第一幕、ロミオ・ダンス11
ジュリと澪は本部長の背中を見送った。
「まるで無防備ね……今からでも私が呪術を放てば、命すら狙えそうよ……」
ジュリは己に冷や汗をかかせた人物を、殺気の籠った目で見つめる。他人からは分からないように、小声で呟き視線で相手を挑発する。
だがモンタギュー本部長はやはり素知らぬ顔で、背を向けたまま人ごみの中に消えていった。
「ダンスは、その……苦手で……」
享都府警のトップ――本部長の許可が出た澪が、困ったように右手を差し出す。
「では、ステップだけお踏み下さい」
ジュリは笑顔を取り戻すと澪の手を取り、軽やかにホールの中心へと流れていく。
「あなたと舞えば、この身にまとわりついた、不快なクモの糸のような感覚も、軽く振り払ってくれるでしょうしね。このまま帰るには、あまりに不愉快ですから」
「はい?」
「気にしないで、足下に集中なさって」
「こ、こうですか?」
澪はぎこちなく、足を前後左右に動かす。
あらためて並んでみると、二人の背の高さはよく似ていた。
「胸は堂々と張って」
「は、はい!」
澪が水で打たれたかのように背筋を伸ばすと、僅かばかりジュリより背が高くなった。ジュリが逆に柔らかく背を丸めて、その胸に入り込むようにして右手をそっと置いたからだ。
「あ、あの……」
「しぃ……このままで。こうしておけば、たとえあなたがどんなにダンスが苦手でも、私のこの掌の血潮と脈は、野に遊ぶ子鹿のようにあなたの胸の上で踊りますわ」
「は、はぁ……」
二人は中央にスッと流れていく。澪はやはりぎこちない。だがつまずく先をジュリが時に支え、時に受け流して、ステップの一部に組み込んでしまう。ジュリに導かれ、澪はぎこちなくも軽やかに、その人々の中心に舞っていく。
「おお……」
楽団の奏でる軽やかな音楽に、来賓からの溜め息がかぶせられる。ジュリと澪のダンスに、誰もが思わず感嘆の声を漏らしていた。
二人は上等とは言い難い単純なステップで、右に左に流れる。だがそれだけで、かき集めてでもきたかのように人々の視線を独占する。
ジュリと澪が近づけば、誰もが場所を譲り、その周囲を取り巻いた。
「お分かりになりまして? 今の私達は計算尽くで突かれたビリヤードの手玉のようですわ」
ジュリの言葉通り、二人は滑るように近づくや弾いたように人々から中心を奪い取る。そして壁に当たって跳ね返ってきた的玉よろしく、人々はまた二人の周りに自然と集まってしまう。
「もっと胸をお張りになって。そうよ、あなたはさしずめ帆を風に翻す帆船。そのように堂と振る舞うべきですわ。その背中を帆に。皆の溜め息を風に。賞賛の呟きを飛沫に。音楽という海に、凛々しく乗り出しなさい。堂々とした立ち振る舞いこそ、あなたにはよく似合うわ」
「えっ? いや、その……」
澪が困惑の声を上げると、楽団が奏でる音楽が耳元で囁くような、耳朶をくすぐるような、情事をそそのかすような――密やかなものに変わった。
「ふふん……」
ジュリはまるで己が音楽の変更を指示したかのように、すっと淀みなくそのリズムに合わせて、澪の胸元に入っていく。それでいて右足だけは、蹴上げるように跳ね上げた。ジュリのその足は、フリルの下の白いふくらはぎを露にし、澪の足の間に差し込まれた。
「――ッ!」
澪はその動きに一瞬目を奪われる。
「ふふん。フリルは心の境界線。越えますか? 越えませんか? 勿論パスポートは、拝見させていただきますけどね」
顔をうつむかせたジュリは、澪の胸元に向けくすぐるように声を出す。
「えっ、そんな、そんなつもりでは……」
「あら? 野暮なお顔――」
ジュリが甘えるように、顔を斜めに上げた。
「よくパスポートのお写真が、通りましたわね。でも、ビザがなかなか降りなくて――ぐらいは、おっしゃって下さいませんこと? それ程野暮ではございませんでしょうに?」
「え、あ、いや……その私は――」
