第二章 運命の出会いは突然に?(5)
手の中にある金貨の重みに気を取られている内に子爵邸まで着いていたアルシオーネは、背後をゆっくりとした歩みで付いてくるスターレットの存在を思い出して足を止めていた。
どこからどう見ても田舎娘のアルシオーネが子爵邸に住んでいるなどおかしな話だからだ。
こんな時のために用意していた子爵から書いてもらった紹介状を見せて言い訳をしようと考えてから背後を振り返ったが、アルシオーネが何かを言う前にスターレットが口を開いていた。
「アルシオーネ嬢、明日、ヴェルの荷物と金貨を持ってくるのだけれど、俺の方の都合で悪いが夕方にお邪魔してもいいかな?」
特にアルシオーネのことを詮索することもなく、スターレットは白い歯を見せて爽やかな笑顔でそう言ったのだ。
呆気に取られていたアルシオーネは、ポカンと開いてしまった口元を引き締めてからスターレットに頷いて見せた。
そして、スターレットからヴェルを受け取って、会釈をしてから屋敷の中に入って行ったのだった。
屋敷の中に入ったアルシオーネは、まず自室に向かった。
腕の中にある金貨とヴェルをベッドの上に降ろしてたアルシオーネは、ベッドに一度座った後に、そのままごろりと寝転んでいた。
そして、嬉し気にベッドの上を数度転がってから、ベッドの上で大人しく座っていたヴェルに向かって素の状態で話しかけていた。
「子犬さん! ありがとうございます。君のお陰で借金返済が出来そうです。こんな大金です。どうやって領地のお父様にお渡しすれば……。誰かに……、は駄目ですね。直接渡した方が安全そうですね。あっ、ギルドマスターさんに相談するのもいいかもです。セバスティアンのお知り合いのようですし。ふふふ」
そう言って、ヴェルに向かって嬉しそうに微笑みかけたアルシオーネだったが、あることを思い出したとばかりにベッドをガバリと起き上がった。
そして、何かに戸惑っているかのように見えるヴェルに向かって笑顔でこう言ったのだ。
「それでは、子犬さん。お風呂に行きましょう。ご飯はお風呂の後に用意しますから、まずは綺麗にしましょうね」
アルシオーネがそう言うと、それまで大人しくしていたヴェルが急に吠え出していた。
アルシオーネは、ヴェルがお湯を苦手に感じていると思い立ち、安心させるような微笑みと共に抱き上げて宥めるように言ったのだ。
「子犬さん、大丈夫ですよ? お湯は怖くなんてないですよ~。とっても気持ちいいものですから安心してくださいね」
そう、アルシオーネが子犬に向かって言うものの、まるで「嫌だ!」と言わんばかりに子犬は鳴き続けていたが、それに構わずにアルシオーネは、ヴェルの背を優しく撫でながら風呂場へと向かって行ったのだった。
着ていたワンピースを脱いで下着姿になったアルシオーネは、その姿で風呂場の中に入って行った。
そして、湯船にお湯を貯めながら、手で掬ったお湯をヴェルに優しくかけていった。
自家製の蜂蜜入りの石鹸を泡立てて優しくヴェルの体を洗いながら、ご機嫌な様子で声を掛けていた。
「子犬さん。痒いところはないですか? なんて、ふふふ。一時的とはいえ、子犬さんと一緒に暮らせるなんて嬉しいなぁ。コックォが動物アレルギーで飼えなかったのよねぇ。子犬さんは、ヴェルと言うのよね。ヴェル、ヴェルちゃん、ヴェルさん……、うん。ルーちゃんがいいかも。ルーちゃん。これからよろしくね」
答えがあるわけではない状況だったが、それでもアルシオーネは、ヴェル相手に楽しそうに話を続けた。
ヴェルも最初こそ抵抗していたが、今は大人しくアルシオーネの手によって全身を洗われていた。
全身の泡をお湯で流すとヴェルは、全身を震わせて水分を吹き飛ばしていたが、アルシオーネの「きゃっ」という小さな悲鳴を聞いてその動きを止めていた。
ヴェルから飛ばされた水分をその身に受けたアルシオーネは、素肌に少しだけ透けた下着が張り付いた状態だったが、困ったように微笑むだけでヴェルを叱るようなことはなかった。
しかし、ヴェルは慌てたように風呂場を出て行こうとしたが、アルシオーネは、それを抱き上げて阻止していた。
アルシオーネに抱き上げられたヴェルは、興奮したように吠えながらアルシオーネの腕の中から出ようと必死になっていたが、暴れれば暴れるほど抱きしめる力が強くなっていくことに気が付いていなかった。
「もう、ルーちゃん、暴れないで。すぐに乾かすから大人しくしていて?」
アルシオーネの困ったような声を聞いたヴェルは、渋々と言った様子ながらも大人しくなっていた。
その隙を逃さずにアルシオーネは、ヴェルを柔らかいタオルで拭いて、毛が乾いたのを確認してからニコリと微笑んで言ったのだ。
「うん。綺麗になったわ。今度はわたしがお風呂に入ってくるわね。上がったらご飯にしましょう」
そう言ったアルシオーネは、手早く下着を脱いでから脱衣所を後にしていた。
アルシオーネが手早く裸になる間、決して見るものかとでも言うかのようにヴェルは顔を伏せて背を向けていたが彼女がそれに気が付くことはなかった。
ヴェルを洗っている間に湯船に貯まったお湯に浸かりながらアルシオーネは、明日からの露店での販売について考えを巡らせていた。
今まで売っていた回復薬などは、他の露店でも売られていて、それぞれ固定の客が着いているようだったのだ。
このまま同じようなものを売っていても商売敵に勝てる気が全く持ってしなかったのだ。
それならば、変わり種で勝負するしかないと考えたアルシオーネは、次なる手を打って出ることにしたのだった。
いつもよりも手早く風呂を出たアルシオーネは、脱衣所にいるはずのヴェルがいないことに首を傾げた。
寝間着に着替えながら「どこに行ったのかしら」とヴェルを探して脱衣所を後にしたが、扉を出てすぐに子犬を見つけたアルシオーネは、笑顔でヴェルを抱き上げていた。
「まぁ。ルーちゃんは紳士なのですね。くすくす。わたしに気を使ってくれたのですね。ありがとう、可愛い紳士さん」
そう言って、ヴェルを抱き上げたアルシオーネは、その柔らかい毛に顔を埋めて、そのままヴェルの鼻先に軽いキスを落としてから微笑みを向けたのだ。
しかし、アルシオーネにキスをされたヴェルは、全身が石化したかのように固まってしまっていた。
それに気が付いたアルシオーネは、困ったように小さく首を傾げた後に、何かに納得したように言ったのだ。
「忘れていたわ。ルーちゃん。驚かせてしまってごめんなさい。化粧を落としたわたしが分からなかったのね」
そう言って、田舎娘のような野暮ったい姿から、花の妖精のように美しい姿に戻っていたアルシオーネが柔らかい微笑みを浮かべると、腕の中のヴェルがまるで照れているかのように「くーん」と小さく鳴いて身じろいたのだ。
そんなヴェルに対して、アルシオーネは、お腹が空いて限界が来たのだろうと思い至り、眉を寄せて謝罪を口にしていた。
「ごめんなさいね。お腹が空いたわよね。スターレット様から、ルーちゃんには私と同じメニューでいいと聞いたからすぐに用意するわね。いい子で待っていてね」
そう言って、ヴェルを抱いたまま台所に向かったアルシオーネは、手早く夕食の用意をしたのだった。