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61 夢の中の友

「ゴホッ!」


声とともに、アクディーヌの身体は膝から崩れ落ちた。

崩れ落ちるとともに、カツラが取れたのか淡く輝く長い水色の髪が頭から垂れる。

水面鏡の世界に広がる静寂を破り、鮮やかな赤が透明な水に滲んでいく。


口を押さえたアクディーヌの手の隙間から血がこぼれ落ちる。


「蘇生瓶を使っても、この有り様だなんて……。ふふ、本当に笑ってしまいます」


掠れた声で呟きながら、ふらつきながらもゆっくりと上体を起こそうとした。

たが、その瞳は赤く染まる水から離れない。


この空間が、誰も立ち入ることができない場所ではあるが、まさか純水な水を保っていたはずが、自らの血で汚すなんて想像がつかなかった。


アクディーヌは力尽きるようにその場に倒れ込んだ。

背中がひんやりとした水面に触れ、波紋が静かに広がる。


「……本当に、どうしようもないですね。神なんて肩書きだけの存在がこれだなんて」


視線を天に向けながら、薄く笑う。


「結局、『憧れ』というものを持ってしまったときから全てが……」


言葉を紡ぐ気力さえも失い、静かに目を閉じる。




◆◆◆




目を開けると、そこにはいつもの水面鏡の美しい光景が広がっていた。

空も地も全てが透明で、果てしない水面の中に立っている。


ふと、目の前から一つの気配を感じた。

目線をそこに向けると、一つの小さな水の球体が浮かんでいた。


「……?」


浮かび上がるその水の球体から、優しげな女性の声が響き渡る。


「やっとこちら側に来たな」


優しげな声は、耳ではなく心に直接届くような響きだった。

アクディーヌは驚きながらも、その水の球体を見つめた。

透明な球体の中には、小さな光が揺らめいている。


「あなたは……?」


問いかける声はかすれ、自分でも驚くほど弱々しかった。


「我は……我。ここに来たということは、今のあなたは限界に近いということだな」


その声に覚えがあるわけではなかったが、不思議と安心感があった。


「限界……?」


消え入りそうな声で問いかけると、球体はふわりと光を揺らしながら近づいてきた。

その中で揺れる光が、一瞬だけ強く輝いたように見えた。


「身体もボロボロのまま、血を吐きながらでも無茶をすると、あなた死ぬぞ」

「……やはり死に近付いていたのですね」

「そう。今のあなたの身体はもう限界に近い。無理を続ければ、戻ることすら叶わなくなる」

「戻るとは……?」

「現実世界にだ。今のあなたは、魂だけの存在だがその魂までもが侵食されている」


球体は一瞬静まり返り、その透明な中で光が小さく揺らめいた。


「我は、ずっとここで待っていたのだ。あなたがここに来ることを……いや、来るべき時を」


その言葉にアクディーヌは眉をひそめた。

今いる場所は、アクディーヌだけしか出入りすることができない水面鏡に似ている。

いや、そもそも同じ場所だ。

そんな場所が二つあるだなんて信じられない。


そう思いながらも、アクディーヌは口を開いた。


「待っていた……? 私がここに来ることをずっと待っていたのですか?」

「ああそうだ。あなたがきっと無茶をするだろうと思ってな」

「……まさか三千年も待っていたのですか……?」

「そうその三千年も待ったんだぞ? ここに居続けるのは、退屈で堪らなかったが、あなたが残滓を食べ始めたときは、目を疑ったぞ」


アクディーヌはその言葉に驚きながらも薄らと笑みを浮かべる。

三千年も待ち続けた者がいたと思うと、痛みを忘れてしまうほどにおかしなものだ。


「それで、残滓は美味しいのか?」

「美味しいどころか、私が食べた残滓は……ほぼ雑草でしたので、土と草の味しかしませんでしたね」

「ふふ、最悪だな。人間が残滓を食べたら恐らく死ぬだろうが、やはり我々のような存在には効かないのだな」

「もしかしたら、気付かないだけで何かしら影響を受けているのかもしれません……ゴホッ」

「……血を吐くくらいにか?」

「ふっ、どうでしょうね……」


アクディーヌはしゃがみ込み、血がついた手のひらを見つめる。

残滓は確かに結構な数を食べてきたが、今のところは何も影響していない。

もし影響していたのなら、突然始まった胸の痛みは大精霊の頃からなっていただろう。


すると、球体が近付きアクディーヌの口元に付いた血を消し去る。


「あなたがこのままここに留まっていればいいのだがな」

「それはまるで、死ねと言われているようですね」

「ふふ、そんなことはないぞ。あなたが死んでしまえば我は退屈すぎて、おかしくなる」


そう言いながら、球体はアクディーヌの周囲を回った。

その動きは、会った時よりもご機嫌の様子だった。

アクディーヌはそれを見て、自然と口角を上げる。


「……では私が死んでしまえば、永遠にここで球体さんとお話することになりますね?」

「ふふ、それもいいが人間になるという夢はどうなる?」

「……そこまで知っているのですね」

「あたりまえだろう、ずっと見てきたからな」


アクディーヌはその言葉に、顔を上げる。

この球体が何者なのかは分からないが、不思議と心が和らぐ。

警戒心もなければ、初めて会ったようにも思えない。


「……確かに人間には憧れていますが、なれるとは思ってはいないので死んでも悔いはありませんよ」

「まさか、あなたの口からそんな言葉が出るとはな。まぁ、確かに人間にはなれない。それも、神という運命を背負った者にはな」

「球体さんも人間になろうとしたのですか?」


その言葉に、球体は「さあな」と言いながらどこかへ向かっていく。

アクディーヌはしゃがみ込みながら、球体の行く先を見つめる。


(なんだか、寂しい)


