8 病弱な主人と盗品
「僕は、仕事が終わるまでは屋敷に入らないから、また仕事に戻るね」
「分かりました、ではまた後で会いましょう」
アクディーヌは、少年と別れた後、開かれたままの扉をくぐり、屋敷の中へと足を踏み入れた。
薄暗く、肌に冷たい空気が触れる。
どこかで声が聞こえ、その声が次第に近づいてくる。
(主人の声でしょうか?)
アクディーヌは、声の正体が分かるまで待ってみると「フィンレー様!」と言う老人の声と同時に、激しい咳き込みが響いてきた。
アクディーヌは慌ててその方向へ駆け寄る。
(もし主人だとしたら、持病が悪化しているではありませんか。お兄様がある程度は治したとは庭師さんからは聞きましたけれども)
「大丈夫ですか?」
駆け寄ると、そこには苦しそうにする金髪の青年を抱えるタキシード姿の老人がいた。
老人は、アクディーヌを見ると驚いた表情で目を見開いた。
「あ、あなたはまさか……」
(あ、そうでした)
「ユウェシルから聞いたと思いますが、主人と話をするために来ました」
「……スイ……様?」
掠れた声で仮名を口にする青年に、アクディーヌは膝をついて微笑みながら頷いた。
すると、青年の薄茶色の目から大粒の涙が流れ泣き出し、彼は泣き始めた。
「まあ! どうして泣くのですか?」
「ごめんなさい……本当にロニー様に似ているので……」
「私が、妹ということはもう知っているのですね」
アクディーヌは、青年の背中を優しくさすりながら答えた。
ユウェシルが事前に話していたとは聞いていたが、まさか仮名まで伝えられていたとは思いもよらなかった。
きっと、貴族の青年とやり合う前に教えたのだろう。
「スイ様、大変お待ちしておりました」
老人は深々とお辞儀をする。
その様子を見て、アクディーヌは複雑な感情が湧き上がった。
本来なら、ここに来るべきは兄であるはずなのに、妹である自分が代わりに来ている。
泣きじゃくる青年を見て、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。
「ごめんなさいね、兄ではなく妹である私で」
「とんでもない! ロニー様からはスイ様のことをたくさんお聞かせいただいておりました。今回来ると知って、私めとフィンレー様は首を長くしてお待ちしておりました」
「スイ……様。僕、あなたとたくさん話がしたかったんです。ユウェシル殿からあなたが来ると知って……とても嬉しかった。ロニー様にも会いたいですけど、探さないでほしいと言われたので会えないんです」
「そうでしたか、自分勝手な兄でごめんなさい」
アクディーヌには、ただ謝ることしかできなかった。
兄が突然遊歴に出た理由も、彼女に水神という重責を押しつけた理由も、アクディーヌには未だに理解できなかった。
そして、病弱なフィンレーを残して兄が姿を消したこともまた、納得のいかない出来事だった。
「スイ……様、僕っ……!」
フィンレーは激しく咳き込む。
「フィンレー様!」
「今はあなたの体が大切ですよ。フィンレーくん」
「はい……」
アクディーヌは、フィンレーを抱えながら老人と共に部屋まで向かうこととなった。
◆◆◆
「これで少しは落ち着くでしょう」
「ありがとうございます、スイ様」
アクディーヌの癒しの力により、フィンレーは穏やかな顔で眠りについていた。彼のベッドの横には、カップに入った飲み物が心地よい香りを放っていた。
アクディーヌはその香りに思わず生唾を飲み込んだが、今は我慢すると心に決めた。
そう思いながら部屋を見回してみると、物が少なく殺風景のような部屋だった。
まるで、兄が本当にここに住んでいたのかと疑いたくなるほど寂しい屋敷だった。
「あの、お尋ねしても良いですか? えっと、なんとお呼びすれば?」
「私めのことは、アンソニーとお呼びください」
「分かりました、アンソニーさん。それで、一つ伺いたいのですがこの屋敷は何故こんなにも寂しいのですか?」
「それは、あの貴族のせいです。先ほどあの者が、ロニー様が残していった物などを御者を使って盗んでいったのです」
「御者……」
ユウェシルと見た馬車が頭をよぎった。
だが、御者の姿は見当たらない。
外にはユウェシルがいるから、あの少年のことは心配ないがこの屋敷の中には今のところ病弱なフィンレーと、老人のアンソニーしか見当たらない。
この二人の気配しか感じられないとすると、御者はどこに行った?
