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語り部のいない村

作者: つにお

趣味で執筆を始めました。

 「昔々、その村には山から吹く風を愛する人々と、川のせせらぎを愛する人々が暮らしていました。ふたつの民族は、山の恵みと川の恵みを分け合っていました。

しかし、ある年から日照りが続き、木の実も魚も取れなくなってしまいました。

村民たちはお互いを信じることよりも、疑うことを覚えてしまいました。山の人々は『川の民が魚を隠している』と言い、川の人々は『山の民が木の実を独り占めしている』と言いました。ほんの小さな疑いが、やがて大きな争いを生みました。」



――夜明けは、光よりも先に音が教えてくれる。


谷を渡る風の囁き。葉擦れの音。遠くで響く鹿の鳴き声。そして、寝床の藁が軋むかすかな音に混じり、一番近くで聞こえるのは、規則正しく繰り返される母の呼吸。

少年は、そのすべてを聞きながらゆっくりと目を開けた。差し込む乳白色の光が、土壁の部屋を静かに満たしている。今日もまた、昨日と何一つ変わらない一日が始まるのだと、その光は告げていた。


少年が暮らす村には、名前がなかった。人々はただそれを「村」と呼び、世界のすべてがこの谷間にあると信じて疑わなかった。土を耕し、木の実を拾い、川で魚を獲る。日が昇れば働き、日が沈めば眠る。満ち欠けする月だけが、時の流れを知らせる唯一の暦だった。穏やかで、満ち足りた日々。誰もがその単調な繰り返しに満足していた。


少年もまた、その営みの一部だった。

桶を両手に提げ、小川へ水を汲みに行く。朝露に濡れた草の匂いが、ひんやりと肌を撫でた。道すがら出会う村人たちは皆、穏やかな顔で「おはよう」と声をかけてくる。その目には、少年が生まれるずっと前から続くであろう、揺るぎない日常への信頼が宿っていた。


村の西側に、ひときわ高い丘がある。少年は薪拾いのために、その丘の麓へ向かうのが日課だった。乾いた枝を探して森を歩きながら、ふと木々の切れ間から空を見上げる。そこにはいつも、「あれ」があった。


丘の頂に、ぽつんと佇む巨大な鐘。


風雨に洗われた鈍色の肌は、ところどころ青錆に覆われ、まるで悠久の時を生きてきた大亀の甲羅のようだった。いつからそこにあるのか、何のためにあるのか、知る者はいなかった。村の長老でさえ、「物心ついた頃には、もうあそこに座っていた」と、皺くちゃの顔で笑うだけだ。

村人たちにとって、鐘は風景の一部だった。雨宿りのための大きな岩や、目印になる奇妙な形の木と何ら変わらない。鳴らされることもなく、語られることもない。それは、忘れられた巨人のようにただ黙って、変わりゆく雲と、変わらない村の営みを見下ろしているだけだった。


その日も、そうであるはずだった。

少年が背負い籠いっぱいの薪を抱えて森を抜けようとした、まさにその時だった。谷の奥から、唸るような風が吹きつけてきた。木々の枝が大きくしなり、ざわめきが森全体を揺るがす。少年は思わず身を屈め、風が通り過ぎるのを待った。


その、瞬間だった。


風の轟音の合間を縫って、今まで一度も聞いたことのない音が、少年の鼓膜を震わせた。


ゴーン……。


それは音というより、空気の振動そのものだった。地の底から響いてくるような、低く、重い響き。まるで、何十年も黙り続けた巨人が、苦しげに絞り出した最初の呻き声のようだった。

少年は弾かれたように顔を上げた。音のした方角を、目を凝らして見つめる。

丘の頂。風に煽られ、巨大な鐘が、ほんのかすかに揺れていた。


すぐに風は止み、森は元の静けさを取り戻した。他の誰も、今の音に気づいた様子はない。だが、あの重い響きは、少年の耳の奥に確かにこびりついていた。少年は惹かれていた。


