51 時の歯車は動きだす
「ん〜、下界はやっぱりいいですね〜」
アクディーヌは体を伸ばし、息を大きく吸い込んだ。
爽やかな風が髪を優しく揺らし、目の前に広がる景色は、天界では感じられない命の色で満ち溢れていた。
いつものように、瞳を兄と同じ群青色に変え、髪の色も一応最小限に抑えたアクディーヌはふと、横から気配を感じとる。
「それで、どうしてユウェシルがいるの!」
アクディーヌが驚いて声を上げると、すぐ隣にユウェシルが立っていた。
いつの間にか、当然のようにアクディーヌのすぐ横に佇んでいる。
彼は、いつものように無表情で仏頂面をしていた。
「……マグトルム様の命です」
ユウェシルは短く答えたが、まるでそこにいるのが当然だと言わんばかりの態度だった。
アクディーヌは一瞬、言葉を失ったものの、彼の寡黙な性格を思い出して肩をすくめた。
「……まぁいいですけど。でも、ユウェシル? あなたがマグトルム様の命で私と一緒にいることになったのなら、屋敷で当分の間滞在することになるのですよ? 大丈夫ですか?」
「はい」
「……即答なんですね」
アクディーヌは少し呆れながら、ユウェシルの返答に肩をすくめた。
彼女は周囲を見渡しながら、楽しそうに鼻歌を歌い始めた。
ユウェシルはその様子を横目で見つめるが、相変わらず表情ひとつ変えない。
「さてと、ユウェシル、屋敷に行きましょうか」
「はい」
そう言って、のんびりと徒歩で歩きながら屋敷に続く道を歩く。
アクディーヌはゆっくりと足を進め、周りの景色を楽しむように目を細めた。
柔らかい風が通り抜け、草木が軽やかに揺れていた。
ユウェシルはその隣で静かに歩いているが、どこか無言の圧力が漂っている。
「ねぇ、ユウェシル。どうせなら少し話しませんか?」
「……分かりました」
「ユウェシル、マグトルム様はどうして私に下界に行って勇者を育成させることを許したと思います? あんなに、下界に行くことに反対してたのに」
ユウェシルは少し考えるように目を伏せた後、静かに口を開いた。
「恐らく、マグトルム様も下界の状況が思った以上に悪化していることを認識したからではないでしょうか。勇者の力が必要になるほどに。それに、あの魔神のこともあると思います」
「なるほど。勇者の存在をユウェシルはともかくお兄様と私しか存在を知られていないのなら、頼れるのは私しかいないということですね」
「はい」
「そういうことなら、仕方がありませんね。でも、下界に滞在できるなんて、夢でも見てるんじゃないかくらいに嬉しいものです!」
ユウェシルはそんなアクディーヌにため息をつきながら、歩みを進めた。
やがて、歩き続けると屋敷が見えてきた。
◆◆◆
「はぁ、やっぱりこの屋敷広すぎて庭の手入れが大変だ……。スイがいれば、きっと毎日楽しいだろうなぁ」
庭師の少年、ギルは額の汗を拭いながら、広大な庭を見渡して嘆いた。
広い敷地には色とりどりの花々が咲き誇り、整えられた木々が風に揺れている。
しかし、その美しさを保つためには、毎日の手入れが欠かせない。
あの謎の雑草がなくなってから、周りの植物が生き生きと元気を取り戻している気がした。
「スイ……元気にしてるかな」
ギルは手にした剪定バサミを見つめながら、呟いた。
彼女がいた時間は、庭がまるで生きているかのように感じられた。
短い間ではあったが、あれほどにも楽しいと感じたことはなかったくらいに、彼女がいないのは寂しい。
「また来てくれないかな……」
ギルは小さく呟きながら、立ち上がる。
すると、屋敷の玄関から、馴染みのある声がした。
「おーい! ギルー! そろそろ、休憩にしよう!」
その声はこの屋敷の主人であるフィンレーだった。
フィンレーは、スイや勇者の力によって持病が治り、笑顔も増えた。
彼は明るい笑顔を浮かべながら、ギルの方へと駆け寄ってくる。
「ギル、お疲れ様。こんなに広い庭をいつも手入れしてくれてありがとう」
「いいんだよ、主人。それに、もしロニー様やスイが帰ってきたら喜んでくれるでしょ?」
ギルは恥ずかしそうに笑いながら答える。
フィンレーはその言葉に頷き、庭を見渡しながら続けた。
「ふふ、そうだね。特にロニー様は屋敷の装飾よりも庭にこだわってたからね。ギルが庭師として来てから、ロニー様はこの庭を凄く気に入ってくれてたもんね。それに、スイ様は花を植えるのがとてもお上手だったし、また一緒に花を植えたりできれば楽しいだろうね」
