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空を仰いだ君との日々は、私がコートに連れてゆく。

作者: 千田伊織
掲載日:2026/03/27

「先輩」


 私は、タオルで汗を拭っているキャプテンへ、ドリンクを片手に駆け寄り声をかけた。キャプテンは疲れの滲んだ表情に笑みを浮かべて、受け取ってくれる。


「ありがとう。小野田が持って来てくれたの」

「はい。話がしたくて」


 私が少し前のめりになって頷くと、キャプテン──藤沢先輩は「私もなんだ」と言った。私は嬉しくなって頬が緩む。


 高校生活の集大成、女子バレーのインターハイ。三年の夏は今日、終わりを迎えた。私たちの高校にはスポーツに特化した特別コースがあって、特にバレー部は毎年それなりの成果を上げていた。

 今年の結果は準優勝。藤沢先輩は少しばかり悔しそうな顔をしているが、十分素晴らしい功績だ。しかし先輩の気持ちもよくわかる。


「じゃあ、水島も連れてきて」


 私の綻んでいた顔が一瞬にして固まった。


「……水島も、ですか?」

「うん、水島にも話しておかなくちゃ。次は君らが高三になるんだから」


 私は水島──水島卯月があまり得意ではない。

 先輩に首を傾げられ、私ははっと我に返る。


「い、今連れてきます」


 踵を返し、水島の元へ目指した。先輩に背中を見送られながら、私は下唇を噛む。

 水島卯月は今年からこの高校にやってきた転入生だ。親の都合で東京から来たのだそうだが、前の学校でもバレー部に所属しており、中学では全日本中学校バレーボール選手権大会で優秀選手に名を連ねたほどの実力者。コーチからも転校初日から目をかけられ、先輩たちも皆注目している。

 もれなく、キャプテンである藤沢先輩も。


 このタイミングで私と水島に話があるということは──つまり、来年の春高バレーやインターハイに向けた何かが知らされるということ。

 憂鬱だ。

 私は水島を見つけると手を挙げた。


「水島、キャプテンが呼んでる」


 水島は一人遠くから試合後の風景を眺めていた。喜怒哀楽で入り乱れるアリーナの中で一人だけぽつんと無表情が浮いている。水島は呼び声に反応するように視線だけをこちらに寄越すと、小さな口を開いた。


