52 二つの顔
雷雲騒動から下界にある屋敷に滞在することになって、五日目のこと。
アクディーヌは、ソファに座りアンソニーが入れた紅茶を優雅に飲む。
その隣で、ギルはアクディーヌに寄りかかりながら居眠りをしていた。
三時間もぶっとうしで、庭で作業をしていたのだからそれは疲れるに決まっている。
マグトルムから『勇者育成』を頼まれてから、五日も経つが、今のところフィンレーはユウェシルによって筋肉がつき始めていた。
しかし、それはほんの少しだけだが。
「それにしても、ユウェシル殿は本当に強いですな。この私めでも敵いません。ほっほっほ」
アンソニーは、外を眺めながら口を開いた。
「ふふ、確かにユウェシルは強いです。あの、『鬼畜訓練』を生き延びた強者ですからね」
「『鬼畜訓練』とは?」
「簡単に言うと……大変偉い方の攻撃を避け続けるだけの簡単な訓練です」
「ほっほっほ、それだけなら私めでもできそうですな!ただ避ければいいんですから」
アクディーヌは微笑を浮かべながら、さらに説明を続けた。
「でも、一回でも攻撃を受けたら即失格で、その職も辞めさせられます」
「し、失格……!? そんな命懸けの訓練なんですか!?」
「ふふ、そうです。まぁ最悪な攻撃ですからね……避けるのは、まぁ無理です。だからほとんどの方が三秒で終わるんですよ」
「さん……三秒!?」
「ええ、三秒。最短記録は一秒です」
アンソニーは、驚いた顔をして肩をすくめていた。
「ほっほっほ、それはもはや訓練ではなく、処刑ですな……それをユウェシル殿は生き延びたと……」
「ふふ、今のところユウェシル含めた四名が生き残ってますね〜」
「これはまた……」
「私も試しにやってみたのですけど、お兄様に止められて最後までできませんでした……」
アクディーヌはアクディーヌは少し肩をすぼめ、控えめに微笑んだ。
「お兄様が『妹が地面にめり込んだら困る』って言って、無理やり引き離したんですよ。でも、アンソニーさんはやらないほうがいいですね」
「ほっほっほ、それはやりたくはありませんなぁ」
「ですが、安心してください。さすがに禁止されました」
「それはそれは、これで犠牲者は減りますな!」
「ふふ、そうですね」
アンソニーとアクディーヌが笑い合っていると、隣で寄りかかりながら眠っていたギルが突然、ソファからずり落ちた。
「うわっ! って……なんだ夢か」
ギルは寝ぼけ眼で周囲を見回しながら、もぞもぞと床で起き上がろうとした。
「ギル、なんの夢を見てたんです?」
アクディーヌが微笑みながら尋ねる。
「なんでもないよ! ただ、あの仏頂面雑草男が僕を引きずり回すから、驚いただけ……。もうあんな夢は見たくないよ」
ギルは焦りながら立ち上がり、髪をかき上げた。
「仏頂面雑草男……? それってもしかしてユウェシルのことですか?」
「うん、そうだよ」
「ユウェシルが聞いたら、引きずり回されそうですね! ふふ、それにしても斬新な名前ですね〜」
その瞬間、部屋の扉が勢いよく開かれ、白のシャツを着たユウェシルが姿を現した。
そして、「おい、庭師、今なんて言った?」と鋭い声で問いかけた。
その後ろには、稽古を終えたであろうフィンレーが、ユウェシルと同じように白のシャツを着ながら疲れ果てた様子で俯いていた。
ギルは一瞬目を見開きながらも、腕を組み口を開いた。
「べ、別に? それよりも、この部屋が汗臭くなるから体綺麗になってから来てくれないかなぁ?」
すると、ユウェシルの後ろにいたフィンレーが一瞬だけアクディーヌを見たあと、シャツの匂いを嗅ぎ始めた。
それに気が付いたギルは、またもや慌てた様子で「主人は全然問題ないよ!」と言って、フィンレーの行動を止めようとした。