まぁ、なんとかなるだろう。
それにしても、外から変な音が聞こえるがアンソニーは気付いていないのだろうか。
それとも、人間の聴覚では感じ取れないものなのか。
「それは許されない行為ですね。今から、タコにして煮詰めましょうか?」
「た、タコですと!? 」
「それとも揚げます?」
冗談めかして言ったその時、窓を叩く音が聞こえた。
アンソニーは驚き、不審がるが、「すみませんスイ様、私です」という聞き覚えのある声が安堵させたのか、窓を開けた。
軽々と開かれた窓を跨ぎ部屋に入り込んできたのは、ユウェシルだった。
「ユウェシル、どうしてそこから入ってきたのですか?」
「あの貴族の御者と思われる者が二人隠れていたので、庭師に玄関の柱に縛り付けさせたのです。そのため、窓から入らせて頂きました。」
「こ、ここは三階ですぞ!?」
「それが何だ?」
こんなに自由な神官は、ユウェシルくらいだろう。そして、あの庭師の少年もなかなかやる。
あのスコップの使い方は、武器のように扱っていた。
下界は本当に面白い。
「ユウェシル、彼らは盗品とかを持っていたりしましたか?」
「盗品ですか? いいえ、そんなものは何も持っておりませんでした」
「なんですと!?」
アンソニーは白い髭を触りながらどうしたものか、と唸るように考え込む。
一方、ユウェシルは理解できなかったのか無表情かつ真面目な顔でアクディーヌに尋ねた。
「スイ様、盗品とはどういうことですか?」
「彼らは先ほど、この屋敷の物を盗んでいったそうなのです。けれど、彼らが持っていないとしたらおかしなことじゃありませんか?」
「既に馬車に乗せてきたのでは?」
「その可能性は低いと思います。私と庭師の少年は玄関近くや罠を作るために屋敷の入り口にいたのですし、私たちが気が付かないはずがありません。
「……確かにスイ様なら当然気付きますね。なら、盗品はどこに?」
一見意味が分からないように感じるが、答えは薄々分かっている。
いや、分かっていたとしても知らないふりをしておいたほうがいい。
必ずどこかで聞き耳を立てているはずだ。
けれど、それはもうじき無意味になる予感がする。
スコップを振り回すような風の音と、一心不乱に逃げるような足音が耳障りなほどに聞こえている。
これはもう、そろそろ終盤に差し掛かろうとしてると言っても過言ではない。
「その盗品のありかは、いずれ明らかになりそうですよ」
「それはどういう……」
言いかけてユウェシルは目を見開かせて、アクディーヌを見た。
アクディーヌは頷く。
さすがマグトルムに選ばれた神官なだけある。
すぐに察するとは。
「ユウェシル殿、スイ様。つまりどういうことですか?」
アクディーヌは笑顔を浮かべながら窓を指差す。
ユウェシルとアンソニーは振り返り、窓の外を覗いた。
「あらまぁ。つまり……こういうことです」
アクディーヌは微笑みながらユウェシルが入ってきた窓を指差す。
ユウェシルとアンソニーは後ろを振り向き窓の外を覗き始めた。
アクディーヌもまた、彼らの後ろから外を覗き込んだ。
「なんですと! もう一人いたとは!」
アンソニーは窓から身を乗り出し、外にいる人物を凝視した。
そこには、革袋に詰め込んだ物を運び込もうとする、いかにも盗人らしい男がいた。
そして、スコップを肩に掛けて走る見覚えのある少年が、男に向かって大声で叫んでいる。
「おい! 今すぐ屋敷の物を返せー!」
声の正体はあの庭師の少年だった。
今にも逃げ出しそうな男を、少年はスコップの柄で必死に押さえつけていた。
不思議とその光景に口角が上がってしまいそうになる。
ただの並外れた庭師かと思っていたが、ここまで度胸があるとはなんとも興味深い少年だ。
「スイ様、あの男を捕らえてきます」