「何の話?」

「いいから呼んでるんだってば」


 私は苛立ちを滲ませながら、水島の手を取る。

 水島が転校してくるまで、私は彼女のポジションにいた。期待のエースだと目を掛けられ、その声に積極的に答えてきた。というのに、横から水島がかっさらっていった。

 せめて態度が良ければ、私もこれほど敵視していなかった。けれど水島は違うのだ。

 水島は藤沢先輩の前に立つと、物怖じせず堂々と見上げる。


「キャプテン。小野田に用件を伝えてからわたしを呼びに来てください」


 噓でしょ。

 私は思わず顔をしかめた。なんてずけずけと意見をするの。


「ああ、ごめんね。ちょっとサプライズと思ってさ。水島、聞いてくれる?」


 藤沢先輩は気遣って苦笑いを見せると、水島の機嫌を窺った。水島は特に返事もなく藤沢先輩を見つめ返している。


「きゃ……キャプテン、お話をしていただいてもいいですか?」

「そうだね」


 気を取り直して、と藤沢先輩は咳払いをした。


「新しいチーム編成の話なんだ。小野田凛をセッター、水島卯月をアタッカーに推薦したいと思ってる」


 ピリ、と空気に電気が走ったような気がした。

 私は「は?」と漏らしかけた声を喉の奥に押し込む。


「誰も異論はないポジションだと思うんだけど……君たちはどう思う?」

「問題ありません」


 水島は安定した無表情で即座に答えた。

 そりゃ、水島は問題ないと言うだろう。彼女のスパイクは誰からも認められている唯一無二の力強さとコントロール能力を持ち合わせている。しかし私は認められなかった。

 即答できず、首が徐々に項垂れていく。


「小野田。セッターもかっこいいポジションだと思うよ。エースを目指してた君には酷かもしれないけど……どうか優勝のために受け入れてほしい」


 藤沢先輩に肩を叩かれ、私は首をゆっくりもたげた。お願い、というその視線に私は耐え切れない。


 この二年間、私は水島に与えられたポジションを勝ち取るために頑張ってきた。こんな残酷なことはあるだろうか。

 私は作り笑いを見せて、喉の奥から声を絞り出した。


「分かりました」


 藤沢先輩は安心したように息を吐く。

 セッターも悪いポジションではない。アタッカーの能力を百パーセント引き出すためには、セッターの力も必要だ。それにセッターは司令塔として、チームを引っ張っていく必要がある。藤沢先輩のように。






 翌日、私はむしゃくしゃした気持ちを堪えきれず学校へ向かっていた。

 勿論、今日は夏休み期間。インターハイ最終日の翌日なので、練習もない。しかし私は癖のように学校の門をくぐる。

 教員室の扉を開くと、扉付近のコーヒーマシーンを使っていた教師が目を丸くした。私は会釈して、体育館のカギを借りようとする。しかしそこにカギはかかっていなかった。


「一時間ほど前に、君と同じようにジャージを着た女子生徒が借りていったよ」


 コーヒーの入ったマグカップを片手に持つ教師がそう言う。

 私以外に、バレーの練習をしに来た生徒がいるなんて。少しだけ嫌な予感がして、私は再び頭を小さく下げて教員室を後にした。


 一人でのびのびと練習できると思っていたのに。

 体育館が近づいてくると、床を弾くような強烈な破裂音が耳に飛び込んできた。

 うんざりするのと、その姿を捉えたのはほぼ同時だった。


 水島は足のバネを使って跳び上がると、ボールに向かって右手を打ち付ける。ボールは強い力を受けて素直にコートの対角を目指し、着地、バウンドした。

 あのボールには勝てない。わかっているけれど、悔しかった。


 私は体育館の隅に荷物を降ろすと、日除けに着ていた長袖のジャージを脱ぎ捨てる。そして水島の背後を回って、もう一つコートを用意した。ネットを張って、軽い柔軟をしてから、ボールを手に取る。

 見据えたコートの向こう側には無数のボールが転がっていた。水島の練習量を物語っているようで、私は焦りを感じる。


 水島のボールの音を聞きながら、私はボールを打ち上げた。助走をつけて跳び、肩を大きく回す。手のひらにボールの感触を感じた直後、腕を振り下ろした。

 しかしその音は水島と違って空気を含んでいた。ボールは真っすぐコートの体格に落ちるが、水島ほど高く跳ねない。私は跳躍力も足りなければ、重みもない。水島を意識するようになってから、スランプ気味でもあった。身長は私の方が高いはずなのに。

 苛立ちを押し殺して次のボールを手に取ったとき、私は珍しく水島に声を掛けられた。


「全身に力入りすぎ」


 私はボールを打ち上げかけた左手を止めて振り返る。水島は私の腕を一瞥すると、左手からボールを取り上げた。


「ちょっと、何すんの」

「その場で跳んで」


 水島に声をかけられるなんて露にも思っていなかった。私は咄嗟に言い返すが、水島は無視をしてさらに支持を重ねてくる。私はしぶしぶ言われるがままその場で何度か飛び跳ねた。


「違う。力抜くためにジャンプしてって言ってるの」


 水島はいつも通り、棘のある口調で指摘した。私は水島の言われた通りに動くのは癪だが大人しくジャンプする。

 そうしていると、水島が突然手を叩き始めた。私のジャンプが水島の手拍子に揃っていく。


「いち、にぃ、さんで大きく跳んで」


 やがて手拍子に掛け声が加わり、三回に一度足に力を込めた。

何回繰り返しただろう。からかわれているのか、そう思ったときに、視界の端で水島がボールを投げ上げた。私は無意識的に「さん」の掛け声で跳ぶと、ボールに向かって腕を振り上げる。


