狂乱 1
時折、自分の足が自分のものではないように感じた。ユイランを見失わないように必死で走り、いつもは廊下に飾られている骨董品の数々も、目に入らない。
(ユイラン、早い……っ)
少しでも足を止めれば見失ってしまう。
走って、走って、走って――。
何メートルも先のユイランが、角を左に曲がった。ここを右に曲がればライトの部屋がある。
(そういえばこの辺り……)
ファウナは走りながら、つい何時間か前を振り返った。
いくら咳をしても楽にならないような咳き込み方。それは風邪と言うには酷いもので。
(あれはもしかして王妃様だったのかな……?)
それならば納得いく。ユイランが呟いたことも。血相を変えて走り出したことも。
ようやく角を左に曲がると、そこにユイランの姿はなかった。どうやら見失ってしまったらしい。
キョロキョロと辺りを見回しながら、ファウナは足を進めた。
(嘘……、ユイランどこ?)
この辺りはファウナの部屋の方とは違い、廊下でも少し薄暗い。やんわりと灯る光は、夕方をイメージさせる。まるでこの廊下の先からコウモリでも飛んできそうだ、とそう思ったときだった。
「母上……っ!」
ユイランの声が聞こえた。声だけで必死さが伝わる。王妃の元に辿りついたのだろう。
ファウナはすぐ声のした方へと走った。ここからだとそう遠くはないはずだ。
「……ユイラン!」
「母上、母上……っ!」
まるで、異空間に来ているようだった。
ファウナ達の部屋とは段違いの広さ。その割には物が少なく、何やら治療用の薬が部屋のほとんどを占めている。薬の独特の匂いが、ファウナの鼻をつん、と刺激した。
「王妃、様?」
ファウナは王妃に目を移した。三人の子供を産んだとは思えないほどに若々しく、美しい顔立ち。薄い茶の髪で、長くウェーブがかかっている、妖艶と呼べるような人であった。
顔だけ見ればユーフェンにそっくりだ。
ユイランはぐったりとした王妃を抱きかかえる。「母上、母上」と何度も呼び続けながら。
(どうしよう、誰か人を呼んできた方がいいのかな……)
ファウナは頭の中で、二人をこのまま残して行くのかどうか葛藤していた。
『僕もすぐ後から行くから』
その言葉を思い出し、彼女はとりあえず落ち着くことにした。下手に動いてユーフェンとすれ違うこともまずい。
ファウナは目の前にいるユイランの傍に近づこうと、一歩踏み出したときだった。
「……母上っ!」
王妃が目を覚ました。ゆっくりと瞼を上げ、視点の定まらない目で辺りを見回す。
(よかった、意識戻ったみたい)
そう思ったのもつかの間だった。
「きゃああぁぁぁぁぁっ!!!」
「!?」
王妃は奇声を上げると、ユイランの腕を振り払う。まだ完全に力が入らない王妃の体は、床に転がりこんだ。
「母う……」
「どうして……どうして貴方がここにいるの!!」
王妃の体がわなわなと震える。言うことのきかない体を腕二本使って、ユイランから離れようと床を這いつくばる。できるだけ彼を見ないように、一刻も早く離れるように。
「誰か、誰か助けて……っ!殺される、殺される……っ!!」
ファウナもユイランも動けず、まるで二人の時間が止まっているようだった。
頼りなく逃げようとする王妃に手を貸そうとも思えず、まるで足が床にひっついてしまったように感じた。
「産むんじゃなかった……、こんな化け物、産みたくなかった……」
「王妃様!!」
ばたばたと駆けつけて来たのは、王妃の付き人と思われる二人の女。
「早く医師をお呼びして!」
そのうちの一人がもう一人の女に言うと、「はい」と短く返事をして部屋を出て行った。
残った女は王妃の体を支える。しっかりと、抱きしめるように。
「……っ!」
女はユイランに気付くと、冷たい眼差しで睨んだ。
「ユイラン様、何故ここにいるのですか!早く部屋に戻りなさいな!」
「……」
黙りこみ、ただ王妃を見つめるユイラン。その間、王妃は狂ったように「化け物、化け物……」と唸っている。
王妃を見つめて動かないユイランに、女は容赦なくとどめの一言を浴びせた。
「ユイラン様、一体誰が王妃様をこのようにさせてしまったとお思いですか」
「……っ!!」
ユイランは踵を返すと部屋を出て行った。その時ファウナとすれ違ったが、彼は目を向けることはなく。さらりと舞った黒髪が、まるで闇に引き込まれるように見えた。