あれは、ただの飾り物ではなかった。

ただの鉄の塊でもなかった。


あれは、鳴るのだ。

では、なぜ。

なぜ、誰もあの鐘のことを話さないのだろう。

なぜ、まるで存在しないかのように、皆が口を閉ざすのだろう。


少年の心に、初めて一つの問いが生まれた。それは、静かな水面に落ちた一滴の雫のように、小さく、しかし確かな波紋を広げ始めていた――



「空はいつも灰色で、鳥たちも歌うのをやめてしまいました。

その時、空が裂けるような稲光と共に、大きな雷が村の樫の木に落ちました。雷の火は、雨にも消されず、ごうごうと燃え続けました。」



――あの日以来、少年の耳には、あの重い響きが残り続けていた。それは幻聴のように不意に蘇り、そのたびに少年は丘の上を想った。しかし、鐘は相変わらず黙して語らず、ただそこに在るだけだった。


(誰か、何かを知っているはずだ)


その思いに突き動かされ、少年は村人たちに尋ねて回ることにした。

最初に声をかけたのは、畑で鍬を振るっていた屈強な農夫だった。

「丘の上の鐘のことか? さあな」

男は汗を拭い、太陽に目を細めながら答えた。「わしらが生まれるずっと前から、あそこにどっしり座ってる。きっと、山の神様が気まぐれに置いたのさ。深く考えるこっちゃあない」

その言葉には何の裏もなく、ただ純粋な無関心だけがあった。


次に、機織り小屋で糸を紡ぐ老婆に尋ねた。老婆は少年の問いを聞くと、カタカタと動かしていた手をぴたりと止め、皺の深い目元に一瞬だけ険しい影を落とした。

「……よしなさい、坊や」

咎めるような、それでいてどこか哀れむような声だった。「触れてはいけないものに、わざわざ触れることはないんだよ。知らないままでいれば、幸せでいられることもある」

それは、農夫の無関心とは明らかに違う、意図的な拒絶だった。


最後に、少年は村で最も長く生きている長老の元を訪ねた。日向で穏やかに煙管をくゆらせていた長老は、少年の話を黙って聞いていた。少年が、風の日に鐘の音を聞いたことを正直に打ち明けると、長老の切れ長の目が、ほんのわずかに見開かれた。だが、それも一瞬のこと。すぐにいつもの凪いだ表情に戻り、静かに言った。

「風の悪戯だろう。あの鐘は、もうずっと鳴ってはいないのだから」

「でも、僕は確かに……」

「お前の心が見せた幻だろう」

長老はそれだけ言うと、ゆっくりと目を閉じた。これ以上話すことはない、という沈黙の壁が二人の間に築かれる。少年は引き下がるしかなかった。


だが、帰り際、少年は見た。長老の視線が、村の物置として使われている古い小屋の方へ、ほんの一瞬だけ向けられたことを。それは、何かを懐かしむような、あるいは何かを確かめるような、深い色を湛えた眼差しだった。


少年は確信した。この村は、何かを隠している。そしてその何かは、あの鐘と、あの古い小屋と繋がっている。


その夜、少年は月明かりだけを頼りに、家をそっと抜け出した。軋む戸を背に、息を殺して向かったのは、昼間長老が見つめていた物置小屋だった。かびと埃の匂いが充満する小屋の奥で、少年は手探りで何かを探し続けた。そして、積み上げられた古い農具の陰で、一つの木箱を見つけ出した。


蓋は重く、開けると乾いた蝶番が悲鳴のような音を立てた。中に入っていたのは、獣の皮で装丁された一冊の古い書物だった。ページをめくると、見たこともない角張った文字が、インクのかすれや滲みを伴ってびっしりと並んでいた。


少年は書物を懐に隠し、自分の寝床へ持ち帰った。震える指でページを一枚一枚めくり、意味を拾うように文字を追っていく。それは、村の歴史を綴ったもののようだった。だが、その内容は少年の知る穏やかな村の姿とは似ても似つかぬものだった。


『……血は大地を赤く染め、兄弟の亡骸が川を堰き止めた……』

『…互いを憎み、恵みを奪い合った…』


ページは虫に食われ、所々が破り取られている。肝心な部分は、まるで誰かが意図的に隠したかのように、ごっそりと抜け落ちていた。それでも、残された言葉の断片を繋ぎ合わせるうちに、恐ろしい情景が少年の目の前に浮かび上がってきた。