 鋭い音が体育館内を切り裂いた。重みこそ変わらないが、速度が上がった。それは目で見ても、音で聞いても一目瞭然だ。


 私は唖然としてボールの軌道を見つめていた。


「それ、わたしが来た日にはできてたわよね。なんで今できなくなってたの」


 無神経な問いに頭にくる。しかし少し考えた後、その言葉の真意を理解して私は素っ頓狂な声を上げた。


「え?」

「私がバレー部に入部を申し込みに行った日、貴方はスパイクの練習をしてた」

「見てたの?」


 水島は「そんなに驚くこと?」と怪訝な表情をして頷く。


「見てたら何がおかしいのよ。貴方は次期エース候補だったじゃない」


 まさか自分が彼女の眼中にあるとは思わなかった。誰とも群れない、必要最低限の会話しかしない。しかも大抵一人でイヤホンをして練習動画を見ているか、難しそうなメンタルの本を読んでいるかの彼女が、私を見ていたなんて。


「貴方はこのチームのセッターなの。インターハイを目指すチームのアタッカーとして、セッターには手を抜かれたら困る」


 ずっと水島が何を考えているのかわからなかった。彼女が苦手だったのは、それも一因だろう。しかし今分かった。水島は私を認めている。


「手を抜いてるつもりは……ない」


 言い返した言葉に、水島は私をじっと見上げてきた。


「あっそう。じゃあ、わたしの練習にも付き合ってくれる?」


 有無を言わさぬ語調だが、私はためらいなく頷く。


「もちろん」


 ボールを手に取り、手の中で持ち替えた。


「私はインターハイで《《優勝する》》チームのセッターだから」


 水島が不器用に口角を持ち上げて笑ったのが見えた。








 二学期が始まって間もなく、先輩たちは引退した。とはいえ先輩たちは面倒見よく、たまに顔を出してはアドバイスをくれたり、相談相手になってくれる。


「最近、変わったね」


 一年と二年を混ぜた練習試合後に汗を拭っていると、元キャプテンの藤沢先輩にそう声を掛けられた。部長も変わり、新しいキャプテンは私、エースは卯月になっていた。

 私は誉め言葉に元気よく頷く。


「ありがとうございます。引退後から責任感を覚え始めたのか、みんな気が引き締まっているみたいで」

「違うよ」


 藤沢先輩はにこにこと笑いながら言った。


「小野田と水島のこと。君、水島のこと苦手にしてたのに、すっかり最強のコンビって感じだし、水島もチームを意識するようになった」

「あ……ああ」


 苦手にしていたこと、気づかれていたなんて。私は気恥ずかしくなって言葉を濁す。


「でもよかった。私の目に狂いはなかったね。二人とも、バレーに対する思いは同じくらい強いから」


 藤沢先輩の目は後輩に囲まれている水島に向いていた。いつも体育館の隅に座って一人でいた水島は、今や後輩たちに囲まれている。卯月は詰め寄る勢いに戸惑いながらも、ずばずばと的確な指示を飛ばしていた。

そのとき卯月の口の動きが止まり、ふいに水島の視線が私に寄せられた。


「キャプテン、ちょっといい?」


 声をかけられて、私は思わず腰を浮かせる。藤沢先輩はくすくすと笑って、手を振った。


「いってらっしゃい」

「はい」


 私は返事をして、チームに駆け寄った。先ほどの試合での欠点を自分たちなりに分析してみたらしい。


「聞いてもらうより、一回やってみようと思うんだけど」


 卯月の提案に、私は同意する。


「いいね。じゃあ、もう一試合やろうか」


 各自休憩したか、確認を取るが、後輩たちはすっかりぴんぴんしていて、元気に満ち溢れている。早く次の試合がやりたくて仕方ないらしい。


「じゃあ……」


 私たちは藤沢先輩のさらなる期待に応えようと、意気込んでコートに立った。


 ホイッスルが吹き鳴らされ、再びコートの中は緊張で満たされる。

 私はその中で作戦を脳内に巡らせながら、姿勢を低くして構えた。試合開始の合図とともに放たれたボールは鋭角を攻めて、こちらのコートに飛び込んでくる。私は前のチームメンバーが頭を下げたのを見計らって、正確にトスを上げた。