「で、でも汗が染み込んじゃってるから僕、体洗ってくるね」
「フィンレー様、私めがお手伝いいたします。ユウェシル殿も、よろしければご一緒に」
「………スイ様」
「ふふ、行ってらっしゃい」
アクディーヌの言葉に、ユウェシルは頷きながらギルを睨みつけたあと、アンソニーたちと共にお風呂場へ向かっていった。
「ギルも行ったらどうですか? 庭作業から戻ってきたばかりでしょう?」
「え! 僕は全然大丈夫だよ! それに、汗かいてないし!」
「そうですか? 私は少しだけギルのお手伝いをしたので、体が汚れているかもしれません。今はユウェシルたちが入ってますからこの後入ろうかと」
「え、スイも入るの? それに、スイ全然汚くないし臭くもないよ!」
「それでも入りたいんです。あ、ギル。一緒に入ります?」
アクディーヌが平然とそう言うと、ギルは一瞬、目を丸くして固まった。
頬を少し赤くしながら、視線を逸らすようにして手を振った。
「え、えぇ!? い、一緒に? いやいや、僕は本当に大丈夫だから! 汗もほとんどかいてないし!」
「そうですか? ギルが一緒だと楽しいと思ったのに」
「もしかして、僕のこと子ども扱いしてるでしょ? 僕、子どもじゃないから!」
「子ども扱いなんてしてませんよ〜! 確かに可愛いですけど」
「か、可愛いって言うな!」
ギルは少し照れたように目を逸らしつつも、腕を組んでふんっと小さく息を吐いた。
「べ、別に……一緒に入るのが恥ずかしいとかじゃないんだから!」
「ふふ、冗談ですよ。では、私はユウェシルたちが上がったらお風呂を使わせてもらいますね!」
「僕は夜に入るから、ゆっくりでいいよ! スイってば、今まで魔法で体を洗ってたなんて信じられない!」
「だって、お風呂に入ってると時間がもったいないじゃないですか。それに、魔法のほうが早く終わりますし便利ですよ?」
「それはそうだけど……というか、僕そんな魔法使えないし! お風呂に入ったほうが体温まるよ!」
「それもそうなのですが、これが定着してしまって……。この屋敷に来るようになってから、お風呂に入るのは本当に新鮮です」
天界にもお風呂はあるが、基本あまり使っていなかった。
薬を研究するために部屋に引きこもったり、マグトルムや兄の目を盗んで夜にひっそりと下界に行っていたのだ。
お風呂になど入っていれば、眠くなってしまいお湯の中でそのまま寝てしまったということもある。
お風呂は危険だ。
だが、下界に滞在するようになってから、時間に追われることもなくマグトルムや兄の目を盗んで、行動することもなくなった。
それから、忙しさにかまけて入らなかったお風呂を改めて楽しむことも悪くないかもしれないと考え始めていた。
しかし、やはりお風呂は眠くなる。
すると、部屋の扉が開かれさっぱりしたユウェシルたちが入ってきた。
「ただいま戻りました、スイ様」
「おかえりなさい、フィンレーくんとユウェシルさっぱりしたようですね」
「はい! もうこれで匂いません!」
「ふふ、それは良かったです。では私も入りましょうかね」
アクディーヌの言葉に、ユウェシルは目を見開き口を開いた。
「スイ様も入られるのですか? 綺麗ではないですか」
アクディーヌはユウェシルの言葉に微笑み、軽く首を傾げた。
「でも、入りたいんです。ここのお風呂が気に入っちゃって」
「……くれぐれものぼせないでください」
「ええ、もちろん」
「スイ様! 僕、ここで待っているのでまた話しましょうね!」
フィンレーの言葉にアクディーヌは優しく頷き、穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろんです、待っててくださいね」