この村が、かつて内紛で二つに裂かれ、血で血を洗う争いを繰り広げていたという事実。


そして、少年は息を呑んだ。物語の終盤、破れたページの最後に、かろうじて読み取れる一文があった。


『…我らは全ての罪を溶かし、一つの誓いを天に掲げた。その音は、我らの戒め…』


全身の血が凍るようだった。

罪を溶かし、天に掲げた誓い。それは、あの鐘のことではないのか。

穏やかな村の風景の下に塗り込められていた、壮絶な過去。平和の象徴だと思っていた鐘が、実は血塗られた争いの記念碑であり、村人たちが忘れることを選んだ悲劇の象徴だったとしたら。


書物は、それ以上の答えをくれなかった。情報はあまりに断片的で、真実のすべてを語ってはいない。

少年は書物を閉じ、窓の外を見上げた。闇に沈む丘の頂で、鐘が巨大な墓標のように、静かに佇んでいるのを感じた。

鐘の沈黙と、村人たちの沈黙。その意味を、少年はほんの少しだけ理解した気がした。だが、同時に新たな、そしてより深い問いが彼の胸に生まれていた。


忘れることで守られてきたこの平和は、果たして本物なのだろうか、と。――



「人々は決意しました。

人々は持っていた武器を炎の中に投げ入れていきました。

夜が明けて、村の人々は生まれ変わった鉄の塊をみんなで運び、村一番の職人が何日も何日も槌を振るい、遂には鐘をこしらえました。

村人たちは『不戦の誓い』を交わし、鐘に平和への願いを込めました」



――書物を読んだあの日から、少年の目に映る世界は色褪せて見えた。

村人たちの屈託のない笑顔も、穏やかな日々の営みも、すべてが悲しい歴史の上に成り立つ、薄氷の平和のように思えた。長老たちの沈黙は、もはやただの無関心ではなく、痛みを伴う苦渋の選択だったのだと理解できた。忘れることでしか、彼らは前に進めなかったのだ。


少年は何度も自問した。自分はこの真実をどうすべきなのか。歴史を暴き、偽りの平和を壊すべきか。それとも、先人たちと同じように沈黙を選び、この穏やかな忘却の中に身を委ねるべきか。

答えが出ないまま、彼は丘の上の鐘を避けるようになった。かつてあれほど心を惹かれた存在が、今では血と涙でできた巨大な塊に見え、目を背けずにはいられなかった。


そんな日々が幾日か続いた、ある晴れた午後だった。少年は意を決して、再びあの丘へと向かった。逃げていては、何も変わらない。彼は、鐘の真下まで登り、その冷たい肌にそっと手を触れた。

ひんやりとした金属の感触が、手のひらから伝わってくる。風雨に刻まれた無数の傷跡を、指でそっとなぞった。


その時、彼の脳裏に、書物の最後の言葉が蘇った。

『…我らは全ての罪を溶かし、一つの誓いを天に掲げた…』

罪を溶かす――。そうだ、この鐘を作った人々は、ただ悲劇を嘆き、歴史を封印しただけではなかった。自らの過ちを乗り越え、未来への「誓い」を立てようとしたのだ。

悲しみの中から、祈りを込めて。


忘れることは、その祈りまでも捨て去ることになるのではないか。

悲劇として終わらせてしまえば、血を流した者も、それを乗り越えようとした者も、本当の意味で報われないのではないか。


少年は顔を上げた。

腹が決まると、心に巣食っていた霧がすっと晴れていくようだった。鐘はもはや忌まわしい墓標ではなく、これから始まる物語の、静かな聞き役のように見えた。



季節は巡り、谷間に柔らかな風が吹き始めた頃。

少年が丘の麓で草笛を吹いていると、村の子供たちが数人、きゃっきゃっと笑い声をあげながら駆け寄ってきた。一人の幼い子供が、丘の頂を小さな指で指し示し、無邪気な瞳で少年を見上げた。

「ねえ、あのおおきなのはなあに? なんであそこにあるの?」

それは、かつて少年自身が胸に抱いたのと同じ問いだった。巡ってきたのだ、と彼は思った。


少年は穏やかに微笑み、子供たちを手招きして隣に座らせた。

そして、丘の上の鐘を見上げながら、ゆっくりと語り始めた。

ご覧いただき、ありがとうございました。

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