 高く打ちあがったボールを見上げると、体育館のライトが逆光になる。私は片目を瞑りながらも、指差しと声かけで指示を飛ばした。


 チームメンバーはすっかり慣れ切った様子でさっとアタッカーの周囲から引くと、卯月は助走をつけて跳び上がった。

 敵から飛んできたボールの動力を殺さないうちに、味方につけるのだ。


 卯月はきれいな軌道を描いて腕を回すと、的確な角度で手のひらをボールに打ち付けた。回転のかかったボールは空気を巻き込んで、相手コートの隅へ叩き込まれる。鋭く、重く、そして美しい破裂音は何度も聞いたものだった。

 誰もその強烈なスパイクを打ち返そうなんて、考えられない。

 ホイッスルが鳴り、点数が入る。


 次の試合はこちらのサーブで始まる。私は親指を立てて「もう一度見せてやれ」と示した。卯月は満足げに目を細めて口角を上げると、はっきりと頷いてネットから数歩下がる。

 私は卯月が狙いやすいようにボールを打ち上げたつもりだった。


 卯月は一瞬、眉間にしわを寄せる。彼女の足は踏み込み甘く、前傾姿勢になってつまづく。そして、そのまま受け身を取らず、まるで糸が切れた人形のように倒れ込んだ。


「水島先輩⁉」


 あまりにわずかな間のことだった。

 私は一歩足を引いて、足元を見下ろす。そこには先ほどまで真剣な目つきでプレーに集中していた水島が、真っ青の顔に冷や汗をかいて横たわっていた。後輩たちは慌てて駆け寄り、卯月の名を呼ぶ。しかし水島はピクリともしなかった。


 試合は中断、どよめきがコート内を支配した。


「息は⁉」


 騒ぎに気づいた藤沢先輩が立ち上がり、後輩の一人にそう尋ねる。


「ありますけど、意識が……」

「誰かAEDを持って来て、救急車も呼んで! それまでは私が心臓マッサージする!」


 呆然と立ち尽くしていた私は藤沢先輩に押しのけられて、その場に尻もちをついた。

 卯月は仰向けに寝かせられたまま、か細い息を吐き出している。


 頭の中が真っ白になった。私は呆気に取られているうちに、後輩の手で邪魔にならない場所へと引きずられる。それでも人の隙間から見える、まるで眠っているように静かに横たわる卯月の横顔から目が離せなかった。

 さっきまでピンピンしていたのに。


 ……いや、本当に?


 何か違和感を覚える場面があったのではないだろうか。そのときに気づけていたら、今、卯月はこうやって倒れていなかったのではないか。ずっとそばにいたというのに、私は何も異変に気づけなかった。


