第二幕、ジュリエット・バルコニー2
「あはは!」
夜の公園に飛び出したジュリは、澪の攻撃に備えて身を翻す。
案の定澪の呪術が、ジュリ目がけて飛んできた。氷柱だ。
「はい!」
ジュリは嬉々として左手をふるい、己の炎でその氷柱を蒸発させる。
「これで終わり。もう届かないでしょ。後は帰るだけね。楽しかったわ、ふふん……」
ジュリが挨拶代わりにか、上機嫌で微笑みながら振り返る。
「待ちなさい! ヤッ!」
だが澪のその裂帛の気合いとともに、更なる氷柱が襲いかかってきた。
澪は滑るように公園の歩道を走っていた。まるでリンクの上のスケーターだ。
実際澪の革靴の底は、金属でもついているかのように微かに光っていた。二筋の光を後ろに残しながら、ジュリに負けないスピードで追いかけてくる。
「――ッ! 氷をブレードに? やるわね!」
ジュリは氷柱を再度蒸発させると、澪の足下を見て舌を巻く。
そう、澪は己の革靴の底に氷の呪術を放ち、即席の氷のスケート靴を作り出していた。そして自らの進路も凍らせている。勿論いくらブレード側すら氷とはいえ、間に合わせの氷の上を滑って移動するのは容易ではないはずだ。
「強力な氷の呪術者ね……可愛い顔して、やるわね……」
そして氷柱は止まることを知らない。計算し尽くされたそれは、ジュリが防いだ後、かわした先、逃げた向こうを見越して放たれてくる。
「熱烈な冷気! 情熱的な氷柱! お熱い氷結! 熱狂的な冷静さね! ならば私は――」
強力で正確な澪の氷の呪術に、ジュリはむしろ嬉々として叫ぶ。
「冷徹な熱狂! 冷ややかな熱気! 冷淡な火炎! 冷酷な熱意! それで対抗しましょう!」
ジュリは空中で留まることを知らずに身を捻らすや、我が身をかすめる氷柱を紙一重でかわした。己の言葉通り冷静かつ大胆に澪の攻撃をかわしながら、顔には笑顔すら浮かべている。
「く……」
だが氷柱の一つが、そんなジュリの頬をかすめた。
「やるわね……でも……」
ジュリはそう呟くと、不意に身を傾ける。コースを急激に変え、立木の上空へと飛んでいく。
「あっ!」
思わずそちらを追った澪は、立木の中の地面を見て声を上げてしまう。柔らかで凹凸の激しい土の上では、氷のブレードはさすがに役に立たない。
「この! こんな林! 何よ!」
だが澪は迷わずその小さな林とでも言うべき、立木の中に突っ込んでいく。
氷のブレードが一瞬で溶解し、今度は陸上競技のスパイク状に変化した。
澪は枝葉とクモの巣をかき分け、革靴で根っこと地面を踏みつけて走る。それでいながら空を飛ぶジュリを見失うまいと、上空を見上げて足下はおろか前すらろくに見ない。
「何処までもやるわね! でも、余所見は仇になりましてよ!」
「何を? ――ッ!」
ジュリの言葉通り地面から突き出ていた根っこの一つに、澪は足を取られて蹴つまずいた。片手を着いて何とか転倒を逃れる。しかし慌てて見上げた空には、もうジュリの姿はなかった。
「しまった……」
澪はすかさずスーツの胸元に手をやった。取り出したのは無線機だ。澪が現状を報告しようと、無線機を頬に当てる。だがその無線機が一瞬で炎に包まれた。
「――ッ! この……」
炎を上げる無線機を取り落とし、呪力を感じた先に澪は振り返る。
「せっかくの逢瀬……野暮な話はなしですわ」
立木の闇を舞台袖に見立てたかのように、ジュリがゆるりと木立の上から現れた。
ジュリは立木の上から澪を見下ろす。
その堂々とした様は、まるで舞台女優でもあるかのようだ。
女優衛藤ジュリの舞台は、随分と高いところにあった。鬱蒼と茂る木々の枝葉を、まるで蔦の這うバルコニーに見立てたかのようにしてその上に立つ。
澪の氷柱にやられた頬の傷すら、主演女優の妖艶さを表すメイクのように見えた。そしてそのことが分かっているのか、ジュリはその赤い血を拭おうともしない。
「キャピキャピレッド団頭目――衛藤ジュリ! 緋撃のジュリエット!」
