事件 2
「い、た……っ」
彼女は自身の腕に注意を向けた。ガラスの破片のせいで触れようにも触れられず、止血せねばと思うのに血が滴り落ちるのを見ていた。
生温かい血が、肘を伝い手首で落ちる。真っ赤なそれは、彼女の頭を真っ白にさせた。自分の脳裏に焼き付いた、母親の記憶を呼び起こしてくるように。思い出したいけれど思い出したくない、母親の最期の――。
そんな彼女とは関係なしに、ユイランはまた彼女の胸ぐらを掴みあげた。
「お前……さっきの言葉もう一回言ってみろよ。誰が想われてるって?誰が!誰に!」
「……っ」
ファウナは恐ろしさで目を瞑った。今度は殴られるかもしれないと。身体が小刻みに震えだす。
(……あ、れ……?)
しかしいくら身構えていても、彼から声は聞こえない。
不思議に思ったファウナはゆっくりと目を開けた。
「……笑わせんなよ」
ユイランは吐き捨てるようにそう言うと、乱暴ではあったが彼女の胸ぐらを解放した。
ファウナは怪我をしていない方の手で、慌てて衣服を整える。
一方、彼はギュッと拳をつくった。
「あいつが俺を想ってるって言うなら、どうして……どうしてあの時……っ!」
「え……?」
ユイランははっとして口を押さえた。
(何を言い出してんだ、俺は……)
思わず口をついて出そうになった言葉。もう過ぎてしまった過去に囚われているような言い方をしてしまった自分に、嫌気がする。今更言っても仕方のないことなのに。
ファウナはすぐさま彼の腕を掴むと、体を揺すった。
「何?ユーフェンと何があったの?」
「……っ、……何でもねぇよ!」
ユイランがファウナを振り払った瞬間、彼女は彼の首筋に何かを見つけた。普段は長い髪に隠されていた部分が、ふと露わになった瞬間だった。赤黒い、三角の痣のようなもの。
「……ユイラン、首どうしたの?」
彼女は手を差し伸べる。彼の、首筋に。
「怪我、してるの?」
「……何でもねぇって言ってんだろ!!」
彼はファウナの片方の肩をぐっと掴むと壁に押し付けた。肩と腕の痛みで、顔を苦痛に歪める。まるで痛みが全身に広がっていくようだ。
「うぜぇんだよ、てめぇは」
今度はもう片方の手でファウナの髪を掴んだ。
「干渉すんじゃねぇよ。俺にも、あいつにも」
気付けばユイランの顔はファウナの近くにあり、綺麗で長い黒髪がパサリと彼女の顔に当たった。
ユイランの瞳は強く、けれどどこか寂しそうにも思えた。
「……何をしているの?」
僅かに開いた扉の隙間から、金糸の髪がフワリと見えた。
(ユーフェン?)
開かれた扉から現れたのはユーフェンではなく、一人の少年。パーマがかかった金糸の髪に、丸くて青い大きい瞳。
(可愛い……)
女の子のように顔立ちが良く背も低いので、まるで天使のようだ。この少年ほど白い翼が似合う者はいないだろうと思えるほど。
「兄上、女の子に何をしているの」
(……兄上!?)
少年は強めにそう言うと部屋に入ってき、ユイランの服を引っ張った。
「兄上、ファウナの怪我の手当てしたいから手を離して」
「……」
ユイランはチッと舌打ちをすると、彼女から手を離した。まだジンジンと痛みの余韻が残る。
ユイランはこの少年には抵抗しないのだろうか、そう思う間もなく、ファウナは少年に声をかけられた。
「ファウナ、来て」
「……えっ、でもまだ仕事が……」
「いいの」
少年はファウナの服をぐいぐいと引っ張り、部屋の外へと連れ出した。
ユイランが気がかりでずっと後方を気にするファウナをずっと引っ張り続け、お互いに何も会話をせぬままある部屋の前で止まった。
「ここ、ボクのお部屋。入って」
「え……っ!」
「早く」
少年に背中を押され、半ば強制的に部屋に入れられるファウナ。
(私まだ仕事あるのになぁ……)
パタリと扉が閉まる音が聞こえそちらを振り向くと、その少年は心配そうにファウナを見ていた。
「ファウナ、大丈夫?まず腕の手当てしようね。すぐソルト呼ぶから」
「あ……」
ファウナが何も言えないまま、少年は手際よく物事を進めていく。無線機のようなものを取り出し、ぶつぶつと会話をし始めた。この広い城の中で、人との連絡を取る手段なのだろう。
ファウナは少年の後ろ姿を見つめたまま、ある人物の姿を重ねていた。そっくりだった。まるでその人物の子供時代を見ているようで。
(ユーフェンのご兄弟、きっと三番目の……)
アレクサンドリア家、二人目も白の妖精がいるなんて――。