 迫る救急車のサイレンに合わせて思考が加速していく。


 私の不注意で卯月は倒れた? ……大げさだ。きっと運動のし過ぎか、脱水症状とかだろう。

 じゃあ、どうして卯月は心臓マッサージなんか受けて──。


「キャプテン!」


 私ははっと我に返って、声の主を見上げた。後輩が心配のまなざしで私を見下ろしている。

 気づけばそこにあったはずの卯月の姿がない。


「……」

「水島先輩は今救急車に乗っていきました。小野田キャプテン、部活どうしますか?」


 藤沢先輩の姿もいつの間にかなくなっている。コーチは卯月と一緒に救急車に乗ったのだろうか。体育館に残されていたのは、卯月を除くバレー部員だけだった。

 私は震えが止まらない手を見下ろす。


「どうしますか?」


 再度問われて、私は額を押さえた。今から運動する気にはなれない。きっとみんなもそうに違いない。言い聞かせてから口を開いた。


「……今日は解散にしよう」





「余命、半年だって」


 白いベッドの中で、白い入院着の卯月は言った。


「なんで?」


 私は反射的に尋ねていた。


「体にずいぶん無理させてたみたい」

「学校は?」

「休学ね。また戻れるかは、ちょっとわからないけど」


 卯月は窓の外へ視線を向けた。

 きっと、望み薄なのだろう。ベッドの横には車いすが折りたたまれておかれているし、おそらくバレーなんてもってのほか。


 それに卯月の体からは点滴が伸びている。それが卯月をこの世に引き留める手綱のように見えた。切れたら終わり。そんな風に思えて、私は俯いてこぶしを握り締める。


「案外、人生って呆気ないね」


 何もかも、諦めているような口調だった。ゆっくり首をもたげると、卯月は笑っていた。胸がずきりと痛む。

 どうして笑っていられるのだろう。突然倒れて、救急車に運ばれて、目が覚めたら「貴方の人生はあと半年です」と宣告されて。

 もっと泣いて、生にすがってくれたら、私も何かかける言葉があるのに。


「そういえば今日、練習は?」

「……」


 彼女の気遣いか、たわいない質問に私はそっと卯月から視線を外す。


「サボったの? キャプテンが」

「……違うよ。休みにした」

「だめじゃない。わたしはもう無理だけど、凛は違うんだから」


 もう無理?


「そう」


 心の声がいつの間にか漏れていたらしい。卯月は頷いた。


「わたし、もう運動はできない」

「なんで……なんでそんな平然と言えるの?」


 心底不思議で尋ねる。卯月は少し語気の強い言葉に目を丸くした。


「バレーは私たちの人生そのものみたいなものなのに、なんでそう簡単に言えるの。なんで諦めた風に振る舞えるの」

「……そんな風に見えた?」

「そうにしか見えないよ……っ!」


 私は自身の太ももをめいっぱい殴った。あまりに呑気に訊き返してくるものだから、怒りのやり場がなくて、歯軋りをする。


「わけがわかんない。インターハイで優勝するって約束は噓だったわけ⁉ なんで未練なく割り切れるの⁉ 卯月はその程度の気持ちだったってことっ⁉」


 何も言わずにじっと見上げてくる卯月の姿が涙で歪んでいく。


「もっと泣いて喚いてすがってよ! 生きて、インターハイでトロフィー掴みたいって言いなよ!」


──バカ!


 最後の一言を声に出す前に、私は病室から逃げ出した。

 この世はどうしようもなく無慈悲だ。それに抗ってこそ、人間だと思う。

でも卯月は諦めた。


 戦うことを諦めた。

 病院の外に出ると、一筋、夏の残りのような暑さに似合わない冷ややかな風が吹き抜けた。本格的な秋のはじまりの合図だった。そろそろもう一枚欲しい季節になってくる。


 インターハイまで、あと半年以上もあった。卯月の担当医の診断が本当なら、そのときには卯月はこの世にいない。


 目から零れた涙が乾いていく。空は珍しく雲に覆われていた。鈍色の重い雲はゆっくりと流れて行く。

 私はチームの、卯月のセッターとして、どうすればいいのかわからない。


 私は行き場のない感情を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。










 顎から汗がしたたり落ちる。

 私は手の甲で拭うと、飛んでくるボールに身構えた。

 一瞬の違和感。サーブをしようと重心を落とした時、次に預けるべき人の姿を見失う。思い込んでいたシルエットがそこになかったからだ。


「キャプテン!」


 ボールは明後日の方向へ飛んだ。さすが強豪校と言うべきか、フォローも完璧で、私のミスしたボールを拾って次のアタックにつなげる。ギリギリもぎ取った一点を私は呆然と見届けた。

