衝動 3
生温かい風が、ファウナの髪を撫でる。ポツリ、ポツリ、と雨まで降り出してきた。
「急がなきゃ!ユーフェン、外で待ってるんだから……!」
ファウナは息を整えようと深呼吸して、前を向いた。
――とその時、風にのって何かが頬にあたった。
「……?」
確認してみるとそれは黒々とした灰であり、前方から次々に運ばれてくる。
(何これ……、誰か火でも起してるの?)
灰のせいで、目がしっかりと開けることができない。それでも目を凝らして家へと足を進める。
(ちょっと待ってよ……)
家に近づくにつれて、段々と濃くなってくる煙の臭い。そして灰。パチパチと何かが燃える音。
ファウナは目を疑った。夢を見ているような錯覚にさえ陥った。そう、地獄のような夢。
「お母さんっ!!」
ファウナは燃えていく自分の家に駆け寄った。炎の熱さに眩暈を起こしそうになりながら。
「お母さん!お母さん、いるんでしょ!?お母さん!!」
家の扉はもう既に炎の中。ドアノブに手を触れることすらできない。
ならば、と彼女はリビングの方に回った。小さい窓ではあったが、ギリギリ人が出入りできるぐらいの大きさだ。その窓は不幸中の幸いとでも言うのだろうか、炎の熱さでガラスは割れてしまっている。
「お母さん……っ!」
外から中を窺うファウナ。
母親は無事であろうか。願いはただ1つだけ。
「……っ!!」
荒れに荒れた部屋の中、横倒しになったタンスがガタリと音をたてた。その下で、弱弱しくも手を伸ばす母親の姿。
生きていた。まだ、間に合うかもしれない。
「お母さんっ!」
頭から血を流し、手足に所々傷がついている。母親は自分を呼ぶ娘の声に反応し、その方をゆっくり向いた。
「あぁ……ファ、ウナ……。よかった、お前は無事だ、ったんだねぇ……」
燃え盛る炎の中で、僅かに聞こえた母親の声。
一体誰がこんなことを、とは思ったが、とりあえず生きていて良かったと安堵したファウナは、こうもしていられまいと、窓の桟に足をかけた。
「来るんじゃ、ないよ!!」
母親の、出せる限りの精一杯の声が部屋中に響く。
「え……?」
ファウナは目を見開いた。母親が怒ったような表情でこちらを見ている。
「お母さ……?」
「早く……、早く逃げるんだよ!ぐずぐずするんじゃない!」
ぐっとファウナの手に力が込められる。迫りくる炎に歯向かうように、彼女は窓に上った。
火の手はもう、母親のすぐ傍まできている。
「ファウナ!言うことを聞きな!!」
「嫌っ!私はお母さんを助けるの!!私は……お母さんと一緒に生きたいの!」
「ファウナ……っ」
つ……、と一筋の涙が流れた。血が出てしまいそうになるほど、噛みしめる唇。悔しい、悔しい、悔しい。溢れていく感情。
「だって……お母さん、何もしてないのに。何も悪いことしてないのに!」
「ファウナ……」
「待ってて、お母さん。今、そっちに行くから……っ」
「いけないっ、ファウナ……っ!!」
ファウナの足が中へと踏みいられる瞬間、後ろから突如手を引っ張られた。急なことにバランスを崩し、彼女は地面へ倒れこむ。
「な、何を……っ」
ファウナが上を向くと、立っていたのはユーフェンだった。「すぐに戻る」と言われて待っていたがなかなか戻らない彼女に疑問を覚え、彼もまた彼女を追いかけてきたのだ。
「何を、するの……っ。余計なことしないで!早くしないとお母さんが……、……っ!?」
「……」
また、この感覚だ。ユーフェンの瞳に吸い寄せられるような。炎の燃える音も、熱さも、周りには何もないような感覚。彼が何を言っているわけでもない、ただ見つめられているだけなのに。
「ファウナ、もう間に合わないんだ」
「……」
体が、動かない。本当は心の底ではわかっていたのだ。母親はもう、どうしようもないことに。
母親を取り囲むように燃える炎、ただでさえ一人じゃ持ちあげることのできないタンスの下に母親が傷ついて倒れているのだ。運よくタンスをどけたところで、母親をかついで出る出口なんてない。
「……っ」
だからと言ってこの気持ち、割り切れるものではない。何かをしなければ、何か良い方法を見つけなければ。そう思うのに、体の中に重りが入ってしまったよう。
ユーフェンはファウナから目線を逸らし、家の中へと向けた。母親は虚ろな目で、しかしどこか安堵した表情で彼を見つめる。
炎の中で見たユーフェンの姿は、まさに地獄の中にいる天使だった。目を奪われるような、綺麗な金の髪。海のように深い青の瞳。その中に映っているのは、母親一人。
「……あぁ……、本当に、本当に……綺麗だねぇ……」
母親の黒の瞳から、涙がこぼれた。それは紛れもなく、感動の涙。
『ありがとう』
「……っ!」
彼女の唇がそう動いた瞬間、ガラガラと家が無残に崩れ落ちた。
「……お母さんっ!!」
「ファウナ!だめだ、行っちゃいけない!!」
ユーフェンは、崩れ落ちた家にまだ向かおうとする彼女の体を強く支えた。
ガタガタと小刻みに震える少女の体は何とも脆いものだと痛感する。
「ファウナ、真実を受け入れて。君は、生きなきゃだめだ」
母親の願いも、そうであるに違いないから。
「ファウナ……?」
嗚咽が止んだ。ユーフェンは自分の手の力を弱め、彼女を覗き込む。
もう一度名前を呼ぼうとしたとき、彼女の頭がグラリと揺れた。
「……っ!?ファウナ!?」
予想外な出来事の連続で、体がついていかなかったのだろう。彼女は気を失ってしまっていた。