ユウェシルはそう言うと、迷わず窓から飛び降りた。
アンソニーがその姿を見て目を丸くするのをよそに、アクディーヌは淡々としていた。
フィンレーがこの光景を見ていなくて良かった、とふと思う。
もし真似をして足でも折ったら、アンソニーに申し訳が立たない。
「ユウェシル殿は本当に凄いお方ですね。それにスイ様もなぜもう一人いるとお分かりに?」
「簡単なことです。痕跡を消し忘れていたんですよ、あの人たちは」
「痕跡とは……?」
「足跡です。御者の二人や貴族の方は気を使う必要がありませんが、今捕まろうとしている盗人は別の方向から来ていましたから、消さないとすぐにわかってしまいます」
「それで、判断したのですね!」
アンソニーは感嘆の声を上げたが、アクディーヌにはすでに飽きがきていた。
下界には興味を引くことがたくさんあるものの、こうしたあっけなく解決できてしまう事柄には、それほどの興味は湧かない
だが、下界で気配を消すこともなく真正面で人と話せることは嬉しいし楽しいものである。
それに、容姿を見ても何も思わないこの屋敷の者たちには、大変感謝しているしさすが兄が選んだ逸材だと改めて感心する。
それにしても、あの『残滓』が何故消滅しきれなかったのかは気になる。
ユウェシルがマグトルムに報告すると言っていたのに、その後どうなったのか。
アクディーヌは、いつになれば詳細がわかるのかと、少し焦れていた。
きっと、首を長くして待てということだろう。
「それにしてもアンソニーさん、ずっと気になっていたのだけど、彼のベッドの横に置かれている良い匂いをした飲み物はどこで手に入れたのですか? 品種は? 産地は?」
フィンレーが眠るベッドの横に置かれたカップを指差すアクディーヌに、アンソニーは苦笑いを浮かべた。
下界に何度も訪れているとはいえ、こんなに心地よい香りを放つ飲み物を嗅いだことはない。
アクディーヌは、ますます興味を持った。
「これは薬です、スイ様」
「薬……ですか?」
驚いた表情を浮かべたアクディーヌに、アンソニーは大きく頷いた。
本来、薬は苦いものだという認識があったアクディーヌにとって、この甘く心地よい香りの飲み物が薬だとは意外だった。
なんとも面白いことだ。
「フィンレー様は、苦いものがお嫌いで薬を飲むことを躊躇うのです。ですが、それを知ったロニー様がこの方法を教えていただいてから、飲むようになられたのでこうして苦さを消して甘くするようにしたのです」
「お兄様が? まぁ、確かに医術に長けているあのお兄様なら有り得なくもありませんが、よい方法ですね。試しに飲んでもいいですか?」
「え!? それは……な、なりません!」
「それは残念ですね〜」
アクディーヌは軽くため息をつきながら、カップをじっと見つめた。
その瞬間、外から盗人の叫び声が聞こえた。
「お、俺はあの貴族に命令されて盗んだだけだ! うぐぁ!」
アクディーヌは微笑を浮かべたまま、フィンレーの額に手を当てて熱を測った。
彼の熱は無事に下がっているようだ。
フィンレーは見た目からして十八歳くらいだろう。
この年頃なら、本来なら自分のやりたいことに打ち込んでいるはずだ。
だが、病弱な彼は、それすらもできないままでいる。
けれど、フィンレーの人生はこれからだ。
彼の病は、ちゃんとしに見せれば必ず完治することができる。
聖女など待っていたら死が近付くだけだ。
そもそも、聖女が現れていないのに待ったとしても何も意味が無い。
今でも彼の病を治してやりたいくらいだ。
いっそのこと神の法則など無視してやろうか、という衝動にアクディーヌは駆られた。
「安心して、あなたの人生は私が守ります。誰にも邪魔されることがないように」
そう言いながら、アクディーヌはユウェシルたちを待ちながら流れる雲を目で追った。