5ー1.”それ”の記憶
“それ”は森を駆けていた。“それ”は小さく力の無い魔物だった。
背後から迫る圧倒的な恐怖から、ただ闇雲に逃げる。
地響きと共に地面が歪み、木々が倒れ、虫の羽音も、鳥の囀りも、穏やかな木漏れ日も黒い霧に喰われていく。
森に棲む生き物たちは、恐慌状態で駆けた。身体をぶつけ合い、弾かれたものは後続に押し潰される。小さな生物は蹴られ、踏み潰された。樹木の根元に隠れ縮こまったものは黒い霧に飲み込まれていく―――
“それ”も必死に逃げた。そして、ふとある言葉が頭に浮かんだ。
――魔王のゆりかご。
強大な魔力溜まりは”魔王のゆりかご”と言われる。そこから凶悪な魔物が生み出されるらしい。そうだ、きっとこれは、魔王のゆりかごなのだ。取り込まれれば、新たに誕生する魔王の糧とされる。
逃げなければ。
“それ”の存在などあまりにも矮小で、黒い霧に比べれば無いに等しい。しかし、黒い霧は貪欲だった。すべてを食らい尽くそうと黒い触手を伸ばす。
本能的な恐怖に煽り立てられ、動かし続けた四肢は疾うに限界を迎えていた。山猫にも似た“それ”の身体は、浮き出た木々の根に足を取られ転がり、何かにぶつかった。
もう終わりだ。
“それ”は生を諦め、全身の力を抜いた。黒い霧に絡められるのを待つ―――
が、その時は訪れることはなかった。
「?」
“それ”は薄目を開けて辺りを窺う。
目の前に淡い光を放つ亡霊が居た。銀の長い髪をした美しい男の亡霊だった。亡霊は“それ”を一瞥したが、直ぐに興味を失い、辺りに漂い始めた黒い霧に目を向ける。
その瞬間―――
ザーッッッッ!
突然、黒い霧が集まり触手となって、四方から亡霊を襲った。しかし、亡霊は自身を包む球状の障壁を張り、襲撃を防ぐ。
“それ”は恐ろしさの余り、その場にあった奇妙な物の影に蹲り、ガタガタと震える事しかできなかった。
亡霊がブツブツと呪文を唱えると奇妙な物が振動する。“それ”は慌ててその場から飛び退いた。
「ヴヴヴーーーーッ」
“それ”の唸り声など無視し、亡霊は淡々と呪文を唱える。足下に複雑な魔法陣が浮かんだ。黒い霧が次々と奇妙な物に吸い込まれていく。
あの奇妙な物は、黒い霧―――魔力を封じるための器なのだ。
辺りの黒い霧が徐々に薄くなり、黒い靄となる。
「マダ、足リナイ。モット、モット、モット必要ダ……」
しかし、辺りの黒い靄が殆ど無くなっても亡霊は呪文を唱え続けた。魔法陣が輝き、黒い靄と共に“それ”の身体が器に吸い寄せられる。
“それ”は足掻いた。暴れ、偶然にも器を蹴り、その場から慌てて逃げ出す。逃げる際、振り返ると亡霊が器に吸い込まれたように見えた。
もしかしたら、見間違いかも知れない。
“それ”は走り続けた。
黒い靄が消え、辺りに木漏れ日が戻り、木々の葉が風にそよぐ音が聞こえる。しかし、その奥では全てが枯れ果て、真っ黒に染まっていることだろう。
“それ”は逃げ続けた。
***
あれからどれだけ月日が経ったのか。
“それ”は相変わらず矮小な存在だったが、息を潜め生きていく術は学んでいた。
――腹が空いた。
“それ”が思うのは常にそれだけ。
強大な魔物に気づかれぬようおこぼれを漁る。
やがて飢えた魔物が“それ”を見つけ、狩りを始めた。“それ”はひたすら逃げる。あの時のように―――
そして、“それ”は森から飛び出した。背後から魔物が迫る。“それ”は木陰に女を見つけた。金の髪、蒼玉の目を持つ身重の女を。
「―――!」
女は“それ”を追ってきた醜悪な魔物に驚き、その場で気を失った。
ヒュン!
魔法の矢が魔物を貫き、複数の足音が近づく。
そこには、魔物の死骸と意識を失った女が横たわっていた。
“それ”の姿はどこにも無い。




