第八話 まさかのボート転覆
初めて見学した鎮魂の儀は幻想的でいて、そしてとても荘厳な雰囲気の中、行われた。
地下墓所内に無数に並べられたろうそくの灯りの中、粛々と進められる儀式。
全王子が集まるという大規模なものだったけど、時間は一刻もかからなかったわね。
すべてが滞りなく終わって神殿の外に出ると、再びあの雲一つ無い晴天がまぶしい。
ずっと地下にいたから余計に開放感があるわ。
わたくしは小走りで、先を行くライネス王子を追った。
そこで第七王子の護衛、コーディが視界に入り、ハッとする。
彼女、やっぱりゲームの通りにアネリたちのボートに細工をしたのかしら?
コーディの召喚獣はガーゴイルという翼の生えた人型の魔獣で、鋭い爪でボートの目立たない場所に穴を開けることができるの。
わたくしが視線を向けているのに気づいたのか、コーディはわたくしを見てハッとしてから、不自然なほどにニッコリ微笑んだ。
あ、あやしい……絶対にやってるわね、あの子。
そうなるとますますわたくしの仕込ませた浮き輪が重要になってくるわ。
小島ではボートは桟橋ではなく、そのまま湖岸に乗り上げていたから、行きの時みたいなピンチはない。
ブーツが少し濡れたけど、スムーズにボートに乗れた。
そしてから、さりげなく自分の座る座面の下をのぞき込む。
座面の下は隙間があってちょっとした物が置けるようになっていた。
行きは気づかなかったけど、ちゃんとオレンジ色の小さな浮き輪が一つ置いてあったわ。
ほら、空気を入れるタイプじゃなくて、水に浮く堅い素材でできた救助用のやつよ。
正式名称はリングブイっていうらしいわ。このために侍従に買いにいかせたの。
「何を見ている」
不意に声をかけられて、不覚にもビクッと震えてしまった。
「え? ええ、下に浮き輪があるのが見えましたので。これなら万が一、転覆しても安心ですわね!」
ちょっと不自然になってしまった気がするけれど、ライネス王子はただ「座れ、帰るぞ」とだけ言い捨てる。
きっと向かいに座るライネス王子は行きの時点でこれが目に入っていたはず。
けれど他のボートにはないってことは知らないんじゃないかしら。
ライネス王子が行きと同じく漕ぎ出したところで、わたくしはどんどん落ち着かなくなってくる。
ああ、アネリたちは大丈夫かしら……。
さすがにまだボートは沈まないわよね?
気になってアネリたちのボートをガン見したいのに、ライネス王子がぐんぐん漕ぐもんだから、あっという間に小島から離れて行ってしまう。
そういえば行きもダントツトップで小島に到着していたわね。
他の王子たちも一生懸命漕いでいるようだったけど、ライネス王子には誰もかないやしないわ。
「あ、あの、ライネス王子。無事に鎮魂の儀も終わったことですし、せっかくですからゆったりと湖畔の景色を眺めて帰りませんか?」
ダメ元で提案してみた。
けれどもライネス王子はくだらないと言わんばかりに「ふん」と鼻で返事をするだけで、オールを漕ぐ手は止めない。
そうよね、分かっていたわ……。
ああ、アネリ、どうかご無事で……。
と、小島の方を振り返って祈っていたら、急にボートのスピードが落ちた。
「あら、どうかしました?」
「……浸水している」
「へ? ……し、浸水!?」
驚くわたくしの足元で、ブーツがピチャッと水を跳ねた。
なんてこと、ボートの中に水が入ってきてるじゃないの!
「な、なんでわたくしたちのボートが!?」
「整備不足か? どうやら弟たちのボートも同じ状況のようだ」
慌てまくるわたくしと対照的に、ライネス王子は冷静に遠く離れた他のボートを見て、眉をひそめている。
そして急に流れるような動作で上着を脱ぎはじめ、そしてシャツもすべて脱いでいく。
あっという間にまぶしいほどに鍛え抜かれた上半身がむき出しになり、わたくしは慌てて顔を背けて手で目を覆った。
「ラ、ライネスさま!?」
「沈み始めたのは三艘か? まずいな、カインは泳げないどころか水が苦手だ……お前、泳げるか? 泳げなければその浮き輪にでもつかまっていろ」
なんて言われたのか理解するより先に、ライネス王子はドボンと湖面に飛び込んで、下半身は着衣のままだというのを忘れるくらいの猛スピードで泳いで行ってしまった。
そして、沈みゆくボートの上に取り残されたわたくし。
――と、マロン。
「マロン! 大変だわ、あなた泳げないわよね!?」
あら、チワワも犬だから犬かきができるのかしら?
