4ー7.町の記憶 2
「子供はどうなったんですかね。まさか、司祭に食べられてしまったなんてことは……」
博士が手記を読み終え、最初にラング事務官が口を開いた。彼の頭の中で悍ましい光景が繰り広げられる。
聖職者の残した手記は、冒頭は文章として読めたものの、最後は支離滅裂だった。ただ、空腹を訴える言葉と、食人を匂わせる言葉が乱雑な文字で書き連ねられている。
「可能性はあるな。悍ましいが、極限状態だ。非難はできないだろう」
所長の言葉にラング事務官は顔を顰めた。
「心情的には容認できない、したくないですね。残された三人はその後どうなったんでしょう?」
「少なくとも司祭はその場で亡くなっている。白骨化した遺体があったからな。ある意味、死亡が確認されているのは司祭だけとも言っても良い……」
教会に残されていたのは法衣の白骨遺体のみ。他に遺体は見当たらなかったが、既に風化してしまったのかもしれない。司祭の骨が残っていただけでも奇跡的だ。
「まあ、登場人物は、現時点では確実に皆、死んでいるじゃろ。ああ、一人だけ生きている可能性があるか……」
「え?誰です?」
あの手記に確実に生きているといえる人物など存在しただろうか?
「黒い人影……ですか」
所長がポツリと呟いた。
ラング事務官とアンバーの頭に疑問符が浮かぶ。
「ああ、そうじゃ。ブラシカを壊滅させた黒い人影、多分、それは―――」
「は?」
最初アンバーは聞き間違えたのかと思った。
アンバーは、頭の中で博士の言葉を反芻する。
――『ブラシカを壊滅させた黒い人影、多分、それは―――あの嬢ちゃんだろうて』
「は!?何の冗談です?」
意味がわからない。
“嬢ちゃん”、嬢ちゃん”とは誰だ?
博士にとって若い女性は皆、“嬢ちゃん”だ。博士にとって、アンバーも兄の所長もどちらも同じ”坊”なのと同じように。
「そう……でしょうね。考えたくありませんが……」
所長の口から博士を肯定する言葉が零れる。
「なっ!そんな馬鹿なことが、あり得る訳ないじゃないか!何でアイツなんだよ!」
「そうですよ。そんなのおかしいじゃ無いですか!ブラシカの町が滅んだのはどれだけ昔だと思っているんですか!」
ラング事務官がアンバーに同調する。
博士は、少し考え込むと口を開いた。
「そうじゃの……二百年よりは昔、大体三百年ほど昔かの?」
***
「何を……書いて……いる……すか?」
掠れた声が頭上から聞こえ、司祭はビクッと肩を揺らした。
青年が幽鬼のように司祭の目の前にゆらゆらと立っている。教会に逃げ込んでからずっと蹲り、存在感のなかった青年の突然の行動に戸惑いを隠せない。
「……あ、あ、これ……ハ、気ヲ紛らセルた……に、適トに、書き連ねてイル」
口が乾き、上手く発声できない。
司祭は手元の帳面に視線を落とし、書かれた文字にギョッとした。そこには乱れた文字で『腹が減った』と何度も、何度も書かれている。そして、『子供が旨そうだ』とも―――司祭は青年に気づかれぬよう頁を捲る。
「遺書……ですか?い……ですね。僕も…………かな」
「遺ショ?い、いや、そんナ、ものでハなくて……」
この青年は、何と不吉なことを言うのだ。今、あの熊のような男が助けを呼びに行っているではないか。もう直ぐ助けが来る―――否、本当にそうだったか?
司祭がぼんやりと考えていると、いつの間にか帳面は司祭の手元から消え、青年の手の中にあった。
「あっ」
司祭はそれが表に出せないものであったことを思い出し、ギョロッとした目で青年を注視する。
否、大丈夫だ。なに、こんな若造に書かれた内容の意味など分かるものか。
「ん……?これ……は……」
気づかれた!?
「ァァァァァ……」
マズイ、マズイ、マズイ。身の破滅だ!
