
心なしか、声を低くして剣斗は言う。
それは、これから宿敵との戦いをが待っているかのような表情だった。
真紀菜は若干首を傾げ、上目遣いに剣斗を見据える。
「アイツって……あぁ~局長ですかぁ~? いつもどぉ~り、あそこでだらだらしてますよぉ~」
そういって真紀菜が指差した先には、確かに一人の青年が、文字通り「だらだら」していた。
年は、剣斗とそう変わらない様に見える。身体は痩せ細っており、生気が欠片も感じられない。薄茶に染まった髪はボサボサに乱れてしまっている。
ヨレヨレの白衣に身を包んだ彼は、右足を椅子の体育座りの要領で上に乗せ、左足は右足と90度になる様に胡坐を掻いている。白く細い悪魔の様な両手にはコーヒーカップを携え、その水面を覗き込む様に俯いている。どことなく剣斗と似た身体的特徴、雰囲気を持ちながらも、彼とは異なった雰囲気を受ける青年だった。
剣斗は嫌悪に眼を細め、青年の前へずんずんと歩み寄っていく。
そして青年の前で足を止めると、ようやく彼も剣斗の存在に気付いたのか、顔を上げた。
見る者全てに負の印象を抱かせる様な瞳だ、と剣斗は思う。 無感情な灰色の瞳の下には濃い隈が出来ており、まるで「死神」の様である。
青年は剣斗の顔をしばし食い入るように見つめ、やがてニタァ、という効果音が付きそうな不気味な笑みを浮かべた。
「これはこれは……懐かしい顔を見てしまったりしましたね」
妙な口調のその青年から紡がれる言葉は、その一つ一つが何かの呪文の様に不気味だった。
青年の名は、立花創造。
東京の地下に悠々と広がるこの空間にて、ある実験の総責任者を務める青年である。
「相変わらず薄気味悪い奴だな、創造」
剣斗は嫌悪感を隠す事無く言う。
だが創造は、その不気味かつ余裕な笑みを絶やさない。それどころか一層その笑みを深めたのだ。
「アナタも相変わらず無愛想な方だったりしますね。ともかく、ようこそ能力者製造実験室へ」
剣斗は小さく舌打つ。
「歓迎は不要だ。能力者を創り出そうなんて気味悪い実験に興味は無いんでな」
「あらら、だったらどうして実験室に来ちゃったりしたんです?」
少し残念そうな雰囲気を纏う無表情で、創造はわざとらしく首をかしげた。
「お前に聞きたい事がある……今日からのギミック・ゲーム、また奴等を放つと聞いた」
「それが?」
剣斗は顔を一層顰め、机に両手を付いて、前のめりになって創造の顔を睨む。
「奴等を連続して放つ事は禁止されている筈だ。局長たるお前が、それを知らんとは言わせんぞ」
「えぇ、もちろん知っちゃったりしてますよ」
一向に表情を変えない創造。
真紀菜が、それを遠巻きに見つめていた。
「お言葉ですが、実は今回の彼等の投入は、本部からの命だったりしちゃうんですよ」
「……何?」
苦虫を潰したように、剣斗は顔を顰める。
対照的に、創造は邪神の如き笑みを浮かべた。
とても邪悪に、醜悪に、そして愉しそうに――――。
「私としては、一石二鳥だったりしちゃうんですけどね。実験データも取れますし……」
一泊おき、創造は告げる。
紛う事なき、彼の「本心」を。
「うまくいけば、あの天突鍵を葬るチャンスも生まれるわけだったりしちゃいますから」
静寂が、実験室を支配する。
断片的に聞こえるコンピュータの音も、もう聞こえない。
剣斗、創造は互いに対照的な表情で対峙し、真紀菜は何の表情も無くそれを見つめていた。
この静寂から支配権を奪ったのは、剣斗だった。
机から手を離し、見下す様に創造を見つめる。
「近々思い知る事になるぜ、お前」
剣斗の声が、室内に澄み渡った。
憎悪でも嫌悪でもない、ただただ澄み切った声が。
「天突鍵を葬る事が――――どれだけ困難な事か」
創造は、答えない。
剣斗もまた、次の言葉を紡ぐ事はない。
そのまま創造に背を向け、出口へと戻っていく。