 ホイッスルが鳴らされ、一時休憩。タオルを手にしようとしたとき、私は肩を掴まれた。


「ちょっと、小野田」


 その声は藤沢先輩のものだった。

 鋭く、怒りを含む声に、私は首を項垂れる。その様子に藤沢先輩も、何かを言う気が失せたのだろう。ベンチに座らせ、代わりのメンバーをチームに入れた。

 短い休憩が終わるが、私はベンチに腰かけたままじっと床を見つめ続ける。やがて藤沢先輩が隣に腰を下ろした。背中をさすられ、私は視線だけを彼女に寄越す。

 藤沢先輩は哀れみをその目に宿していた。


「水島が心配?」


 私は目をぎゅっと閉じて、頭を抱え込んだ。

 叫んで病室を飛び出して以来、私は卯月に会いに行けていない。思うところがないわけがない。だというのに、あの時の私は感情的になって怒鳴ったりした。


 後悔していた。

 早く謝らなければいけない。わかっているけど、できなかった。

 完全に時期を逃してしまっていたのだ。

 次の日にでもまた病室に行って、頭を下げればよかった。しかし気まずさを覚えて足が遠のいているうちに、一日、二日……と日は刻々と過ぎ、すでに二週間を迎えようとしている。


「練習に身が入らないならやらない方がいい。無理してやったら怪我するよ」


 藤沢先輩は私の肩をぽんぽん、と優しく叩くと立ち上がった。足音が遠くなり、ベンチ付近には私一人だけになる。

 他の部員たちにも気を使わせてしまっている。わかっているけれど踏ん切りがつかなかった。

 それに──やっぱり、どうしてあの時卯月が笑えたのか、私にはわからなかった。








 翌日はあの日と同じ曇り空だった。

 部員たちに「明日は休んで」と言われてしまい、今日は部活の参加権がない。早くに帰宅する気にも慣れず、一人放課後の教室で時間を潰していた。


 しかし、私にはバレーだけだったのだ。どんなふうに空いた時間を過ごせばいいかわからない。とりあえずイヤホンをつけてバレーの練習動画を見ることにする。

 ふと動画の途中で顔を上げて時計を確認した。先ほどから五分しか経っていない。しばらくして、もう一度画面から顔を上げると、やっぱり五分程度しか経っていなかった。


 バレーがしたい。お願いをして部活に参加させてもらおう。

 私はカバンを担いで椅子から立ち上がった。そのとき、手の中のスマホが震えた。

 誰からだろう、画面を開いて通知を確認する。

 私は目を瞠った。


「卯月……」


 メッセージアプリからの通知は一通のみ。


──今日、病院に来れたりする?


 私がアプリを開こうとした直前、またスマホがメッセージを受信する。


──無理だよね。今日部活あるだろうし


 私は慌てて卯月とのメッセージ画面を開いた。焦って滑る手で何とか返信をする。


──行く


 なんだ。案外簡単なことだった。

 あれだけメッセージを送ることに躊躇していたのに、たった二文字打つのに何もいらなかった。自分に拍子抜けしつつも、私はカバンを担いで教室を飛び出した。


 病院への行き方はきちんと覚えていた。駅前から出ているバスに二十分揺られるだけ。私は走って駅を目指した。駅前にはすでにバスが停車しており、私は出発してしまわないように手を挙げて車内に駆け込む。

 車内にはおそらくこれから病院に向かうと思われるおばあさんや、帰宅時間の学生が数名座席に腰掛けていた。慌てて乗り込んだ私はしばらくの間視線を集めながら、前の方の座席に座った。





 私がバスから駆け降りると、病院に入り口付近に車いすの背中を見つけた。その側には白い制服に身を包んだ女性の看護師が立っている。看護師がその車いすを押しているようだった。

