第二幕、ジュリエット・バルコニー8
享都市下業区某筋御冗通り上る――貧民街。その公園の井戸端。
「……」
ジュリが崩れた壁に腰をかけ、ロザラインにそっぽを向くように己の膝に片頬を乗せていた。
「こんな天気のいい朝に、随分とご機嫌斜めじゃないか、ジュリ。叛能寺にいってたんだって?」
ロザラインが洗濯物の水分を叩いて飛ばしながら、惚けたジュリに振り返った。
「……」
朝から天気がいい。だがその陽気に、心ここにあらずの顔でジュリは当たっている。
「ま、何があったか知らないけど。今日の天気なら、むしろ太陽で乾かしたいからな。洗濯の手伝いは勘弁してやるよ。それにしても、朝早くから変だな? 何があったんだ、ジュリ?」
「そんなに朝早かったかしら……」
「まあ、九時を打ったところだけどな」
「気が重い時は、時計の針も重いものね。もう夜の九時だと思ったわ」
「何、朝から黄昏れてんだ? 恋でもしてんのか?」
「――ッ! そんな訳ないでしょ……」
ジュリはロザラインに振り向きもしない。
「おや? ひょっとして、図星か?」
「うるさいわね……違うわよ……」
「そうか? 意中の思い人に、相手にされてないように見えるけどな」
「違うって言ってるでしょ!」
ジュリはロザラインから逃していた顔を、更に捻って視線を外そうとする。
「じゃあ何だよ? てか、切り返しがおかしいぞ。本当に大丈夫か? 腹でも痛いのか?」
「別に、腹が立ってるだけよ」
「何にだよ?」
「自分の人を見る目によ」
ジュリはそう言うと、苛立たしげに立ち上がる。
「何処行くんだよ?」
「マキのところよ。あの娘のクスリ、まだ抜けてないのよ」
ジュリはそのまますたすたと貧民街の奥へと歩いていく。惚けて、立ち上がって、歩き出す間、一度もロザラインと顔を合わせなかった。
「ま、冗談半分に言い寄られるよりは、本命見つけてくれた方が、アタイは助かるけどね!」
ロザラインは小さくなっていくジュリの後ろ姿に、聞こえるように言ってやった。
享都市下業区彫皮私痴情通り上る――
西本銃寺。
「ティバルト警部。お呼びですか?」
ぜいぜいと息を切らしながら澪は朽ちかけたその門前に現れた。
「遅いぞ、ロミオ。息も切らしてんじゃねぇ。今から仕事だぞ」
ティバルト警部と呼ばれた背の高い四角い顔の男は、無愛想に澪に応える。門の柱に身を預け、気だるげに寄りかかっていた。先にジュリを講堂で狙い撃った気の早い刑事だ。
ティバルトは随分と背が高い。今は門に背中を預けて少々足を前に投げ出してもいる。にもかかわらず息せき切ってやってきた澪を、ティバルトは文字通り下に見ていた。
手持ち無沙汰なのか、手に持ったリボルバー式の銃を忙しなく指で回している。元からそういう玩具かと見間違う程、それはティバルトの手の中で激しく回っていた。
「申し訳ありません」
澪が居を正して敬礼した。それだけで澪の呼吸はすっと整い始める。
澪は息を整えながら、集合場所の西本銃寺を見渡した。叛能寺と同じく廃墟と化している。
禁呪法以来、祈りに繋がる場所は皆急速に廃れていった。
門を正面にとらえるこの寺の本殿も、左半分が完全に崩れてしまっている。遠目に見える能楽堂も、もはや土台しかない。かつての手水舎には、飲み水を求めて人々が集まっていた。だがもう底の方にしか水がないのだろう。皆が身を乗り出して水を汲もうとしていた。
鐘を吊った鐘楼は雨露を凌ぐ人々の寝床になっていた。鐘を打ち鳴らす為の木材――鐘木は遠の昔に持ち去られているようだ。鐘はその大きさ故にか、むしろ無事にそこに残っていた。
だがその鐘を吊るす鐘楼の方は、いつ崩壊してもおかしくない有様だ。鐘の下に寝る人々は、そのことを考えまいと暮らしているのかもしれない。元より他にいき場などないのだろう。
「任務ですか?」
「ゴミ掃除だよ」
ティバルトはくわえていたタバコを面倒くさそうに吐き出した。タバコは火が点いたまま、ティバルトの足下遥か先に飛んでいく。その火を消すつもりは毛頭ないようだ。
「クスリの常習者の一斉検挙ですよね? そういう言い方は感心しません。不適切発言ですよ」
澪は何げない風を装って振り向くと、ティバルトが吐き捨てたタバコに目を向ける。
ジュッという水分が蒸発する音がして、澪の氷の呪術にタバコの火が消えた。
「ふん。キャリア様は、真面目だな」
ティバルトが吐き捨てるように言った。まるでもう一本タバコをくわえていたかのようだ。そして持ち替えた瞬間が見えなかった程の手捌きで、回転していた銃のグリップを強く握る。その様は何処か苛立たしげだ。
「相手も人間ですよ」
「はぁ?」
ティバルトは四角い顔を歪めた。リボルバーの弾倉を大げさに開け閉めし、聞こえよがしにその不快な金属のこすれ合う音を響かせる。
まるで弾丸を撃つ代わりに、その音で我慢したかのような仕草だった。
「『はぁ』って!」
「いいか、ロミオ。よく覚えておけ。相手はとっくの昔に人間止めてんだよ。特に黒いクスリに手を出した連中はな、黒い涎垂らして、一瞬であっちの世界いっちまってるんだよ」
「……我々がクスリの常習者を逮捕するのは、その更生と社会復帰の為でもあるはずです……」
「社会復帰? 欺瞞だね。ブタ箱からゴミ箱に帰っていって、いったい何が変わるってんだ? どっちにしろ、ゴミ食って生きてくだけじゃねぇか」
「ティバルト警部! いくら何でも言い過ぎです!」
「けっ、そうかよ! ほら、いくぞ。制服組は、もう向こうで集合してるからな」
ティバルトは柱からやおら背を離し、銃を左の腰のホルスターに戻した。
「向こう? そう言えば、現場から少し離れてますね。我々は何故ここで集合したんですか?」
「決まってる!」
ガンッ――という銃声が鳴り響き、遠くで鐘が打ち鳴らされた。いや、撃ち鳴らされた。
「――ッ!」
澪が気づいた時は全てが終わっていた。
「ここは、西の本銃寺だぜ! 〝ガンかけ〟に決まってんだろ!」
ティバルトは目にも留まらぬ早業で、西本銃寺の鐘を狙い撃っていた。