4ー3.忍び寄る影
いつまでも続くかと思われた暑さも、いつの間にか日射しは穏やかになり、終わりを匂わせていた。とは言え、昼日中はまだまだ夏の残滓が蔓延る。
伯爵家の庭の片隅には、木製の素朴なベンチが置かれており、そこは丁度、木陰となっていた。傍らに敷かれたシートの上には、書籍が何冊も並べられ、ベンチでは黒髪の少女が本に目を落としている。
本日は本の虫干しを兼ねて、庭で文献調査だ。
頁を捲り、封印の器に関する情報が記載されていないか確認する。“器”で無くても良い、内にあるものを何とかできさえすれば―――
少女は焦燥感に駆られ、本の頁を捲る。
”風を起こし、掃除をする魔法”。
頁を捲る。
”猫に犬だと思わせる魔法”。
頁を捲る。
”空中に見えない足場を作る魔法”。
頁を捲る。
”蠱毒―――”
「痛っ」
指先の細い傷口から血が滲み、口に含む。
急に日が陰り、一瞬闇に包まれたように錯覚する。一時、太陽を覆い隠した雲は、ゆっくりと風に乗り、流れていった。
「…………私はこんな所で、何してるんだろう……」
もう時間は残されていない。最後の封印の鎖がこの瞬間にも切れるかもしれない。そうなったら、どうなるのだろう。器である自分を突き破って、皆、黒霧に呑まれてしまうのだろうか。王都も二つ目の月も全部真っ黒に塗り潰されて、そして、全てが壊れてゆく―――
「それもいいかも知れない……」
―――『楽ニナレルネ』
はっと少女は自分が呟いた言葉に驚く。キョロキョロと辺りを窺い、誰もいない事に安堵した。緩やかに吹く風が、膝の上で開かれた本の頁を捲る。少女は顔を上げ、目を閉じた。
――あそこにお爺さんが住んでいた。
それなのに、ナノハナ町も、村も、どこにも無かった。
どうして……
ナノハナ町は―――あの廃墟の町は何?
私の村は、どこ?
―――『ダッテ、―――ジャナイノ』
少女は記憶を遡る。
――王都にはお爺さんの荷馬車に揺られ、やってきた。
じゃあ、どうやってお爺さんの元に?―――お爺さんに助けられた。
その前は―――私は、いつ、村を出たの?
わからない……
帰りたい。
―――『帰レナイ。ナゼナラバ、―――シタノダカラ……』
記憶は闇に閉ざされている。
真っ黒な霧が―――を襲う。
思い出されるのは、黒、黒、黒、黒―――
――もう押さえきれない。
―――『ナゼナラバ、封印ハ失敗シタノダカラ……』
穏やかに風が吹く。
アンバーが伯爵家の庭を訪れると、木陰のベンチで、黒髪の少女が本を開いたまま、こくりこくりと船を漕いでいた。傍らのシートの上には、虫干しされた本があり、何冊かはアンバーにも見覚えがある。内容は、子供向けの荒唐無稽な作り話ばかりだ。洋燈や壺に封じられた魔神、宝石に宿る悪魔、人を吸い込む瓢箪、どれも如何やって閉じ込められたのかの肝心の記述はない。
「こんな所で、何呑気に寝てるんだよ」
アンバーが眠る少女をジッと見つめる。寝息と共に胸が上下する。
もしも彼女が王都に災害を齎すとしたら、自分は彼女を斬る事ができるだろうか?
――『お前は、その彼女が好きなんだろ?』
突然、悪友の言葉が蘇る。
「俺がこいつを……好き?黒い毛玉だったようなこいつを?」
艶やかな黒髪がそよ風にサラサラと揺れる。あのボサボサだったのが嘘のようだ。女伯爵のお下がりの白いワンピースは、襟と裾の部分に細かな刺繍がされており、一端のお嬢様に見えなくもない。
すぅー、すぅーと規則的に寝息が聞こえる。
白い肌には薄らと日焼けの痕が赤く残る。伏せられた 睫毛は思っていたよりも長く、ふっくらとした唇は紅く色づいている。
「いや、ない、ない、ない」
何だか無性に暑く感じるのは、気候のせいだ。そうに決まっている。
サワ、サワ、サワ―――
風が梢を揺らす。
ぼんやりと眺めていると、少女に落ちる影が濃くなった。
否、違う。
少女から黒い靄のようなものが染み出しているのだ。
先程まで穏やかに寝息を立てていた少女の顔が歪む。靄が濃くなるにつれ、光の鎖のようなものが浮かび上がる。封印として施された術式だ。しかし、それも以前に比べ、弱々しく、黒い靄の中で明滅し、苦しみ、藻掻いているように見えた。
やがて、黒い靄が大きく膨らんでいき―――そして、縁取りのぼやけた人の形になった。
「なっ!」
その禍々しさにアンバーが直様抜刀し、影に斬り付ける。影は僅かに歪むものの、手応えがない。影の手がアンバーの頬を撫でた。
「髪の長い……男?」
その影は長い黒髪の男のようにも見えた。
ニイィィィィィィーーー
影は嗤う。
アンバーの身体から力が抜け、ガクンと膝を突いた。
身動きできないアンバーの目の前で、影が少女の首に手を掛け―――
ガアアアアアァ!
黒い靄が長い髪を広げるように飛び散った。
獅子栗鼠が影を爪で切り裂き、喉笛に噛みつく。影は靄となり、薄れていく。獅子栗鼠がべろりと舌で口元を嘗めた。
「喰った……のか?」
魔獣は魔力を喰らう。
生物は皆、魔力を持っており、命を落とすとき、その力は最大限に放出される。これまで、獅子栗鼠はその魔力を糧にしているのだと思っていた。
――違う。
そんなことで十分な魔力を得られる筈はないのだ。
獅子栗鼠はどこで糧を得ていた?
「何故気づかなかった……」
獅子栗鼠は、少女の中から溢れ出す黒い霧を喰らっていたのだ。溢れ出すそれを喰らうことで少女を守っていた。
「この黒い霧は、魔力なのか?」
少女の瞼が震え黒い瞳が覗く。
「シシィ……」
「くぅん」
少女に甘える獅子栗鼠がチラリとアンバーに視線を向ける。アンバーには、獅子栗鼠が勝ち誇っているように見えた。
アンバーの剣は虚空を斬り、獅子栗鼠の牙はそれを喰らう。
自分は何と無力なのだろう―――
「なあ、お前、俺が“魔の誓約”……主従関係を結んでやるよ……」
アンバーが少女に言った。
少女の中にあるモノの悍ましさを知っているのは、多分、自分だけなのだ。