 看護師は慌てたような私の足音に振り向く。私は焦ってお辞儀をした。


 すると看護師は車いすをこちらに向けて、押してきた。

 車いすには卯月が座っていた。二週間でずいぶん痩せたような気がする。特に首筋の周りは顕著だった。

 彼女は病院の手入れされた花壇にぼうっと生気のない目を向けている。


 やっぱり卯月が何も思っていないはずがないのだ。私は胸が痛んだ。


「卯月」


 声をかけると、卯月は首をこちらに向け、先ほどの虚ろな目と同じ人とは思えない笑顔を見せる。

 私が恐る恐る一歩を踏み出すと、看護師が車いすから手を離した。


「何か異変があればすぐに呼んでください」


 看護師から車いすを預かると、看護師は病院内に消えていく。二人きりになって、私が気まずさに押し黙っていると、卯月が口を開いた。


「そっちの庭園、紅葉が綺麗なのよ」

「……え?」

「押してくれる?」


 振り返りざまに、卯月が言う。私はぎこちなく頷くと、慣れない車いすを押した。

 もう秋も半ば。春高バレーまであと半年と少ししかない。まだ陽光は朗らかさがあるけれど、たまに吹き込む風は冬らしさすらあった。以前病院に来た時は、まだまだ夏と秋の狭間の気分だったのに、季節の流れは速い。

 卯月は管に繋がれた腕を伸ばして、遠くを指した。


「あっちに行ってくれる? 病院の窓からはもう見飽きたから、反対側から見たくって」


 きれいに色づいた紅葉の下に行くと、卯月はゆっくりと見上げてやっぱり季節の流れを感じていた。


「ほら、おじいさんとかおばあさんとか、風景とか景色とか好きじゃない?」

「……そうかも」

「あれって、いつこの綺麗な景色を見るのが最後になるのか、わからないからだったりして」


 卯月は体を揺らして笑うと、突然背を丸めて胸を抑えた。小さな呻き声が漏れ聞こえ、うなじにうっすらと汗が浮かんでいる。


「う、卯月、大丈夫⁉」

「へ……平気。これくらい、よくあることだから……」


 私が車いすを病院の方へ引こうとすると、卯月は首を振った。

 やがて落ち着いて来たのか、卯月はゆっくり深呼吸を繰り返しながら背もたれに体を預けた。卯月は自虐的にうっすらと笑みを浮かべている。


「聞いたわよ」


 そして空気を変えるように突然話題を振ってきた。


「……何を?」


 私はなんとなく予想がついていたが、訊き返す。


「凛ってば、わたしのことが心配で心配でしょうがなさそうだって」

「だ……誰から」

「みんな」


 卯月はにや、と目を細める。私は気恥ずかしさに顔を逸らした。


「嘘でしょ」


 それは予想外だった。


「ほんとよ。藤沢先輩とか、チームの子たちからも……あと後輩も。たくさんメッセージがきた。人気者になったみたいだったわ」


 私もまたみんなに心配をかけさせてしまっていたのだ。俯き、指のささくれに触れる。


「ねえ、これから変な話をするんだけど、話聞いてくれる?」


 卯月は唐突にそんなことを言った。車いすの車輪に手を掛けて、私と向き合うようにする。


「……私が卯月の話を聞かなかったことなんてない」

「そうね」


 卯月は大きく息を吸うと、紅葉から目を離して、殺風景な地面を見下ろした。


「凛はこの石ころを愛せる?」


 卯月の視線を辿ると、そこには砂利よりも少しだけ大きな、それでも何の変哲もない小石を見つめていた。私は内心で首を傾げながら、その小石を卯月と同じように見下ろす。


「無理よね。じゃあ、凛は好きな人とか……大切な人はいる?」


 私は卯月を真っすぐに見つめたが、卯月はまだ石を見ていた。


「例えばの話よ。もし凛の好きな人の両腕と両足がなくなったとする」


 私はぎゅっと、自分の身戦にしわが寄ったのを感じる。卯月は私の顔を見上げると、笑ってみせた。


「例えばの話だってば。……でも、本当にそうなったとして、凛の好きな人はまだその人なのかしら」

「……これって何の話なの?」

「本で読んだのよ。凛はどう思う?」


 私はなんだか不思議な気持ちになった。けれどひとまず卯月の言葉に頷いておく。


「その人だと思う」

「そう。じゃあ、胴体を無くしてみて……頭だけになったら?」


 私は不安な感情が沸き上がるのを押さえながら首を縦に振った。


「次は……ちょっと残酷だけど、頭から耳と鼻を取って……口と目を縫い合わせてしまうの。見かけはそこに落ちている石と何ら変わりないのに……凛はその人の何を愛しているんだと思う?」