「うん、あの二人がまた帰ってきてくれればどれだけ嬉しいことか……」
「ロニー様は分からないけど、スイ様はロニー様よりも変わったお方だから、ある日突然ころっと帰ってきてくれるかもね」
「へへ、そうだといいな」
「さぁ、ギル。屋敷に戻ってお茶でもしよう?」
「うん!」
ギルとフィンレーは、お互い会話をしながら屋敷へと戻っていった。
◆◆◆
屋敷にたどり着いたアクディーヌとユウェシルは、屋敷を見上げる。
「ふふ、またギルたちに会えるんですね。楽しみです」
「……良かったですね」
「はい! では行きましょう!」
アクディーヌは屋敷の方へと歩みを進めた。
ユウェシルもその後ろに続いた。
彼らと会う日が、遠い日になるだろうと思っていたことが、まさかこんなにも早く再開することになるとは思ってもいなかった。
あまりにも、都合が良くマグトルムを不審に思ってしまうが、その都合の良さを利用して彼らと会えるのだからむしろ感謝しなければ。
マグトルムが何を考えているのかは知らないが、少なくとも自分の願いは叶えられている。
それだけで十分だと、アクディーヌは自分に言い聞かせた。
やがて、屋敷の玄関まで到着すると、ふとアクディーヌの目には一つの花壇が映る。
「ユウェシル、先に行っててください。少し、これを見てから行きますね」
「分かりました」
アクディーヌは花壇の前にしゃがみ込み、指で軽く土に触れた。
もともとは残滓もどきの雑草だらけだった場所に、今では色とりどりの花が咲き誇っていた。
スイとしてこの屋敷に来たとき、マグトルムと兄によって植えられた残滓もどきの雑草だとも知らずに抜いて、ギルに心配させられたことを思い出す。
彼女は柔らかい微笑みを浮かべ、そっと花に触れた。
「ふふ、まさかこの私が騙されるなんて思いもしませんでしたが、綺麗な花たちですね」
フェリクスのように花には詳しくはないが、下界で多く見られる花が花壇に植えられていた。
ギルは花を植えるのが得意なようだ。
アクディーヌは花に触れながら、ふと静かな屋敷の空気を感じ取っていた。
その時、屋敷の玄関からドタバタと慌ただしい足音が響いてきた。
アクディーヌが振り返る間もなく、玄関の扉が勢いよく開き、ギルの声が飛び出した。
「スイ!?」
ギルは驚きと喜びが入り混じった表情で、花壇の前に立つアクディーヌを見つめていた。
彼の目は信じられないというように大きく見開かれていた。
アクディーヌは、驚いたギルを見て柔らかく微笑みながらゆっくりと立ち上がり、風に吹かれた髪を押さえながら口を開いた。
「ふふ、また会いましたね。ギル」
その一言に、ギルの表情が一瞬で緩み、大粒の涙を流した。
「スイの馬鹿! どれだけ心配したと思ってるの!」
「……あなたが心配してくれてること、遠くの方からでも伝わりましたよ。あの雷雨の中、本当に無事で良かったです」
「……! やっぱりあの声ってスイだったの?」
「……はて、なんのことでしょう?」
アクディーヌが微笑むと、ギルは顔を輝かせて抱きついた。
「スイ、本当に戻ってきてくれてありがとう……!」
彼の声は震えていたが、顔を覗くと微笑んでいた。
アクディーヌはそっとギルの背中を撫でながら、優しく囁いた。
「やっぱり、ここが一番でしたから」
アクディーヌがそう言うと、「スイ様!」と聞き覚えのある声がして、振り返るとそこにはフィンレーが立っていた。
彼も驚いた表情で、急いで駆け寄ってくる。
その後ろで、アンソニーとユウェシルも歩いてきてきた。
「まさか、スイ様がお戻りになるとは思いませんでした。仕事は終わったのですか?」
「実は―――」
ふと、アクディーヌは口を閉ざす。
ここで、『上から勇者を鍛えろと命じられた』と言ったところでフィンレーは混乱するに違いない。
ここは、彼らの元主人である兄の仮名を使ってここに戻ってきたことにしよう。
「実は、お兄様から休暇を取れ、と言われまして休むならここを使うようにとのことなので、戻ってきちゃいました」
「おお、ロニー様からとは! なんと、嬉しきことやら……」
アンソニーはハンカチで涙を拭きながら、口を開いた。
「ロニー様はよっぽどスイ様のことを大切になさっているのですね」