そう思ってしまうくらいに、球体の後ろ姿は悲しみに包まれているように思えた。


すると、球体はその場で止まり「アクディーヌ」と声を上げた。

その言葉に、首を傾げるアクディーヌに水面鏡で広がる空間から突如、青く輝く魔法の粒子が溢れかえった。

その光景にアクディーヌが目を見開くと、球体を取り囲むほどに粒子が集まっていた。


やがて、球体は粒子に飲み込まれ瞬きをしたほんの束の間、人型へと変化していた。

だが、身体は粒子のままであり容姿は分からないままだった。


アクディーヌが声を開けずに驚いていると、球体であった彼女はこちらに近付き、未だにしゃがみ込んだままのアクディーヌを見下ろした。


「アクディーヌ、何故突然魔神が現れたと思う?」

「……え?」

「今まで、あの全知全能の神すら存在を忘れかけてしまうほどに現れなかった魔神が、他の誰でもなくあなたの目の前に現れたのが気にはならないか?」

「……偶然、私の目の前に現れたのかと思っていましたが、そうではないのですか?」

「ふふ、やはり分からないか。うん、まだ言わないでおこう。むしろ、自ら答えを探し出せ」

「は? え……?」


困惑するアクディーヌに、彼女は手を差し伸べた。

表情が読み取れないが、笑っているようにも思えた。

恐る恐る手を取ると、彼女はアクディーヌを引き寄せ抱きしめた。


「……!」

「ここで会えた縁だ、我の残った力を分け与えよう。ほんの少しだけだがな。全て分けてしまったら我がここであなたを観ることができなくなってしまう」

「そんな……僅かな力しかないのなら余計に受け取れません」

「いいから受け取れ。受け取ってもらわなければ我は悲しくて泣いてしまいそうだ。それに、我の力ならば胸の痛みも血を吐くことも抑えられる」


そんな彼女の言葉に、抵抗するアクディーヌに突如身体の中に暖かな力を感じた。

胸の痛みも、身体の重みも何もかも綺麗さっぱり消え去っていた。

驚いて顔を上げると、彼女はアクディーヌから離れ背中を向けた。


「これで我々は一心同体になったな」

「え? 一心同体?」


彼女は顔だけをアクディーヌのほうに向けて、片方の手を頭にやり、表情は分からないがまるで舌を出して「やっちゃった」と言わんばかりにこちら見ていた。

アクディーヌは、顔を青ざめ身震いをする。


「な、なんてことをしてくれたのですか!」


そう言って、立ち上がり彼女に向かって走り出す。


「ふふ、いいではないか! これで、ここでなくともあちらの世界で話すことができるようになったのだ。喜べ」


アクディーヌから逃げながら、声を上げる彼女は物凄い速さで逃げ出した。

そんな彼女に負けじと、一定の速さで追うアクディーヌは口を開く。


「喜ぶわけないでしょう! あなたと一心同体になったら、頭の中からあなたの質問攻めで苦しむはずですからね!」

「それは安心しろ。今の時代のことは、あなたを観ていたから十分熟知している。それに、あなたに懐いているギルベルト? と言ったか、あの人間は実に面白い存在だな」

