第二幕、ジュリエット・バルコニー7
同時刻。
享都市下業区鴉魔通り萎小路通り下がる――享都駅。
「いやはや、参りますな。長期の出張というのは」
首都へと向かう高速鉄道の待合室の中に、遠慮を知らないだみ声が響き渡った。
ガラス張りの待合室の中に、整然とイスが並んでいた。多くの旅客が静かに電車を待つその待合室に、我が物顔でその声は響き渡る。誰もが一度はイスから身を乗り出してそちらに振り返り、その声の主の顔を確かめるや慌てて首を引っ込めた。
暴力で顔の形を整えた。そんな無骨な顔が、上機嫌でふんぞり返っていたからだ。
声の主は享都府警本部本部長モンタギュー。
彼は周りの迷惑もそ知らぬ顔で、そのガサツな声を張り上げる。
鉄道警察の警官達が、警護の為にかモンタギューの周囲を固めていた。
モンタギューはその警官達の迷惑げな顔も気にせずに、ガサツなだみ声を続けた。
「ま、久しぶりの中央。羽を伸ばすのも、おつですかな」
「ええ。そうですね」
その声ににこやかに答えたのは、柔和な笑みを浮かべた男だった。
柔和な男はモンタギューの席の奥に座り、直前まで見ていた紙片を伏せた。一瞬空気にはだけたその紙面から『To be, or――』の一文が垣間見えた。
「気になりますか? キャピキャピレッド団などという、ふざけたギャング団の首魁は?」
「誰しも、望んで犯罪者になる訳ではありません。彼の生い立ちを想像するに、どうにか更生できないものかと考えてしまいますね」
「彼?」
「失礼。彼女でしたかな? 府警の皆さんが、血眼になって追いかけているギャングスターは?」
「がはは。スターなどというと、つけあがるだけですよ。あの女はね。しかしギャングの更生にまで、気を遣いなさるとは。流石元こうせ――」
「キャーッ!」
モンタギューが何か言いかけると、待合室をつんざく女性の悲鳴が轟いた。
その悲鳴に誰よりも早く立ち上がり、また声のした方にモンタギューが振り向いた。
モンタギューの視線の先には、逃げる男とその男に追いすがろうとする女性の姿があった。男は女性向けのカバンを小脇に抱え、周りを押し倒しながら駆けていく。
「ひったくりか。よりによって、このワシの目の前でとはな」
モンタギューはそう呟くと、何げない様子で左手を振るった。
「――ッ!」
ひったくりの男は、その瞬間に後ろに体を引かれる。奪ったカバンが、手首につけていた時計が、腰のベルトが、見えない力で後ろに引かれた。いずれにもついているのは鉄の金具だ。
「ひっ……」
そのあまりの力に堪え切れなくなったのか、男が奪ったカバンを思わず手放す。カバンは磁石にでも引かれたかのように、女性の前に飛んできた。
「おっと。カバンは返しても、罪は償えんぞ」
「この……」
男は更に手首の時計も慌てふためいて外した。時計が後ろに飛ぶや音を立てて床に転がる。
「がはは。そんな安物の時計では、罰金にはほど遠いな。ついでだ。ベルトも置いていけ」
「――ッ!」
突然ベルトがはじけ飛び、足首まで落ちたズボンに男は足を取られてひっくり返る。すかさず鉄道警察の警官達が倒れた男に飛びかかった。男は瞬く間に警官の山に埋もれていった。
「おみごと。流石はモンタギュー本部長」
モンタギューの横に座っていた柔和な男が、ろくにその現場も見ずに口を開く。
「がはは。いや、なんのあれぐらい。あなたのでん――」
「あの、警察の方でいらっしゃいますか?」
モンタギューが何か言いかけると、不意に二人は声をかけられた。若い女性の声だ。
二人が振り向くと、小さな男の子の手を引いた女性が立っていた。親子のようだ。
親子は鉄道警察の警官に寄り添われている。先程のひったくりの被害者を、この警官がいち早く保護してここまで連れてきたのだろう。
「おお! そうですよ! 大変でしたな。ご無事でしたか?」
「ありがとうございました。何とお礼を言えばいいか」
若い母親は何度も頭を下げる。小さな男の子は尊敬の眼差しでモンタギューを見上げた。
「がはは。坊主、今度はお前さんが、お母さんを守ってやれよ」
モンタギューはそう言うと、男の子の手をとって握手した。
痛い程の力で掴まれ、男の子は困惑の笑みを浮かべる。だが嬉しいようだ。はにかんだ笑みで、いつまでもモンタギューを見上げた。
「そうだ。知事。知事も握手してやっては、いかがですかな?」
「知事様でしたか? 享都府の? まぁ、それは光栄です。ぜひ」
「はは、私ですか? 私は何もしてませんが?」
知事とモンタギューに呼びかけられ、柔和な笑みの男はその笑みを親子に向ける。
「――ッ!」
不意に母親が己の胸に手をやった。突然の痛みに襲われたかのようにその胸元を押さえる。
「どうしました? 心臓でもお悪いので?」
モンタギューが心配げに声をかける。
「いえ……そう言う訳では……ほら、握手をしてもらいなさい……」
母親は恥ずかしげに頬を赤らめると、それを誤魔化すかのように子供の手を引いて握手をうながした。男の子がおずおずと知事に手を差し出す。
バチッ――と、その二人の手の間に火花が散った。
「――ッ!」
「おや、残念――」
子供が慌ててを引っ込めると、知事がこちらは慌てる様子もなく手を降ろす。
「静電気のようだ」
怯える子供に向かって、知事は何処までも柔和に微笑んだ。