7.クッキーの謎(2)
◇ ◇ ◇
研究室に戻った私は、先週の研究報告書が机の上に置きっ放しになっていることに気付く。
「あ、これ提出しなきゃ」
研究報告書は魔術研究所に所属する魔術師達がそれぞれの研究進捗状況を纏めた報告書で、月に一回の提出が義務づけられている。ちなみに提出先はプリスト所長で、朝出そうと思ってそのままにしてしまっていた。
「ちょっとこれ届けに行ってくるね」
「はーい」
報告書を片手にサエラに声をかけると、軽い調子で返事が返ってきた。
私は玄関ホールの大階段を上り、プリスト所長の元へと向かう。プリスト所長はいつものように、人当たりのよい笑みを浮かべていた。
「これ、先月の研究報告書です」
「預かりましょう」
プリスト所長は私から書類を受け取ると、「調子はどうですか」と聞いてきた。
「最近クラウス師長によく研究の相談に乗っていただくお陰か、前よりもいい成果が出ている気がします」
「そうですか。それはよかった」
プリスト所長はにこにこしながら、白髪になったあごひげを撫でる。
「これを、クラウスとルーカスに届けてきてもらっていいですかな?」
プリスト所長は、白い封筒を二通、私に差し出した。
「はい、わかりました」
封筒には、クラウス様とルーカス師長の名前が書かれていた。
プリスト所長の部屋を後にした私は、その足でまずはクラウス様の執務室へと向かった。
「エルマです」
「エルマ? どうした?」
クラウス様は私が来たことに驚いた様子だ。けれど、すぐに嬉しそうに相好を崩す。
「俺に会いに来てくれたのか?」
「いえ、えっと……プリスト所長からの書類を届けにきました」
期待に満ちた瞳が、がっかりしたような色に染まる。
(う、そんな顔しないでほしい)
胸がちくんと痛む。
「俺はエルマに会いたかった」
「えっ」
真剣な瞳で見つめられて、私は狼狽える。
なにせ、相手は極上の美形なのだ。ありとあらゆる女性が憧れる魅惑の大魔術師様なのだ。
クラウス様の手がこちらに伸びてきて、私の顔にかかる髪を指先で避けて耳にかけた。
(疲労回復の促進剤は干しミドリヒキガエルのエキスを0.01パーセントの割合で調合して──)
全く関係のないことを考え、胸がどきどきしてくるのを必死で抑え込む。
クラウス様の指先が髪をすっと滑り落ち、もう一度上がると私の頬を触れる。
「いつだってエルマに触れていたい」
その瞬間、顔がカアッと熱くなるのを感じた。
「あっ、あの! 私はこの後ルーカス師長のところに行かないといけないので、失礼します!」
気恥ずかしさを隠すように、私は叫ぶ。
「ルーカスのところに?」
クラウス様は怪訝な表情を見せた。
「はい。プリスト所長から、クラウス様宛のものと同じものをもう一通預かりました」
「なるほど。では、俺も行こう」
「はい?」
「俺も行く。俺に例の薬を盛ったのがルーカスではないという確証はまだない。用事にかこつけて様子を見たい」
「あ、確かに……」
あのときの状況を考えれば一番怪しい人物はルーカス師長だという事実は、今も変わらない。確かに、これはルーカス師長の様子を窺う絶好のチャンスだ。
「それに、密室に男とふたりだと危ないだろう」
(ん?)
いや、仕事ですよ。あなたとも今、ふたりきりですよ? という言葉はすんでのところで呑み込む。
「行くぞ」
「はい」
私はクラウス様の後に続き、執務室を出る。ルーカス師長の執務室はクラウス様の執務室の三つ隣だ。
「クラウスだ」
クラウス様がノックすると、すぐに「入っていいぞ」と返事があった。
ドアを開けると、執務机に向かってイスに座ったままこちらを眺めるルーカス師長が見えた。
「クラウスか。お前が私を訪ねてくるとは珍しいな。研究に行き詰まり、助言でも乞いに来たか?」
執務机に向かって座っていたルーカス師長は、クラウス様の顔を見るなり口元に笑みを浮かべる。
私はクラウス様の背後から、ざっと執務室を見渡した。
大きさはクラウス様の執務室と全く一緒だ。執務机やソファーなどの配置とデザインが違うだけなのだが、だいぶ印象が違う。無機質な雰囲気のクラウス様の執務室に対し、ルーカス師長の執務室は木目調の調度品で揃えられていて、まるでどこかのお屋敷の一室にいるかのように感じられた。壁の一角には、白いカーテンのような物が掛けられている。
「プリスト所長から届け物だ。彼女がお前の執務室がわからないと言うので連れてきた」
「プリスト所長から?」
ルーカス師長は怪訝な表情を浮かべる。私はクラウス様の背後から前に出ると、おずおずとルーカス師長に持っていた封書を渡した。ルーカス師長はその場でその封を切る。
「また舞踏会の結界作りか」
中の便箋にざっと目を通したルーカス師長は、つまらなそうに呟く。どうやら、今度の舞踏会で結界作りをしろというお達しが書いてあったらしい。
「どこの誰とは言わないが、前回はペアが来なかったせいで散々だった」
ルーカス師長はさり気なく皮肉を言いながら、手に持っていた便箋を封筒の中に戻す。