22話「揺れる心」
机の上には、夏休みの宿題の一つである歴史の問題集が広がっている。
その他には可愛い猫のキーホールダーが付いているチャック付きの筆箱。
(ユウが、チャックの構造が実用化していることに驚いていたりする。)
そして、飲んだであろう残り2割の量を切った水が入ったコップが置いてる。
それ以外のものはどこかに片付けたりでもしたのだろうか、娯楽品の一つすらも存在せずに、家族写真、ジュエリーボックス、観葉植物などが質素に置かれているだけだ。
「____集中出来ないなぁ......。」
鉛筆を指先で弄っていると、眠気が入り混じった声がカグヤの口から漏れた。
どこか上の空と言った感じだが、それも当然のことだろう。
太陽はとっくに地平線の彼方に沈んでおり、闇の帷が降りて世界を覆っている。夜空には月がポツンとその存在を知らしめるように、晃々と煌めいている。
もう少しで日を跨ぐような時間帯であるため、周囲に存在する家からは明かりが発しておらず、それに比例するように人々の喧騒も一切聞こえてこない。
蟋蟀なのか、鈴虫なのか、虫の鳴き声が、耳を立てると微かに聞こえてくる程度だ。
生物博士じゃない私には、正確に聞き取ることは出来ないけど......。
「___うーん...お兄ちゃんが隣にいないと、ペースは落ちるなぁ......はぁ....」
カグヤは、肺の中の空気を全て吐き出す程の深い溜息をついた。
時間としては1時間40分くらいだろうか?
途中に一度だけトイレを挟んだものの、その時間以外ずっと勉強に邁往していたのだ。
少しでもお兄ちゃんとの時間を作りたいらしく、夜の間に終わらせようとカグヤは魂胆していた。
朱雀ことスーちゃんが、目を悪くしないように仄かな明かりをつけてくれているのは、もうカグヤの日常の一部になって溶け込んでいる。
「うーーん......」
カグヤは言葉を外へと吐き出しながら、少しだけ身体を伸ばした。
意識はどこか朦朧としていて、隣に設置されているふかふかのベッドの中には入れば、すぐに眠りつけるだろうと思われる。
そんなカグヤを心配したのか、スーちゃんがカグヤの側へと寄り添うように移動した。
「_____カグヤちゃん、もう切り上げてもいいんじゃないかな?今日はよく頑張ったからね。」
朱雀はカグヤを慰労するように、優しく言葉を投げかけた。
カグヤは、彼女のことを暖かい赤鳥としか認識していないが、その正体は四神の一角を担う、南方を守護する神鳥の朱雀である。
ユウが彼女の存在を聞いて驚いたのは至極当然だろう。
そんな四神に相応しいほどの威厳......というものは今は感じられない。
羽を広げれば少しは威厳を感じるかも知れないが、羽を縮めればアゼルの蝙蝠姿よりも少し大きい程度であり、やはりアゼル同様に小動物感覚のレッテルからは抜け出せず、カグヤが神鳥であることに気づかない理由の一つだろうか。
「うん......今日の私は頑張ったよぉ....」
子供が親に対して甘えるような態度だ。
カグヤは傍らに寄り添ってくれている朱雀を、頭から足にかけてゆっくりと撫でていき、いつものように感謝の気持ちを行動で伝えた。
橙色の淡い炎を身に纏うスーちゃんの身体は、側にいるだけでも暖炉や蝋燭のように暖かい。
直接触れたら火傷しちゃうかもって思うかも知れないけど、私のように細い_____最近はちょっと太っちゃったけど......、そんな身体で触っても火傷の一つすらも出来ない。
「問題集は、結構進んだかな?」
静謐な声色で朱雀は喋る。
その声だけは四神に相応しい神秘的なものであり、清楚系の美少女である彼女にはとてもマッチしている。
カグヤに対するように、心を許すようなことは滅多にないらしいが、一度心を許せばめちゃくちゃ甘えてくるタイプなのが朱雀の性格だったりする。
「えぇっと...だいたい......」
カグヤは机の上に広がる歴史の問題集のページをパラパラと捲り、進捗を確認する。
もともと字が綺麗なカグヤであるが、速く終わらせることに一心不乱になっていたのだろうか。
乱雑・無秩序という言葉が適しているように、到底綺麗と呼べるような字ではなかった。
「____12ページくらいかな...」
15秒程の時間をかけて、カグヤは1時間40分の間に進んだ進捗を確認した。
歴史の問題集は全部で50ページ、問題数は400問と非常に多いのが特徴だが、
問題の難易度で言えば比較的優しめであり、カグヤのように勉強が苦手な人間でも、やろうと思えば1日で終わらせられるほどだ。
すでに30ページを終わらせていたため、残りのページは差し引きで8ページとなる。
「昼の分も合わせると....今日だけで70ページくらいは終わらせたね。」
手を顎に当てるような仕種(?)をしながら、朱雀は今日を振り返った。
ユウがいなかった10日間。カグヤの勉強の進捗は一切進まなかった。
外に出るようなことは殆どせずに、ずっとベッドの中に包まっていて、家族や妖怪達以外とは全くと言っていいほどに会話をしていなかった。
しかし、ユウが戻ってきてからはそれが嘘のようになった。
今日一日だけでカグヤは6日分ほどの量を終わらせたため、ユウという兄の存在が、カグヤに大変かけがえのないものであることを、カグヤにとって何よりも大事な生きる理由であることを、朱雀は改めて認識した。
「70ページかぁ......やっぱり私にはお兄ちゃんが必要なんだなぁ......」
カグヤはどこか他人事のように呟いた。
70ページという単語を聞けば、まるで自分のことのように感じない。
勉強が好きではないカグヤには、一日15ページほどを進めるのが限界だったからだ。
それを遥かに上回る約4.7倍の70ページという数値を叩き出し、今日一日でどれだけ努力をしたのか、誰の目からみても明瞭であろう。
(ふふ、本当にお兄ちゃんが好きなんだなぁ。)
朱雀は慈愛に満ちた瞳をカグヤに向けながら、心の中でそう呟いた。
疲れている時であろうとも、カグヤの兄に対する気持ちは変わらないらしい。
今、何を考えいているのかを朱雀には読み取れないが、恋する乙女のような表情をしていることは、朱雀でも理解出来た。
「もう12時を回っているし、そろそろ寝よっか。そうじゃないとお兄さんに怒られちゃうからね。」
朱雀は構ってほしいという願望を押し殺しながら、カグヤにそう助言した。
カグヤを慕う妖怪達は、それぞれがあまりにも強すぎる個性を持っているが、いくつか共通して持っているものがある。
その一つが______カグヤに対する思いやりの心だろうか。
自分のことに一切の感心すらも抱かない四凶天ですらも、カグヤのためなら行動出来る程に(それでも、夕食の時のようなことはあるが、カグヤは個人意思を尊重しているため、強制するようなことはしない。そういうところも、四凶天がカグヤのことを好きになった理由でもあったりする。)。
「うっ......確かに......。」
朱雀の言葉に、カグヤの身体に悪寒が走った。
もし寝過ごして、明日の朝にお兄ちゃんと鉢合わせでもしたら......