バルコニー程の高さにいるジュリに、澪が有りっ丈の声量で呼びかける。
「まあ、大きなお声。同僚の方にでも、聞こえるようにと思いましたかしら?」
「な? 何か悪い?」
「誰も直ぐにはきませんわ。皆あなた程、機敏ではなさそうでしたもの」
「この……私一人で十分よ。覚悟しなさい。衛藤ジュリ」
「そうよ。私は衛藤ジュリ。緋撃のジュリエット。炎の呪術使い。動かないで下さいましね。私の炎の呪術は、春の日の気まぐれな夕立よりも激しく、あなたの身を貫くでしょうからね」
ジュリが高めた呪力を見せつけるかのように、炎に包まれた左手を澪に向ける。
「……何? ひと思いにやれたでしょうに。情けをかけようっての?」
「ふふん……私興味を持ちましたのよ、あなたに。あなたはとても優秀な刑事さん」
「それはどうも……」
「生まれたばかりのキリンのような、よちよちとしたダンス以外はね」
「放っときなさいよ! 私に何の用よ!」
「名前ぐらいは、お教え願えないものかと思いましてね。ロミオ様は愛称でしょ?」
「私? 私は一路澪よ。大紋宮の一路澪よ」
「まぁ、男は誰しも一ロミオ。それは恋の巡礼者を気取る運命の道化の名前ですわ。思い込み激しく、周りが見えず、聞く耳も持たない、哀れで愚かな若者の名前。そんな馬鹿な男などになぞらえなさらずに、どうかあなた様のお名前を、全て包み隠さずお教え下さいな」
「一路澪よ! それが私の名前よ! てか、私は――」
「ああ、一ロミオ。一ロミオ。やっぱりフールのネーム。ちなみにフルネームとかけ――」
「からかってるでしょ? 名字が一路で、名前が澪よ! 一路邁進の一路と、澪つくしの澪よ!」
「一路澪? やっぱり巡礼者だわ。まるで船を漕ぐ巡礼者よ。一路駆けつけたあげく、誰に身を尽くしなさるおつもりかしら? 流石は一ロミオ様。やっぱり恋の巡礼者を気取るのね」
「もういっそのこと、黙って聞いていてあげようか? 何か話しかけるのも疲れるんだけど?」
「まぁ。夜の闇に紛れて乙女の独り言を聞こうとは。罪を犯して名前を変えるおつもり――」
「うるさい。誰が恋の巡礼者よ。私が誠心誠意尽くすのは法と市民よ。私は大紋宮の一路澪よ」
「おお嫌だ。大紋宮の名前など、捨ててしまえばいいのに」
「余計なお世話よ。つき合い切れないわ」
澪は少しずつ己の呪力を内に溜め込め始める。ジュリは己の言葉に酔っているのか、今にも隙を現しそうだった。澪は外からは分からないように己の力を高め始める。
「大紋宮の名など、あなたの手でもなければ、足でもありますまいに。もがれて苦しい訳でもございませんでしょう。お捨てなさいな」
「大紋宮は私の誇りよ」
「ああ、一路澪! 一路澪! どうしようもなく、あなたは一路澪なのね!」
「よく分からないけど、私バカにされてるんだよね?」
「私がしなくとも、大紋宮になるようなお人は、自らなるのではなくって?」
「何を!」
「そこ! 誰かいるのか?」
澪が一際大きく声を上げるとその声が聞こえたのか、詰問口調の声が林の向こうから轟いた。
「ここです! 一路澪です! 立木の中です!」
「まあ、野暮なお方。ありとあらゆる電磁波にすら気づかれない、暗黒物質――ダークマターのように、夜のとばりという闇の外套を纏っていればいいものを」
「うるさい! もう逃げられないわよ!」
「ふふん。あなたとはもう少しお話がしたいわ。明日の朝、叛能寺のロレンス僧正のところへきて下さらない? 勿論お一人で」
「何? 決闘の立会人にでも、なってもらうつもり?」
「あはは、ご冗談を……では、お話はその時に……」
ジュリはそう澪に告げると背を向け、赤いベストから再度炎の翼を生やした。
「待ちなさい!」
澪が溜めていた呪力を解放し、背を向けたジュリに氷柱を放った。
「ごきげんよう!」
ジュリは枝を蹴ってその氷柱を避けると、程を倍する速さで木々の向こうに飛んでいく。
「く……」
瞬く間に小さくなるジュリの背中を、澪はただ見送ることしかできなかった。