疑問 2
城に来てまだ日が浅いファウナでも、ユーフェンにとって研究室がいかに大切なのかわかった。『研究室』と聞くと、彼は決まって表情が変わる。
彼はソルトに「わかった」と短く返事をすると、無線機を自分のポケットへとしまった。
「ファウナ、僕ちょっと行ってくるよ。君は此処でゆっくりしてていいから」
彼女の返事を待つことなく、彼は足早に部屋を後にした。
たった一人部屋に残されたファウナは空になった二つのグラスを見つめ、息を吐く。
小さな疑問が彼女の中に、山となっていくようだった。研究室のこと、ブローチのこと、そして彼女の母親のこと。どれもとても小さな疑問。
一体研究室には何があるのだろうか。付き人であるソルトには打ち明けているようなのに、ファウナには全く語らない。触れてはいけないことのよう。
あのブローチは一体何を意味するのだろう。焼け落ちた家の中から、わざわざ一国の王子が探しにくるなんて。同じようなブローチなら、街に行けばいくらでも売っているというのに。
そして、彼女自身のこと。とても大切だった母親が眠るあの場所に、今でも行けないでいる自分。忘れたくない、忘れたいはずなんてないのに、思い出そうとすると胸が軋む。
考えても決して出ない問いを、ファウナは考え続けるのだった。
一方ユーフェンは、研究室に向かう足を速めていた。時々時間を確認し、そのたびに眉を顰める。
「おーい、ユーフェン!」
研究室の前まで来ると、待ちかねたようにソルトは大きく手を振った。ユーフェンはそれを確認すると、彼へと駆け寄る。
「悪かったな、ユーフェン。急に呼びだしちゃってさ」
「いいよ、大丈夫。それより危険な状態って?」
ユーフェンは閉じられた研究室を見やり、そして次にソルトを見た。
目が合うと、彼は力なく笑った。
「いや、それがさ……研究室の鍵、どっかに落としちまったみたいでさ」
「な……っ!?」
「うん、危険な状態ってこのことなんだ。悪い」
主に研究室の鍵はソルトが管理している。執務で忙しいユーフェンに代わり、彼がいつでも対応できるように。
ユーフェンの顔は血の気が引くように一気に青ざめた。
「ライトは!?スペアの鍵、ライト持ってるだろ?」
ユーフェンはソルトの肩を強く掴み、ゆさゆさと揺すぶる。
ソルトは「痛いって……」と呟きながらも、顔を顰めて言った。
「ライトに連絡したんだけど出ないんだ。だからユーフェンにマスターキーを頼もうと……」
「取ってくる!ソルトは一刻も早く鍵を見つけ出して!」
ユーフェンはソルトに背を向けて走り出そうとするが、何かを思い出したように立ち止り、振りかえる。
「鍵のこと、ファウナには内緒にしておいて」
「え?」
「もし言ったら、いくらソルトでも僕怒るから」
有無を言わせないように強い口調で言うユーフェンに対し、ソルトは首を傾げた。
「何でだよ。一人より二人で探した方が早く見つか……」
「駄目だって言ってるだろ!?」
ユーフェンは思わず声を上げた。ソルトも、そして彼自身もびっくりしたように口を押さえ、軽く頭を下げた。
「ごめん……」
視線を落とし、自分の髪をクシャリと混ぜる。ソルトは唖然としながらも、らしくないユーフェンに一歩近づく。
「……何だよユーフェン。何で駄目なんだ?ファウナに研究室が知れたらマズイのか?」
「……っ!」
ユーフェンは息を飲んだ。ソルトのまっすぐな瞳が、まるで自分の心を見抜いているよう。
彼は顔を顰めたまま、依然として口を開こうとしない。ソルトの視線も合わそうとしない。いや、できない。
ソルトはため息を吐くと、彼から視線を外した。
「前から思ってたけど、いつも肝心なこと話そうとしないよな」
ビクリとユーフェンの肩が震える。
「それでいて他人のことになると首を突っ込む。例えば……俺にとか」
ソルトはユーフェンを見ないまま、廊下へと足を進めた。彼を背にし、一歩一歩その場から遠ざかる。
だがその足をピタリと止め、ソルトは振り返らずに呟いた。しかし彼には聞こえるように。
「俺、たまに思うんだ。あの時ユーフェンに会わなかったらどうなっただろうって」
(ソルト……)
胸が痛む。
ユーフェンにとってもソルトにとっても、思い出したくない過去。
(ユーフェン、ごめん)
決して声にすることない謝罪を心にとどめ、ソルトはその場を後にした。研究室の前に一人佇むユーフェンを残して。
『何でファウナに知れたら駄目なんだ?』
ソルトの言葉が何度も何度も、頭の中を支配する。
ユーフェンは力なく研究室の扉にもたれると、ズルズルとその場に座り込んだ。そして両手で自分の顔を覆う。
「ほんとに……何がしたいんだろう、僕は……」
小さく呟いた彼の声は、誰にも聞かれることなく消えていった。