1.想定外の事件です(2)
私の勤める国立魔術研究所はここ、リスギア国の王宮の片隅にある。
国内最高峰の魔術研究機関で、所属員達は様々な新しい魔法の開発のために、日々研究を行っている。一応、就職するためには国立魔術学校を卒業することが条件になっているので、エリート集団でもある。
一応、というのは、ごくまれに落ちこぼれもいるから。
そして、現在進行形で魔術研究所のぶっちぎりの落ちこぼれは他でもないこの私──エルマ=ホフマンであった。
魔術学校時代の私の成績は常に学年最下位、つまりビリだった。入学試験の際は標準的な成績だったのに、気付いたらいつの間にかそうなっていたのだ。ちゃんと勉強していたはずなのに、不思議でならない。
とにかく、最終試験の際には級友達全員が私の〝奇跡の通過〟に喜び、胴上げされた。修了式では後輩達に『エルマさんが魔術研究所に就職できるなら自分も大丈夫かもしれないと、たくさんの勇気をもらえました』と握手を求められた。
まあ、別にいいんだけどさ。
全然気にしてなんかいないもん!
でも、自分でもなんで私が魔術研究所に採用されたのか謎だとは思っている。
「おはようエルマ。今日も早いね」
王宮の敷地内を魔術研究所に向かって歩いていると、背後から声をかけられた。
足を止めて声のほうを振り返れば、少し長めの黒髪をさらりと流した柔らかな物腰の青年がいた。魔術研究所の同僚であるショーンさんだ。
ショーンさんはアディソン侯爵家の次男でありながら、とても気さくで人当たりがいい。そして、優秀な魔術師でもある
「おはようございます、ショーンさん。いい朝ですね」
「うん、本当に。今日は舞踏会明けだから、みんなのんびりで静かだね」
ショーンさんは人っ子ひとりいない周囲を見回す。確かに、見渡す限り誰もいなかった。
「ショーンさんも昨日は舞踏会に?」
「うん、まあそうだね。王宮舞踏会だから、欠席するわけにもいかないだろ?」
ショーンさんは肩を竦める。確かに、王宮舞踏会は国王陛下が主催なので、よっぽどの理由がない限り断るという選択肢はないだろう。
「ほかの皆さんも参加したのでしょうか?」
「そのはずだね」
「じゃあ、今日は皆ゆっくり出勤かな」
「そう思うよ。今日くらい、エルマもゆっくりしてくればいいのに」
ショーンさんはこちらを見つめる。
「私は平民だから舞踏会に招待されていないし、元々朝が早いんですよ。〝朝が早いのは五リットの徳〟って言葉があるくらいですから」
私がにんまりと笑うと、ショーンさんは苦笑する。
「真面目だねえ」
「そういうショーンさんも、いつにも増して早くないですか?」
私は首を傾げる。
普段なら、ショーンさんが出勤するのは私が出勤する時間より三十分以上後の気がしたのだけれど。
「ああ、僕はクラウス師長に用事があるんだ」
ショーンさんは私の疑問に答えるように言う。
「師長に? そうなんですか」
クラウス師長ことクラウス=バルト様は、魔術研究所にいる筆頭魔術師のひとりだ。
まだ二十五歳の若さでありながら、最も優れた魔術師に与えられる筆頭魔術師の称号を持つ、優秀な人である。
そして、筆頭魔術師の称号を持つ魔術師のことを魔術研究所では親しみと敬意を込め〝師長〟と呼んでいた。
その後も他愛ないお喋りをしながら、私達は魔術研究所へと向かう。
重厚な正面玄関の扉に手をかざす。ウィーンと鈍い音がしてカチャリと魔力認証式の鍵が開く音がした。
「ショーンさんの言う通り、今日は誰もいないですね」
いつもなら朝早くから出勤する所員や徹夜で研究していた所員がちらほらといるのだけれど、今日は物音ひとつしない。
一階にある実験室を覗くと、まだ誰も来ていなかった。
昨晩は王宮舞踏会の準備で急いでいたのか、使い終わったのに洗われていないビーカーやフラスコがシンクに乱雑に放り込まれているのが見える。
「ちょっと僕、クラウス師長の執務室に行ってくるね。来ているかもしれないから」
「はーい」
ショーンさんの後ろ姿を見送った後、部屋の中を見回す。
「よし。みんなが来る前に、さっさと終わらせちゃおうかな」
私は腕まくりをすると、実験器具をじゃぶじゃぶと洗い始める。これは、魔術研究所の落ちこぼれな私でもみんなの役に立つことができる、貴重な仕事なのだ。
この魔術研究所に私が入所して早一年経つ。
この一年間というもの、研究所ではかつてないほどの目覚ましい成果が上がっていた。ずっと完成は無理だとされていた見えない場所からの物質転移、植物の育成促進、携帯無線機の実用化、それに強力な治癒魔法……。
思いつくだけでも、両手で数えきれないほどだ。
けれど、私は失敗ばかりで未だに何ひとつ成果を上げられていなかった。
(ぱっとした成果を上げることができないなら、せめて同僚達が研究に専念できるようにサポートできたら)
そんなことを思い、実験器具の洗浄や研究所内の掃除、実験に用いる薬草の手配など、自分にできることを毎日欠かさず行っている。
掃除用の箒を持って上階に向かう。上からショーンさんが階段を下りてくるのが見えた。
「師長には会えましたか?」
「いや。執務室をノックしたけれど反応がなかった。いないみたいだ」
「あれ? 師長は朝が早い人なのに、珍しいですね」
クラウス師長はだいたい私と同じくらいの時間には出勤していることが多いのだけれど。
「そうだね。まあ、後でまた訪問するよ」
クラウス師長に会うためにわざわざいつもより早く出勤したというのに、ショーンさんは全く気落ちした様子もない。そのまま、階下にある研究室へと戻っていった。
(さてと、私は掃き掃除しよっと)
廊下を端から掃いていると、カタンッと小さな音がしたような気がした。
(ん? 何か音がした? まだ誰も来ていないと思っていたけれど、誰かいるのかな?)
恐る恐る、物音がしたほうへと近付く。
──カタカタカタ。
今度は間違いなく物音がした。
「何?」
びくっとして後ずさる。
(これは、ドアノブを回そうとしている音?)
あたりを見回すと、すぐ近くの部屋のドアノブがカタカタと小刻みに揺れている。内側から回しているようだ。