フィンレーは嬉しそうに頷きながら、部屋のソファに腰を下ろした。
その一方で、ユウェシルはアクディーヌを気遣うように静かに目を細め、さりげなく彼女が浴室に向かうのを見送った。
浴室へ向かうために、部屋を出るアクディーヌは「ふふ、お兄様のお気に入りのお風呂を独占できるだなんて最高ですね」と呟きながら部屋を出た。
◆◆◆
浴室に入り、少し蒸気のこもった温かい空気に包まれると、アクディーヌはゆっくりと息を吐き、肩の力を抜いた。
長く降り積もった疲れが、湯気に溶け込むように感じられる。
彼女はそっと指先を湯に触れ、そこに移る自分の顔を見つめた。
「今の自分は、人間らしく見えてるかしら……」
そう呟きながら、指先を湯の中に沈め、そっと手のひらで湯をすくい上げる。
しかし、そこに映るのは群青色に変えていた瞳が徐々にオパール色に戻る自身の瞳と、色を抑えていた髪の色が透明な水色の髪に戻っていくのが映っていた。
アクディーヌは思わず息を呑んだ。
湯の中に映る自分の姿は、まるで人間の形をした幻影のようだった。
「人間らしい姿を求めていたのに、結局は水神になってしまうんですね」
アクディーヌは苦笑いを浮かべながら悲しい顔をする。
湯の中で揺らめく自分の姿は、求めるものとは程遠い。
手にする力も、鬱陶しいと思うほどのこの姿も、人間とは異なる知識も、その全てが『水神』として自覚させられる。
アクディーヌは、湯の中で揺らめく自分の姿を見つめ続けた。
自分が求めていた『人間らしさ』とは、遥かにかけ離れていた。
「結局、大精霊の頃から何も変わっていないんですね。力も、知識も、この姿も……。お兄様とマグトルム様の見た目が変わらないのと同じで、徐々に自分が分からなくなってくる……」
湯の中でそっと手を握り、指先に力を込める。
人間の形を纏っていながらも、結局は人に化けた魔物と同じだ。
今の自分は『スイ』という一つの仮面を持ちながらも、その裏には『アクディーヌ』というもう一つの仮面を持っている。
『スイ』はいくらでも外れるけれど、『アクディーヌ』は二度と外れることもなく、呪いのようにこびりついている。
アクディーヌはそんなことを思いながら小さく笑い、外を眺める。
眺めているうちに、ふととある人間を思い出す。
今にも倒れそうな細い体で、それでも懸命に街中を歩く姿が、なぜか気になって仕方がなかった。
最初はおずおずとした態度の少年だったが、少しずつアクディーヌに心を開き、側にいることが当たり前のように常に後ろについてきていた。
「あの子に、魔法ではなくお風呂で綺麗にしたほうが良かったかもしれませんね。惜しいことをしました」
アクディーヌは静かに笑いながら、あの時のことを思い出した。
いつも魔法で手早く済ませてしまっていたが、少年が楽しそうに湯気に包まれ、暖かな湯に浸かる姿を見せていたら、彼の楽しそうな表情がもっと見られたかもしれない、と少し後悔の念も湧いた。
湯の中で記憶を蘇らせながら、アクディーヌは湯の縁に肘をつきながら記憶を辿る。
あの少年が、少し不安そうにこちらを見上げては、結局無邪気に微笑んでいたあの瞬間が今も心に残っていた。
「はぁ、本当に可愛かったです。あの子が騎士になったときは嬉しくて涙が出そうになりました。これが、母の気持ちなのでしょうか」
だが、四神たちも神に引き継ぐまで育てたが、不思議と母性はなくむしろ、弟妹のような感覚だった。
そもそも、彼らの先代たちは自分勝手すぎるのだ。
四神たちに名だけを与えて、姿を消すとは。
アクディーヌはそんなことを思いながら、立ち上がる。
「こんなことを考えても仕方がありません。そろそろ上がりましょう」
立ち上がるのと同時に、髪と瞳はいつも通りの『スイ』へと戻っていった。




