6 大神官の心配事
天界の中央、聖塔の中階で現水神であるアクディーヌの分身を見張るムーソピアは、遠い目をしていた。
「ムーソピア、姉さんが心配なのかい?」
書類に手をつけながら分身は尋ねた。
ムーソピアは、アクディーヌが再び下界に行ってから上の空だった。
ムーソピアにとって、アクディーヌはただの上司ではなかった。
手がかかる厄介な存在でありながら、どこか放っておけない、そんな不思議な存在だった。
彼女が水神になってから、もう百年が過ぎた。
しかしその間、アクディーヌは何度も下界へと足を運び、天界での務めを放り出すことがあった。
ムーソピアはそのたびにアクディーヌの行動を見張り、またか、という思いを抱いていた。
三百年もの間、大神官として五神を補佐してきたムーソピアにとって、百年前に突然水神となった彼女は、今まで出会ったどの神よりも手がかかる存在だった。
しかし、彼女が厄介者であるだけではないことをムーソピアは知っていた。
かつてアクディーヌが水の大精霊として、自由奔放に振る舞っていた頃のことを思い出す。
兄である先代水神のもとを毎日のように訪れ、下界の話を嬉々として語っていた。
しかし、いざ水神の座に就いた彼女は、心優しく穏やかな神として、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせるようになった。
だがムーソピアは、初めてアクディーヌに会ったときのことを忘れられずにいた。
あの時の彼女の悲しそうな顔。
それは、まるで誰にも頼ることができず、孤独に押しつぶされそうな姿だった。
今、アクディーヌが見せる笑顔や優しい微笑みが、どこか嘘くさく思えてしまうのもそのせいかもしれない。
「あのお方がきちんと仕事をしているか、心配なだけです」
ムーソピアは、眼鏡の位置を正しながら書類に目をやる。
「姉さんなら大丈夫だよ。分身の身だから言えることだけど、姉さんは今、退屈そうにしているよ」
「退屈……? それは仕事をしていないとみなしてよいのでしょうか。分身様」
「分からないかい? 退屈だということは、仕事をしているということだよ。それに、君は知らないだろうけど姉さんはサボりながら仕事をしているんだ」
「は?」
その言葉に、ムーソピアは少し驚きを感じた。
アクディーヌはただ下界に逃げ込んでいるのではなく、心のどこかで天界のことを気にかけていたのだろうか。
全ての知識を掘り下げても、理解ができない。
神のやり方は、神にしか理解できないことなのか。
「僕は、姉さんに作られて間もない分身だけど、昔、姉さんが作ってすぐ壊れた他の分身の記憶も引き継がれてるんだ。下界に行くときの姉さんは、遊びに行っているように見えるけど、実は物凄く天界のことを考えてる。例えば、この書類に書かれている問題をどのように解決するか、とかね」
分身は、先ほど手につけていた『神官労働時間削減案』と書かれた書類に押印し、山となった書類の山の上に置いた。
「……あのお方は、水神という地位から逃げ出したいのかと思っていました」
彼女にとって下界に行くことが、唯一の安らぎだとするなら無理に止めたりなどしない。
だが、先代水神と全知全能の神が天界からいなくなってから、天界の中央は神官だけでは維持できない。
彼女は一度か二度、下界に行く前に『分身』を作っていたがほとんどに欠陥があり、すぐに壊れてしまったのだ。
本来ならそういったことは滅多にないはずなのだが、今回の目の前にいる『分身』は大丈夫だろうか。
ムーソピアは『分身』を盗み見た。
「多分、それは思っていると思うよ。だって、いきなり水神になったんだから誰だって逃げだしたくなる」
そう言う分身は、自身の指を弄りながら笑う。
「でもさ、姉さんは辞めたいなんて言ったことはないだろう? もちろん、神というのは簡単に辞められるものではないと思うけど、姉さんなりに努力はしてるんだ。だから、ムーソピアもそんな怖い顔はしない」
「普段からこんな顔です。ですが、分身様のおかげでアクディーヌ様のことが少し分かった気がします」
「それは良かった」
ムーソピアは、その言葉に少し心が軽くなるのを感じた。
彼女は常にアクディーヌを見張り、心配していたが、もしかしたら自分の知らないところでアクディーヌは自分の役割に向き合い、努力しているのかもしれない。
ふと、無表情の神官であるユウェシルが頭の中に浮かんだ。
それと同時に、今までの心配事が少しずつ減っていくかのように胸のつかえが取れたような気がした。
「彼が一緒なら、大丈夫そうですね」
ムーソピアは、書類の山を魔力で浮かせながら聖塔を後にする。その足取りは、いつもより少しだけ軽やかだった。