 どうしようもなく、気持ちが悪くなった。何か、考えていたものが否定されていくような感覚。私は気づけば「分からない」と零していた。泣きたくなってさえくる。

 でも、卯月はちょっとだけうれしそうな顔をして、私の手を取った。


「わたしはね、記憶とか思い出だと思うのよ」


 ぎゅう、と手が握られる。水分を失ってかさかさで、体温の低い手。私は何かに駆り立てられて卯月の手を握り返した。地面に膝をついて、卯月を見上げる。

 卯月の目はいろんな感情に満ちていた。


「わたしたちにはあるでしょ? 練習して、分析して、高め合った日々が」


 ね? と子供に言い聞かせるように首を傾げられるてしまうと、私はただただ首を縦に振るしかなかった。


「凛、背負わせるようなことを言ってごめんなさい。わたしも、できることならこの身体で、アリーナに立ちたかった。この手で、トロフィーを掲げたかった」


 卯月の声が震えている。私は奥歯を噛み締めて、冷たい卯月の手をなんども握り直す。


「……でも無理なの」

「……っ」


 卯月の右手が私の手からするりと逃れると、私の頬に伸びた。私の目の下を撫でた卯月の白い指先が濡れている。

 私はやっと自分が泣いていることに気がついた。そう理解した瞬間、私の涙腺はダムを決壊させて、ぼろぼろと目から零れ落ちていく。しゃっくりを押し殺そうとしても上手くいかない。


 私は洟を啜って顔を上げ、卯月の顔を焼き付けようとする。


「すごく短い間だったけど……わたしとの思い出を、インターハイに連れて行って、凛」


 卯月もまた、目の縁に溜めていた涙を流した。一筋の涙は頬を伝って、顎から私たちの握られた手に落ちる。


「うん……っ」


 私はしゃっくりを上げながら鼻声で答えた。








 アリーナの中は、外のじりじりと焼けつくような暑さのためにキンキンに冷やされている。けれども私たちの心はそんな冷気に負けないくらいに高ぶっていた。アリーナの中はさまざまな感情が渦巻いている。

 そして私たちは今日、数多いる選手たちの頂点を掴んでいた。

 私は手の中にある金色に光るトロフィーを握り締めて、目を伏せる。


「小野田」


 噛み締めているうちに声をかけられてゆっくりと目を見開くと、そこには藤沢先輩がいた。短くしていた髪も随分と伸びて、大学生らしく顔にはメイクが施されている。

 私は見違えた先輩に驚きながらも、挨拶をした。


「お久しぶりです、先輩」

「いいもん持ってるね」


 トロフィーを指さされ、私ははにかんだ。


「これから、水島に挨拶に行くの?」

「……その予定です」


 卯月は、学校から一時間ほど電車に揺られたところに眠っていた。ちょうど、三か月前だった。

 主治医の診断は正しかった。手術をしたものの、手遅れだった卯月はきっちり半年でこの世を去ったのだ。その日まで、私たちは卯月のもとに通い詰めた。


 チームメンバーのスランプの到来、卯月の代わりに入ったアタッカーの指導、そしてチームで喧嘩をした時もみんなで卯月に泣きついた。卯月はちょっとばかり迷惑そうな顔をしていたけれど、頼られるのは嫌いじゃないとこっそり笑っていた。

 最後の日、卯月は楽しかったとずっと感謝を述べていた。


 そして私は卯月との約束通り、彼女との日々をインターハイに捧げたのだ。


「小野田は強くなったね」


 藤沢先輩は笑って言う。


「バレーだけじゃなくてさ」


 私は少しだけ返答に迷ったが、卯月に背中を押されたような気がして頷いた。


「はい」


 私の思い出には卯月がいる。たった、一年だけの付き合いだったとしても、それはこの十八年の中で一番濃い思い出だ。この先私に何があろうと、私の胸の中には卯月がいる。


「小野田! 改めて、インターハイ優勝おめでとう!」


 藤沢先輩の掛け声に今度ははっきりと返事をした。


「はい!」


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