途中、少し心配そうな表情で「大丈夫?」と真紀菜が声を掛けてくれ、剣斗はそれに対し、「問題ない」と優しく微笑み、頭を撫でた。
「――――アナタが彼の何を買っているのかは知りませんが……私は私の生み出した作品に絶対的自信があります」
一人事の様に、創造が言葉を紡ぐ。
対して剣斗が歩みを止める事は、ない。
ガゴン、と音を立て、既に鉄の扉を開いていた。
「天突鍵もまた、私にとって貴重な実験材料であり、同時に――――『憎悪を向けるべき相手』でしかありませんよ」
創造の言葉は、剣斗の耳に届いたのか。
彼が薄暗い地下牢へと消えた今、それを確かめる術は無い。
創造はフッ、と淡く微笑み、こちらを見つめる真紀菜に向かって、告げた。
「さぁ、世道さん。仕事に戻りますよ」
彼の手に載せられたコーヒーカップを満たしている液体は、既にその温度を無くしていた。
■
けたたましい音を立てながら、剣斗は地下牢を抜けていく。
来る時は両端から向けられていた無数の殺意も、彼の並々ならぬ雰囲気には霞んでいた。創造の元へ行く事自体、剣斗は好きではない。いや、むしろ嫌っている。
あの人を小ばかにしたような態度もそうだが、あの不気味な灰色の瞳が、苦手だった。
自分の心の奥底までも、見透かされてしまいそうな気がして。
一歩一歩進む度に、不快感が剣斗の心を刺激していく。
「くそっ!」
思わず、剣斗は近くにあった牢獄を殴りつけた。
ガンッ! と金属音が、薄暗い廊下に空しく響く。
直後、
「……また、アイツと逢って来たのか」
ノイズが掛かった様な男性の声が、牢獄から剣斗の耳へと這い寄って来た。
剣斗は若干睨む様に、その牢獄の主を見やる。
他の獄者同様、ボロボロの穢れた服を着た男だった。本来は金であったであろう髪は、今は土で茶色がかっている。暗い牢獄を刺す様に光る紅の瞳は、しっかりと剣斗を捉えている。
剣斗が殴りつけた牢獄の主、神刷琢磨だ。
「おいおい心外だな……自分から牢獄を殴り付けておいて、何だその眼は?」
「……何か、用か」
琢磨の問いに答える事なく、剣斗は吐き捨てる。
「つくづく無愛想な男だ……それより、アイツには何を言っても無駄だぞ」
「アイツ」というのが誰の事なのかは、剣斗にはすぐ分かった。
「アイツのアレは、他人がどうこう出来るものじゃない。いや、もう本人にも改善の手立てが無いかもな」
「そうだろうな。尤も、俺はアイツを改心させるつもりなんて更々無いし、アイツがこの先どうなろうと知った事ではないが……時に神刷」
「何だ?」
「お前、前回のギミック・ゲームで殺した相手の事を覚えているか?」
剣斗の問いに、琢磨は思わず声を上げて笑った。
彼の問いが面白かった、という訳では無い。
やがて笑いが収まると、琢磨はその鋭い紅を再び剣斗へと向ける。
「殺した奴の名など……いちいち覚えてられるか」
「…………そうか」
剣斗は何の感情も乗せる事無く呟き、再び地下牢を抜けんと歩みを進める。
「おい」
地上へと繋がる階段に一歩足を踏み入れた剣斗は、その声に一度、足を止める。
「その俺が殺したって奴の名……一応聞いといても良いか?」
剣斗は振り返る事なく、琢磨が求めた名を、淡々と告げた。
そして、カツン、カツンと音を立てながら、地上へと消えていく。
琢磨は冷たい石の壁に背を預け、天井を仰ぐ。
その雪の様に白い顔に、不気味な笑みを浮かべて―――。
「フ……フフフ……アッハハハハハ!!」
琢磨は右手を眼に当て、牢獄中に響き渡る程の大声を上げた。
狂気と邪悪に満ちた、常人ならば有り得ない様な声だった。
「面白い……俺から逃げ延びた奴がいたなんてな」
琢磨は右ポケットに手を突っ込み、ある物を取り出した。
「如月来夏、か……良い退屈凌ぎになりそうだ」
右ポケットより取り出した飴玉を口の中で転がしながら、琢磨は一人、呟いた。