でもここはタイミング悪く小島と湖岸のちょうど中間地点……この身体で泳いでいくには離れすぎてるわ。
ましてや春になったとはいえまだ水は冷たいし、こんな小さな身体で水につかっていたら、あっという間に低体温に……。
そんな風に悩んでいるうちに、ボート内の水はあっという間に溜まっていった。
そしてグラッと揺れたかと思うと、ボートが沈みだす。
「つっ、冷たいわ!」
マロンと浮き輪を抱えて中腰で立っていたものの、ブーツの隙間からビックリするくらい冷たい水が入ってきて、次の瞬間、バランスを崩して湖面に倒れてしまった。
全身、冷たさのあまり刺すような痛みが走る。
慌てて水面に顔を出そうとするも、水の中でスカートがフワフワと広がってしまって、どちらが上か分からない。
まずいわ、このままじゃ、溺れてっ……!
その時、顔を柔らかい物がかすめていった。
マロンのクリーム色の毛だ。
マロンが器用に足で水中を蹴って泳いで行く。
その先に、光を反射する湖面が見えた。
「ぶはあっ……はあっ、はあっ……マロン!?」
倒れたときに浮き輪から手を離してしまっていたけれど、すぐに水面に浮かんでいるのが見つかった。
それにしがみつきながら、マロンの姿を探す。
すると呼ばれたと思ったのか、水に濡れて毛がぺったりとなったマロンがヒョイヒョイと犬かきしながらわたくしの方へとやってきた。
「マロン! 泳げたのね、でも冷たいでしょ? 浮き輪に……乗れるかしら?」
この浮き輪は救助用にボートや船に常備されているもので、平たい形をしている。
ダメ元でマロンを片手で抱えてゆっくりと乗せてみた。
「乗れたわ!」
浮き輪の穴の上に胴が来る感じで、四肢で浮き輪部分をバランス良く踏ませてみた。
マロンの小さい身体だとかなりギリギリサイズで、足がプルプルしているし、ちょっとでも揺れるとバランスが崩れて倒れてしまいそうだけど……とにかく乗れたわ。
けれどマロンがバランス良く乗っているためには、わたくしは浮き輪にしがみつけない。軽く手を添える程度じゃないと。
「ああっ、足がっ!」
大昔、前世では水泳はそこそこできたはず。
でももう忘れてしまったわ……。
一応、必死に立ち泳ぎをしてみているけれど、なにせ膝下丈の革製のブーツを履いているんだもの、中に水が入ってしまって重くって力が入らない。
「マ、マロン、わたくしが手を離しても、バランスを取って浮き輪に乗っているのよ! きっと誰かが助けてくれるからっ……そしてもし、わたくしがっ……」
わたくしが沈んでも、追ってきちゃ駄目よ!
そう言いたかったけれど、開いた口に水が流れ込んできて、むせた拍子に沈んでしまった。
苦しいっ……!
息が、もうっ…………。
耐えられないほどの苦しさとともに、視界がぼやけていく。
嘘でしょ、わたくし、このまま死んでしまうの!?
まさか……こんな形で終わってしまうなんて……。
マロンにちゃんと伝わったかしら?
今のところは追ってきていないけれど。
ああ、なんでこんなことになったのよ!
わたくしたちのボートまで沈むだなんて……コーディったら、穴を開けるボートを間違えたのかしら?
でもおかしいわね、ライネス王子が他の王子たちのボートも沈んでるって言っていたし。
まあ分からないことを考えても無駄よ。
やっぱりあれね、わたくしの魔獣召喚でキマイラじゃなくてチワワを召喚しちゃった時点で終わっていたんだわ。
もう一度やり直せるなら、今度こそキマイラを……。
――いいえ、違うわ!
今度こそ、アネリに生まれ変わるのよ!
悪役令嬢なんてもうイヤ!
心にもないことを言って人を虐げないといけないだなんて、本当に精神エネルギーが削られるんだから。
それにあんな風に、ライネス王子にあからさまに嫌われるなんて……もう嫌なの……。
できることなら、わたくしだってアネリとしてライネス王子と……。
身体の中の酸素が切れたのか、まだうっすらと見えていた明るい湖面が紗がかってかき消えていく。
ああ、これで本当におしまいなのね。
さっきはああ言っちゃったけど、マロンを召喚したことは後悔してないの。
短い間だったけど、悪役令嬢として苦悩を抱えるわたくしを癒やしてくれたのは、あなただけ。
マロン、わたくしがいなくなっても、あなたならとても可愛いし人なつこいからやっていけるわ。
そんな風に切ない思いが胸いっぱいに広がっていき、ついにわたくしの意識はぷつりと途絶えた。