『目の下にクマが出来ているな。昨日、ちゃんと睡眠をとっていないだろ?』
と言われる未来がみえる......。
昔のお兄ちゃんなら優しく許してくれるけど_____今のお兄ちゃんは絶対に許してくれそうにないからね...。
そう考えると、背筋がブルッと震えてくる。
お兄ちゃんに怒られるの勘弁......!
そんな思いが湧いてくる。
「うん、もう寝ることにするね...!」
カグヤは純粋だった。
自分が信じている友達や家族は、絶対に嘘を付かないと。
ユウからすれば、あまりにも非現実的すぎる考えを信じているくらいには純真無垢な女の子だ。
そして、そうと決まれば話は早い。
カグヤの意識はもう寝るということに、9割以上の脳のリソースが奪われたことだろう。
カグヤは睡眠前のストレッチとして、うーんと唸りながら両手を天井へと伸ばして、凝り固まった身体を解すことにした。
「___ちょっと勉強をしすぎたかな......肩甲骨周りが少しだけ痛い......。」
長時間椅子に座っていたのも原因であろうが、ユウがいなかった10日間の影響も今だに残っていることも要因だろう。
「ふふ、仕方ないね。でも____それは頑張った証だよ。」
朱雀は、努力をしたカグヤを労うように、優しく穏やかな声色で話した。
嚠喨する朱雀の声は、カグヤの心の中に染み込んでいき、張り詰めていた意識を解きほぐしていった。
「スーちゃんー、癒やしてよぉ......」
緊張がとき解れたのが原因だろう。
朱雀に対して普段なら見せないような弱さを、カグヤは見せた。
「ふふ、してあげたいけど駄目だよ。」
朱雀は逡巡するようなことはせずに、カグヤを甘やかすことを否定した。
何度かこのような会話をしたことがある二人だが、朱雀が肯定するようなことは意外にもなかった。
「うぅ......スーちゃんのケチぃ.....」
「...私はそれでもいいよ。ほら、早く寝ないとね。お兄さんに怒られるよ?」
「はーい......」
若干不貞腐れながらも、カグヤは朱雀の言葉に素直に従った。
椅子から立ち上がり、隣に存在しているベッドの中へと潜り込んだ。
(今日も頑張ったね、カグヤちゃん。)
朱雀は子供の成長を見守るように、カグヤへと視線を向けた。
勉強したことで少しだけ頭が活性化してしまったのだろうか、ベッドの上でゴロゴロとしていて、すぐに眠りにつくことは少し難しそうだった。
朱雀の力なら、今のカグヤの疲労を癒やすことも可能であるが、カグヤのことを思って敢えてやらないように朱雀はしている。
肉体と精神的な痛みに慣れることは、成長するうえでは欠かせないプロセス。
それを朱雀は知っているからだ。
褒めるところは褒める、怒る時は怒る。
ただカグヤを甘やかすのではなく、人としてしっかりと成長することを妖怪達は胸の内に秘めているのだ。
「カグヤちゃん、おやすみなさい。」
いつものように、そして大切に、一言一句丁寧に言葉を伝えた。
「うん、お休みスーちゃん。」
そんな朱雀の思いを、カグヤは優しく受け止めた。
その言葉と同時に、朱雀の身体が淡い光の粒子となって、儚く空間に溶け込んでいった。
......妖怪達は、常にカグヤの側にいるというわけではない。
一人でいる時間も大事であることを知っているため、1日中寄り添っているという訳では無いのだ。
ベッドに横になりながら最後まで朱雀を見送ったあと、カグヤは天井へと視線を向けた。
「_____お兄ちゃん......」
...変わった。
会っていない10日間の間で。
今までの全てを否定するかのようにお兄ちゃんの性格は変貌した。
どこかでは違うと認識している。
どこかでは自分のお兄ちゃんであるとも認識している。
「わからない.....わからないよぉ.....お兄ちゃん......」
横向きへと体勢を変えて、カグヤはすすり泣く。
涙は決河の如く瞳から溢れ出し、ふかふかのベッドの上に滴り落ちる。
心が比較的強い部類にいるユウでさえ取り乱す状況であるため、カグヤとって今の現状は果てしなく重いものだろう。
家族や妖怪達の前では決して見せることがない、カグヤの心の弱さがそこにはあった。