「ギルに手を出したら、力を返しますからね?」

「ふふ、大丈夫だ。我はあなたしか興味はないからな」


その言葉に、アクディーヌは嫌な顔をする。

それを見た彼女は、声を上げて笑いだした。


「ははは、そんな顔をするな。身体がマシになってから随分とあなたらしくなったではないか。あの全知全能の神とあなたの兄を見るような目と接し方で、我と関わってくれればなおさら嬉しいものだ」

「……球体さんって、変態って言われません?」

「変態……とはなんだ? 確かに今の我は本来の姿とは違うが……」

「……もういいです。それで、私はいつ現実世界に戻れるのですか?」

「もう戻ってしまうのか? それは悲しいな」


そろそろ、屋敷に戻らなければ暗示が解けたギルたちが不思議に思って探すに違いない。

屋敷にいなければ、ユウェシルはともかくギルはまた大量の涙を流しながら、探し回るだろう。

それは、良心が痛む。


「もう一心同体になってしまったのですから、あちらでも話せるでしょう……」

「まあ、それもそうだな。あ、そうだ。あなたに頼みたいことがあるのだが」

「嫌な予感しかしないですね」

「断ってくれても構わないぞ?」

「……内容によります」

「ふふ、そうか。あなたに頼みたいことはな、我にあなたの身体を貸してはくれないか? もちろん今ではなくていい」


アクディーヌはその言葉に、目を見開く。

確かに一心同体となったとはいえ、身体までも共有することができるだなんて、思いもよらなかった。

もし、彼女が身体を借りたらきっと『スイ』でも『アクディーヌ』にもならないだろう。

だが、変装をして演技をするなら有利だ。


そう思いながら、アクディーヌは微笑む。


「構いませんよ」

「本当か? やはり持つべきものは友だな!」

「友って……。ただし、いきなり身体を借りるようなことはしないでくださいね」

「もちろんだ。よし、許可も貰ったしあなたを現実世界に戻そう」


そう言って、彼女は自身に纏っていた粒子をアクディーヌのもとへ引き寄せ、包み込んだ。

やがて、彼女は球体に戻っていた。


(そういえば、球体さんの名前を聞いていませんでしたね)


アクディーヌは、そう思いながら口を開く。


「球体さん、戻る前に名前を教えてくれませんか?」

「……そうだったな。我の名は『ニヒル』とでも言っておこう」

「はっきりしませんね」

「まあ気にするな。さあ、そろそろ戻ったほうがいいな。あちら側の時間軸では三日も経っていることだろう」

「み、三日!?」

「あなたは今頃、暗示が解けたギルベルトたちが探し回り、あの頑固者のユウェシルも慌ててあなたを探して――」

「それを早く言ってください!」


その言葉と同時に粒子によって包まれ、消える寸前に球体は「言ったらあなたはすぐに帰りたがるからな」という声が微かに聞こえ、アクディーヌは瞬時に眠気に襲われるのだった。

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