「ふふん。でも労働ビザや観光ビザは、ご遠慮下さいね。打算や遊びは嫌ですわ。結婚ビザか永住ビザをご所望下さいね」
「えっ? そんな、労働ビザで充分ですよ。職務ですから」
「あら、職務で踊って下さってるの? でもその足捌きでは、ダンサーの労働ビザは到底降りないでしょうね」
「あまりいじめない下さい。足を動かすだけで、精一杯ですよ」
「そのようですわね」
ジュリはクスッと笑って澪の足下を見た。澪は音楽がスローになっても、やはりジュリに導かれるままに足を動かしていた。
「まあ、また『クスッ』ですって。やっぱり自然と出てしまいますわ。まるで愛情の隠し味の、手慣れた胡椒の一振りかのようよ。なぜこんなに自然に出てしまうのかしら?」
「はい? 何の話ですか?」
「お気になさらずに。今は地に足をつけて、軽やかに足を――あら、矛盾してますわ」
「はは。次に右を出すべきか、左を出すべきか、すぐに分からなくなります」
「人生は選択の連続ですわ」
「To be, or not to be:――生きるべきか死ぬべきか――ですね」
澪は最近見た手配書の一文を口にした。澪自身が今声に出した、本来の意味とは違う意味で使われていた文言だ。
「As You Like It!――お気に召すままに! お役所の方の仕事にしては、私気に入ってますのよ。まあ、手配書の写真は別ですけれどね」
「はい?」
「……口が滑りましたわ……慣れ合い過ぎましたからかしら? 頃合いかしら……」
無邪気に微笑んだ澪から視線を思わずそらし、ジュリは目を伏せて呟く。
「はい? またまた何の話ですか?」
「これでお分かりになります、刑事さん?」
ジュリそう言って微笑むと、澪から見て丁度手配書と同じ角度に首を傾ける。
「――ッ! あなた! 衛藤ジュリ!」
「おや、頭からすっぽりと、警察手帳でも被ってらっしゃるのかと思っていましたら――」
澪が目を剥いてとっさに手をジュリに伸ばした。だがまるで元より決められたダンスのリズムとステップでもあるかのように、ジュリは軽やかに身を翻して澪のその手から逃れてしまう。
「ちゃんと見えておいででしたのね」
「ロミオ! どうした!」
ジュリの名を聞きつけたのか、壁際で警備にあたっていた警官達が一斉に振り向いた。
「ロミオ様と、おっしゃいますの? うっかりお名前も聞き損ねるところでしたわ」
ジュリの全身が赤い炎に包まれた。
ボッ――という音を立ててジュリが燃え上がる。
「あら。ボッだなんて恥ずかしい。まるで意中の相手の名を初めて知った少年少女の頬のようよ」
「キャーッ!」
来賓から悲鳴が上がる。炎が収まると、ジュリの身は赤と白の装いに戻っていた。
「この!」
澪が飛びかかる。だがもうその場にジュリはいない。
ジュリは軽く膝を折り曲げると、床を蹴って宙に飛び上がる。次の瞬間には、天井から垂れ下がったシャンデリアの上に移っていた。
シャンデリアを吊るす銅線を掴み、ジュリは眼下の一同を見下ろす。
「桜、桜、桜。桜の大紋の皆様がこんなにも。だけどあなた方には、桜は似合いませんわ」
ジュリはダンスホールを埋める背広の警官達をねめつける。油断なく本部長に神経を向けながら、それでいて皆に向かって言ってやった。
「降りてこい! 衛藤ジュリ!」
「桜咲く季節に巡り会えた旅人は幸せね。でも桜散るその日に居合わせた旅人はもっと幸せ。私は桜を見たことがないけれど……まあいいわ。散りなさい。私の幸せの為に」
「何を!」
「降りてこい!」
「ふふん、爪を噛んで悔しがりなさいな。そしてそれが今の世では、挑発を表す仕草ではないことに感謝しながらね」
ジュリは口々にわめく警官達を挑発するかのように笑う。
その中でも一際悔しげな顔をしていたのは、
「……衛藤ジュリ……」
勿論ダンスの相手すらさせられていた――一路澪だった。
(『ロミオvs.ジュリエット To be, or not to be:As You Like It!』第一幕、ロミオ・ダンス 終わり)