司祭は咄嗟に側にあった燭台を手にし、青年の頭に打ち付けた。青年が崩れ落ちる。
ああ、何てことだ。直ぐに帳簿を隠さねば。隠さねば。隠さねば……
司祭には、既に冷静な判断力など無かった。
司祭は認識阻害された祭壇裏の壁に触れ、小部屋の扉を探す。小部屋を見つけると裏帳簿を放り込み、念の為認識阻害の術式を重ね掛けようと、左袖口の隠しを探った。司祭が一枚の紙片を取り出す際、袖口から他の紙片がこぼれ落ちる。それに構わず、司祭は手に持った紙片を何枚も戸口に貼り付け、魔力を流した。いくつもの術式が展開する。
ああ、これで安心だ。
ホッとして司祭が振り向くと、その様子を子供が見ていた。
司祭の目がギョロリと動く。元々目立つ司祭の目は、更に落ち窪み狂気が宿って見えた。
「ヒッ」
少年は恐怖のあまり立ちすくむ。
司祭の手が少年に伸びるが、少年の足は石化したように動かない。
「あ……あ……」
司祭の骨張った指が少年を捕らえようとした時、何者かが司祭の足首を掴んだ。頭から血を流した青年が倒れ込みながら司祭の邪魔をする。
「邪魔ヲ……すルナ」
目の前には貴重な食料がある。逃がすわけにはいかない。
「ああ、オ前モ……私ノ…食料を……狙っテ……のダな」
貴重な食料を奪われる訳にいかない。司祭が青年を足蹴にしようと、掴まれていない足を上げた瞬間、天地を失った。
「逃る……ぞ」
青年が逃げるよう少年を促す。呪縛が解けた少年は青年に手を引かれ、教会の戸口へと駆ける。
「待テ、……そノ小僧は、私ノもノダ」
司祭が少年に手を伸ばす。
青年が一枚の紙片に魔力を流す。
「神よ……守りたまえ」
魔法陣の光が青年と少年を包む。
二人の姿が消え、司祭の手が宙を掴んだ。
「転移……魔法……」
司祭はまるで発条が切れた人形のように崩れ落ちた。
青年は転移魔法の護符を隠し持っていたのか?皆を欺いていたのか?
ミシ、ミシミシミシ……
ガタ、ガタ、ガタガタガタ!
バタン!
建物が軋み、音を立て、扉が開き、黒霧が侵入する。
現実が迫って来る。
青年が転移魔法の術式を発動する際、結界を破っていたのだ。
「け…結界ヲ……」
司祭は結界の紙片を取り出そうと袖口隠しを探り、そこに何も無い事に気づく。振り向くと祭壇付近に数枚の紙片が散らばっている。四つん這いで祭壇まで戻り、一枚ずつ紙片を確認するが、目当ての紙片が見つからない。
背後から漆黒の闇が迫る。
「あ、あっタ……」
漸く結界の紙片を一枚見つけ、術式を展開する。
そのまま、落ちている紙片を一枚、一枚、確認する。
「無い、無イ、無イ……」
転移の術式が記された護符はかなり高額であり、そう簡単に入手することはできない。青年が使用した護符は、司祭がばら撒いたものの中に紛れていたものだろう。
転移の術式は魔法陣の中にいるものを別の場所に転移する。ただし、どこに転移するかは誰にも分からない。宙に投げ出されるのか、岩の中か―――高額で取引されるものの、実際に使用したことのある者が殆どいないのはそのためだ。あくまで最終手段なのだ。青年と少年は何処に転移されたのだろうか。
拾い集めた紙片に転移の術式が記されたものは、一枚もなかった。
そして、結界の術式が記された紙片も無かった。あれが最後の結界の紙片だった。
「ウオオオオオォぉぉぉぉぉ……」
司祭は慟哭した。
……
……
……
……
……
あれからどれだけの時間が経ったのだろう。もう魔力も尽き、水魔法も使えない。
喉が渇いた。
腹が空いた。
教会の外に出ていった者はまだ帰らない。
ああ、喉が渇いた。水が欲しい。
女は帰らない。
男も帰らない。
青年も帰ってこない。
子供も帰ってこない。
誰も帰ってこない。
外はどうなっているのだろうか。
司祭は這いながら扉に向かい、結界を越えようと手を伸ばし―――躊躇する。
また手を伸ばし―――
何度も、何度も、何度も―――
怖い。ここを越えるのが恐ろしい。もう結界の紙片はないのだ。
水、水が欲しい。
喉が渇いた。
もう動けない。
何も見えない。
そして、司祭は何も感じなくなった―――