「どうでしょう? お兄様はいつも何を考えているのか分かりませんから」
「それなら、ユウェシルも同じだよね!」
ギルがそう言うと、ユウェシルはギルを睨みつけた。
「おい、庭師。土に埋められたいか?」
「ふん、埋められるものなら埋めてみなよ」
「はいはい、二人とも喧嘩しない。それよりも、アンソニーさん。この前飲んだ紅茶をもう一度飲みたいのですが、いいですか?」
「ほっほっほ、もちろんです。ご用意いたしますね」
「ありがとうございます、アンソニーさん」
アンソニーは嬉しそうに、屋敷の中へと戻っていった。
「さて、皆さんも屋敷に入りましょうか?」
アクディーヌの言葉に、皆は頷きながら屋敷の中へと足を運んだ。
屋敷の中へ足を踏み入れる途中、再び風が拭きアクディーヌの髪を揺らした。
それと同時に、どこからか視線を感じアクディーヌは遠くの方に視線を移した。
「スイ? どうかした?」
すると、ギルの声がしてアクディーヌは首を横に振りながら「なんでもありません」と言って、屋敷の方へと足を運んだのだった。
◆◆◆
屋敷に植えられている大きな木の上に腰をかけ、二つの影が屋敷を見下ろしていた。
「本当にいいのかい? 下界に滞在させても」
一人の影が、微笑ましそうにとある人物を見つめながら口を開いた。
「構わん。貴様の妹は何かと我のように計算高い。それに、あの者は銀の魔神と対等だと分かった。ならば、これから下界に何が起きたとしても、あの者なら対処できるだろう」
木の葉が揺れる中、枝の陰に隠れたその人物の顔はほとんど見えなかった。
しかし、鋭い視線だけは冷徹にとある人物を見据えていた。
闇に浮かび上がるその瞳は、まるで銀河の渦が輝くように神秘的で美しかった。
「まぁ、僕の妹だから当然のことだけど、君は下界がどうなろうと関係ないんじゃなかったのかい?」
「……それは昔の話だ。この世界を大切にしなければあの者に叱責を喰らう」
「それは、君が封印した古代の神のことかい?」
「……あぁ」
「ふふ、君は本当に変わったね。変わりすぎて、僕は君が本当に全知全能の神なのか、と疑ってしまうよ」
銀河のように輝く瞳を持つ人物は、少しだけ視線を外し、遠くを見つめる。
「時代が変われば、考え方も変わる。それに……あの者は今でも我を見ている。いくら封印したとしても、いずれは自ら抜け出し、我を殺しに来るだろう」
「でも、君は戦いたくはないんだろう? 僕という神に唯一、妹がいるように、君にとってその古代の神は唯一の家族なのだから」
その問いかけに、銀河の瞳を持つ人物はしばらく黙り込んだ。
風が再び木の葉を揺らし、静寂が二人の間を包み込む。
「我には、家族と呼ぶ筋合いはもうない。あれほど、あの者を傷付けてしまったのだから」
「……僕の遊歴についてきたのは、古代の神のために下界のことをもっと知ろうとしてたからだよね。君にとってそれが唯一できることであり、贖罪でもある。そうだよね?」
その言葉に、銀河の瞳を持つ人物は静かに頷いた。
「そうだ……我にはあまりにもあの者が最も大切にしていた人間を蔑ろにしてきた。それが、あの者に怒りを買ってしまったのだ。それゆえに、下界で人間たちのことを知ることで、あの者の想いを理解したいのだ」
「それが君の贖罪なら、あの古代の神は果たして許してくれるのかの問題だね」
「……それでも、我にはこれしかない」
銀河の瞳を持つ人物はゆっくりと立ち上がり、視線を空に向けた。
「運命とは、そう簡単に抗えるものではない。だが……それが今の我の選んだ答えだ。あの者のためにな」
そう言い終えると、彼は一瞬だけ屋敷にいるとある人物を見つめたあと、静かに姿を消していった。
そんな彼に、もう一つの影は軽く息をつきながら、静かに呟いた。
「抗えない運命ね……でも、君がそう選んだのなら、とことん付き合うよ。マグ」
風がさらに強く吹き、木々の葉がざわめく中、その場にはもう誰もいなかった。
彼らが去った後には、ただ静寂と揺れる木々の音だけが残っていた。
微かに聞こえてくるのは、屋敷の中で楽しげに交わされる談笑の声だけだった。
一章・[完]
これにて一章終了でございます。
本来なら、50話ピッタリでこの章を終わらせようと思ったのですが、無理でした。
二章、行きます。




