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1 水神の帰還

天界と下界が戦火を交え、激しい争いが繰り広げられていたおよそ三千年前の朝。

ある少女が清らかな水の泡から誕生した。

その少女の名はアクディーヌ。

彼女は、戦いに疲弊した世界に一瞬にして平和をもたらし、戦争を終結させた。

彼女は水を司る大精霊として誕生し、その美貌と穏やかな性格で多くの神々と人々に慕われていた。

しかし、アクディーヌは人間に対する憧れを抱き続け、神々はその思いに頭を悩ませた。




◆◆◆




「アクディーヌ様! どちらにいらっしゃいますか!」


下界から戻った後、アクディーヌは聖塔の柱の陰に身を潜め、そっと息を整える。


彼女の長く透き通った水色の髪が風に揺れ、オパールのように輝く瞳が緊張の色を帯びていた。

追ってくるのは天界で最も恐れられる大神官、ムーソピアだった。


彼女は高い位置で結んだ藍色の長い髪が後ろに揺れ、冷たく光る金属製の眼鏡のレンズの奥から覗く鋭い緑色の瞳は、誰であろうと逃れることができない冷徹な視線を放っている。

そんな彼女が笑った顔を見た者は、天界には誰一人もいないのだとか。

その厳格な性格から、彼女は天界の中で唯一怒らせてはいけない神官として名が知られていた。


「置き手紙を書いたのが失敗だったかしら……」


アクディーヌは小さく呟き、柱から顔を覗かせる。

ムーソピアの眼鏡のレンズが微かに光り、彼女がこちらに向かってきているのが見えた。


「アクディーヌ様、すぐにお出にならないと、この後の仕事が増える一方ですよ!」


ムーソピアの声が冷ややかに響き、アクディーヌの背筋を凍らせた。

一瞬躊躇するが、躊躇など投げ捨てたかのように聖塔内にある水神が仕事をするための作業場へと走り出す。


「こんなことなら、もっと早く下界から戻ってくれば良かった……!」


天界において、水神(すいじん)アクディーヌを知らぬ者はいない。


彼女の水色の長い髪とオパールのような瞳は、誰もが一目で水神と認識するほどの美しさを誇っている。

そのため、下界に行く際には変装や気配を消す必要がある。


百年以上前、先代水神の兄クラルディウスが仕事を放棄し下界に遊歴した影響で、アクディーヌは三代目の水神として責任を引き継いでいた。


兄もまた美しい容姿を持ち、自由に下界を楽しんでいたが、アクディーヌは血の繋がった兄妹として、仕事をしなければならない現実に苦しんでいた。

何千年も天界に留まることは、下界の人々に比べてはるかに苦痛であり、自由な生活を望む彼女にとって、現状は耐えがたいものだった。


兄がまだ水神だった頃は、自由に下界へ遊びに行けたというのに。


だが血の繋がった兄妹である以上、大人しく仕事をするわけがない。

何千年も天界に留まることは、下界の人々にとっての数十年、数百年の苦痛よりもはるかに耐えがたいものだ。

たとえ下界に足を踏み入れたとしても、兄のように気ままに下界で生活することはできないのだから。


「本当に不公平ですね」


アクディーヌは思わず口を押さえた。

しかし、それは無意味だった。

鬼の形相で大量の書類を抱え、ムーソピアが走ってくる。

彼女の耳は恐ろしいほど鋭いのだ。

今、仕事を押し付けた兄を呪いたい気持ちが湧き上がるが、不老不死の神であるため、その願いは叶わない。


アクディーヌが兄クラルディウスによって水の泡から解き放たれてから、約三千年が経った。

何年生きたかを覚えている神がいるだろうか。

兄ですら記憶していないのだ。

しかし、確かに二千歳ほど離れている。

人間に換算すれば二十歳差か、あるいは二百歳差かもしれない。

もう、どうでもいいことだ。


「アクディーヌ様、捕まえましたよ」


突如、耳元で囁かれ、アクディーヌは身を震わせた。


「あら~、ムーちゃん、お久しぶり?」


アクディーヌは、わざとらしく微笑む。


「何がお久しぶり、ですか。二週間も仕事を放棄して」

「置き手紙に書いたじゃないですか、『少し席を外します。探さないでね』と」

「その『少し』が二週間も! 天界にはあなたがいないと困るんです。これを見てください、四神全員からの苦情が溜まっています」


ムーソピアは机がある場所まで移動し、山のような書類を広げる。

その中には、花神(かしん)炎神(えんじん)からの激しい非難が綴られていた。

アクディーヌはそれを見て、ため息をつく。


水神になった途端、嫌がらせのように毎日送るものだから、本気で天界を滅ぼそうと思っていたが魔神になる予定はないのでそれはやめた。


「それなら、私の分身を作っておいたではないですか〜。はっ、もしかして何か問題があったとか!?」


ムーソピアの肩を揺らしてアクディーヌは言う。

十分な神力(しんりょく)があれば、一体や二体の分身を作ることは容易いことだ。

同じ見た目――とまでは言えないが、いないよりはマシだろう。

大体、不慮の事故で壊れてしまうが。


「ええ、問題ありましたよ。分身様が仕事を放棄して、天界中に自分の似顔絵を描き回っていましたから」

「え?」

「……似顔絵以外、仕事を放棄するところは似てしまいましたね」


アクディーヌはよろめき、偶然見つけた地味に自分に似ている青年の落書きを見てふふっ、と笑う。

まさか、性格、性別までも変わっていたとは。


「はぁ、だから天界が困るわけです。仕方ありませんね」


アクディーヌは、そう言って出口まで歩き出した。


「アクディーヌ様、どちらに?」

「少々、作り直しに行ってきます」

「今からですか? アクディーヌ様には二週間分の仕事が残っているんですよ。これ以上、また増えれば私は他の神々に顔向けできません」

「そんなに慌てないで。二週間分の仕事なんて私にとっては容易(たやす)いことです。だから、ムーちゃんは、心配しないで」


アクディーヌの言葉に、ムーソピアは怪訝そうな顔をして頷いた。


「分かりました。ですが、天界は本当にアクディーヌ様が必要なんです。ですから、また消えたりなさらぬよう」

「はいはい、今度はちゃんと口で言うようにします。では、作り直しに行ってきま~す」


アクディーヌは彼女に手を振りながら歩き出す。


水神としての役目を背負い、彼女の毎日は大精霊時代とは比べ物にならないほど忙しく、自由に下界に行くことが難しくなっていた。

その原因は、責任を放り出して遊歴に出た兄クラルディウスと、彼に付き添った全知全能の神マグトルムにある。


立ち止まったアクディーヌは、手のひらから大きな泡を作り出す。

泡の中には、楽しげに談笑する人々や商店街を駆け回る子どもたちの姿が映し出される。


「人間になりたい」そんな思いを抱くのは、もう何度目だろう。

人らしく生きて、人らしく死ぬことを神が願うのに、どうして悪いのか。

その思いは、水神となり百年を越えた今でも心の奥深くでいつも揺れ動いていた。


(でも、憧れるくらいはいいでしょう?)


アクディーヌはその思いを胸に、泡に息を吹きかけ、再び歩き出した。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 天界で神様やってる時点ですでにブラック労働状態…、これだと人間の世界に興味持ちそうだけど、そこに逃げてもブラック生活になりそうな気がするのが親しみを持てていいです(乾いた笑み)。
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