第二幕、ジュリエット・バルコニー5
「落ち着きなさいな。安物化繊スーツの刑事さん」
「落ち着けですって! てか、安物化繊で悪かったわね!」
肩で息をして戻ってきた澪に、ジュリが呆れたように声をかけた。
澪は慌てて本堂を飛び出すと、何度も後ろを振り返りながら参道を駆けていった。ジュリが逃げ出さないかと心配だったのだろう。だが澪の上着を着た子供の母親に、つかまってしまったようだ。お礼を言われているのか、その場で幾度も頭を下げられていた。
澪はその間も本堂に落ち着きなく目をやり、困ったように母親と話し込み始めた。澪は子供と一緒に焚き火に当たりながら、窮状を訴えているらしき母親の話に忙しなく頷いた。
その様子を確かめたジュリは、ロレンスとお茶を飲むことに決めた。澪とその母親の話は、長くなりそうだったからだ。
ジュリがテーブルを用意すると、ロレンスが湯のみと茶葉と水の用意をしてくれた。
戻ってきた澪は、上着を返してもらっていた。澪はやはり入り口で苦労して革靴を脱ぎ、肩で息をしながらジュリに詰め寄った――という訳だ。
「上着、あげたんじゃなくって?」
「あげたつもりだったんだけど、もう日が昇ったからいいって……」
「そう? ふふん。まぁ、いいわ。座ってお茶でも飲みなさいな」
「何、澄ました顔してんのよ? 私、あなたを、逮捕しにきたんだけど」
澪はテーブルに手を着いてグッと身を乗り出し、眉間にシワを寄せてジュリに顔を近づける。
「……まぁ、ロレンス様が見てますわ……でも、どうしてもとおっしゃるのなら……」
ジュリはそう呟くと、そっと目をつぶる。そして待ち構えるかのように唇を突き出した。
「――ッ! 違う! 何してんのよ? てか、何よこのノリ!」
「まぁ、違いますの? 思わせぶりとは、罪なお方。私一人をその気にさせて。まるで見た目ばかりは軽やかな、コルテヴェーク―ド・フリース方程式ですわね。難しい計算――駆け引きをさせて、導き出す答えがソリトン――孤立波とは。何と残酷な」
「むむむ……もひとつ、何を言ってるのかよく分からないけど……罪を犯してるはあなたで、犯罪者が孤立してようが、知ったことではないの」
「まぁ、座って下さい、澪殿。逃げる気なら、ジュリは何度も逃げる機会があったはずだ。だがこの通り、ジュリはあなたと話がしたいらしい」
「う……ロレンス僧正が、そうおっしゃるのなら」
「ここのお茶は、ロレンス様が栽培なさっている、滋養にいい葉を使っているのよ」
渋々ジュリの隣に座った澪に、そのジュリが少々欠けた湯のみを差し出す。
「へぇ……」
「その茶葉も、疲労回復にいいやつを、使っておりますな」
「わぁ。ありがたいです」
「ロレンス様は薬物の専門家なの。その気になれば、息の根を止める薬も作って下さいますわ」
「なっ!」
「四十二時間限定ですがな」
「そう、四十二時間――『死に』の時間だけ、仮死状態にしてくれるのよ」
「何の薬ですか? あんまり警察官の前で、物騒なこと言わないで下さい、ロレンス僧正!」
「それ程ロレンス様の腕は、確かということよ。まぁ、そんなロレンス様のお茶でも、慌てん坊や、バカ正直が、治るかどうかは知りませんですけどね」
「いつも一言多いわよ、あなたは。あっ、おいしい」
やっとお茶に口をつけた澪が、素直な感想を漏らす。
「それは何より。ジュリの奴は何を飲んでも、天の邪鬼に不味いと言いますからな。少々勘ぐっていたところです。本当においしいのかと」
「えっ、ちゃんとおいしいですよ! 渋いのに甘みがあって、口全体を包み込むように香りが広がって、舌なんてマッサージされてるみたいです」
「そう? それは淹れた人間の、火加減の腕も褒めてもらいたいわ」
「何? あなたが淹れたの――えっと……」
「呼びたいように、呼びなさいな」
「あなたが、淹れたの? このお茶――その……ジュリ……」
「ふふん……そうよ――澪」
澪が遠慮がちにジュリの名を呼ぶと、ジュリがとても満足げに澪の名を呼び返した。
「褒めないわよ」
澪はプッと頬を膨らまし、ゆっくりと湯のみにその小さな唇を近づける。
「お茶に罪はないでしょうに。それとも茶摘みと言うぐらいだから茶葉を摘むのは罪かしら?」
「つまんないわよ、ジュリのシャレはいつも。ま、火加減がいいのは認めるけど」
「あら、そう? ついでに言うと、火加減が絶妙なのは、私が炎の呪術を使ったからよ」
「ブッ! 何ですって!」
「茶葉を揉む時も、茶を沸かす時も、私の呪術の炎でやりましたわ。ねぇ、ロレンス様」
「ああ、火を自在に操れるのは、便利だな。茶摘みの時期は、いつもジュリにきてもらっている。お陰でいい茶葉に仕上がるな」
「ななな、ロレンス僧正まで、何を! 呪術は御法度ですよ……そんなものに頼って……」
「物にも、技にも、貴賎はない。ただ使う者の、心がけ次第」
「ですが……」
「ちなみに、あの親子を温めている、あの焚き火――あれも私の炎ですわ」
ジュリが微笑みながら、焚き火に当たる親子達を見る。
「なっ? ジュリ! あなたね、勝手に犯罪に巻き込んで――」
「十五年前までは、普通に使えた力。何が犯罪なのかしら」
「む……呪術は犯罪よ」
澪はグッと奥歯に力を入れ、力強く反論する。
「あなた方も使ってらっしゃるわ」
「警察力は、法に則って使われています。きちんと管理されています」
「そうよ。警察が使うということは、きちんと使えば皆の力になるということよ」
「でも……きちんと使えてなかったんでしょ?」
「きちんと使えてなかった時代と、全く使えない現在を、今一度冷静に比べてみることね」
「……」
澪が黙って湯のみに口をつけた。
「禁呪法以来、この国の凋落は始まったと言われているわ。特にこの享都は衰退の一歩を辿っている……政府は因果関係はないなんて言ってるけど、どうかしら?」
「だって……呪術は人心を惑わして、人々の精神の健康を害するって……」
澪はお茶を一口すすって喉の乾きを癒すと、もう一度己に言い聞かすように口を開く。
「お手本通りの回答ね。教科書にでも、そう書いてあったのかしら? 教科書なんて、私は枕以外に使ったことないわ。ほっぺには写っているかもしれないけど、頭には入ってないわ」
「でも、間違ってはないでしょ?」
「人々の願いや祈りまで禁止して、何が間違ってないって言うの?」
「心の中の願いや祈りまでは、禁止してないわよ」
ジュリと澪は互いにムッと睨み合った。
「でもあなた方は、とことん取り締まるわ。まるで辞書のページを裂くかのようにね。見たくないたった一つの言葉の為に、よく似た言葉ごとページを破り捨てるのよ」
「それは……線引きが、難しい時も、あるでしょう、けど……」
「……」
澪が言いにくそうに反論すると、ジュリが黙ってお茶をすすった。