1.想定外の事件です(1)
ドアに手をつく、ドンッという大きな音がした。
「エルマ=ホフマン。お前、一体どう責任を取るつもりだ?」
こちらを見つめる薄紫色の瞳には、怒りの感情がありありと表れている。
「ええーっと……」
その瞳を見下ろしながら、背中につうーっと嫌な汗が伝うのを感じた。
(これはまずいわ)
私の目の前にいるのは私の上司であるクラウス=バルト様。今をときめく美貌の魔術師であり、侯爵家次男でもある。特に優れた魔術師に与えられる称号である〝筆頭魔術師〟を史上最年少で取得した、世の女性憧れの存在だ。
(近くで見ると、本当に美形だわ)
数多の女性が言い寄っても全然靡かないから〝鉄壁の要塞〟だなんて影で呼ばれたりもしているらしい。
(こんな人が好きになる女性って、どんな人なのかしら?)
なーんて呑気に考え、すぐに今はそれどころではないと気付く。なにせ、今クラウス師長の怒りの矛先は全集中で私に向かっているのだ。
(こんな失敗って、あり得る⁉)
完全にやらかした。
人助けのつもりだったのに、あろうことか人の不幸に追い打ちをかけてしまった。
「申し訳ございませんっ!」
とりあえず、謝らなければ。私は勢いよく頭を下げて全力で謝罪する。対するクラウス師長は一言も発しない。
頭を下げたままちらりとクラウス師長の様子を窺うと、ちょうど目線の高さが同じになったこともあり、ぱっちりと目が合う。〝堪忍袋の緒が切れる〟という言葉があるが、その瞬間リアルでブチッと音がした気がした。
うん、多分聞き間違いじゃない。間違いなくしたわ。
「申し訳ございません、で済むかー!」
クラウス師長の怒声が響く。
「ひええっ! だって、こんなことになるなんて思ってなかったんです!」
私は半泣きになりながら、そう叫ぶ。
どこの誰が想像できただろうか。補助魔法でちょっと手助けしただけなのに、クラウス師長が子供になってしまうなんて!
◇ ◇ ◇
ことの発端は、数時間前にさかのぼる。
今日は、いつもと変わらぬ朝だったと思う。抜けるような青空が広がり、窓の外からはチュンチュンと愛らしい小鳥の歌声が聞こえてくる。
ひとり朝食のパンを頬張りながら新聞を読んでいた私は、ふと欄外の広告に目を留めた。
「あ、魔術師シリーズの新作だわ。これ、面白いのよね」
それは、新進気鋭の女性作家──コリンズ=フィバーの新作小説の広告だった。コリンズの書く大魔術師シリーズは、氷の魔術師と呼ばれる寡黙で堅物なエリート魔術師と平凡な女性が恋に落ちる大人気シリーズである。
今や、若い女性が顔を合わせれば三回に一回はこの大魔術師シリーズの結末がどうなるかと話題に上るほどで、職場でも愛読者が多い。
「よし、帰りに買って帰ろうかな」
忘れないように新聞を切り抜き、財布に挟む。使い終えた食器を流し台に持っていくと食洗機にセットして魔力を注入する。食洗機は軽快な音を立てて皿を洗い始めた。
「さっ、行こうかな」
鞄を肩にかけると、私は意気揚々と仕事へと向かったのだった。