2−3.ある朝の情景
窓から降り注ぐ光に右手をかざすと逆光の中に五本指の輪郭が浮かび上がる。
「ああ、良かったちゃんとある」
安堵と共に少女から言葉が溢れた。何だか恐ろしい夢を見ていたような気がする。
石積みの剥き出しの壁に土間、手の届かない高い位置に格子の填まった小さな窓が一つ。部屋には硬く寝心地の悪い寝台に毛布、小さな椅子に洗面器と水差し、何方かと言うと懲罰房と言った方が相応しい。
「くうぃ~ん」
傍の魔獣―――獅子栗鼠が少女を気遣うように甘えた声を出す。少女は寝台ではなく、獅子栗鼠に包まれてここ数日は眠っていた。
「ありがとう。守っていてくれたんだね」
「くぅん」
その厳つい体躯と裏腹に獅子栗鼠が可愛らしく鼻を鳴らす。少女がふわふわの毛並みに顔を埋めた。
「ふふっ、獣くさい」
獅子栗鼠が少女に顔を寄せる。頭を撫でてやると額の辺りで硬い物が触れた。角が折れた痕だ。これでは十二分に力を発揮できないだろう。少女が獅子栗鼠を従属できたのは単なる幸運だったのかも知れない。
獅子栗鼠は獅子に姿形が似ているが、獅子よりも大きく、体長は三メートル程度であろうか。毛並みは獅子よりも若干長く白っぽい。よくこの小さな部屋に入ったものだと思う。当然部屋の殆どを占拠している。
いつまでも獅子栗鼠に包まれていたいけれど、流石にそろそろ準備しなくてはならない。
「うう……さあ、支度しよう……でももう少し……」
恐るべし、もふもふの誘惑。
暫し葛藤の後、ノロノロと身体を起こす。洗面器に水差しの水を入れ、顔を洗う。フリル一杯のペティコート、それからスカート部分に贅沢にギャザーの寄ったワンピースに袖を通す。日常で着るには勿体無いがこれしか持っていないのだ。選択肢はない。正に一張羅である。
そして、髪に櫛を入れれば出来上がり。
少女は粗末な木製のドアを開け、部屋を出た。獅子栗鼠がドアに閊えながら少女の後に続く。
朝日が昇ってからまだ間もなく、空気はひんやりとしていた。辺りはまだ静寂に包まれ、街が起き出すにはもう暫く掛かりそうだ。
「よう、迎えに来たぞ」
ラズが教会側の出入り口で待ち構えていた。仁王立ちで無駄に偉そうだ。
「おい、……それ連れて行くのかよ」
少女の側には獅子栗鼠が鎮座していた。座った状態で少女の背丈以上ある。馬房の馬たちは、獅子栗鼠の気配に落ち着かない様子を見せている。
「うん、一緒に行く」
「まて、いくら早朝でも魔獣が現れたら騒ぎになるぞ」
「大丈夫、良い子だよ。乗せてくれるって」
「良い子って……え、乗せ……?」
獅子栗鼠がラズの上着の襟首部分を咥えると高く上に放り投げる。
「わ、わわっーっ」
ラズは獅子栗鼠の背中……ほぼ臀部に後ろ向きにしがみ付き、それから少女がスカートの裾を翻し獅子栗鼠に跨った。ちょうどラズと背中合わせになる。そして、獅子栗鼠が地を蹴り、軽々と五、六階もの高さのある建物の屋根に跳び上がった。
「わわわわわわわーーーーっ」
「確か、隊舎には国と軍の旗が立っているんだよね」
獅子栗鼠は翻る旗へ向け、朝日に浮かぶ屋根の上を飛ぶように駆けて行った。
そして、その後ろをラズの悲鳴が追いかけて行く―――
「わわわわわわわーーーーっ、助けてーーーっ」
***
王都師団の駐屯地にはこの国の旗と軍の旗、それから師団の旗がはためいていた。早朝の無風状態から少し風が出てきたようだ。駐屯地は高い煉瓦塀にぐるりと囲まれており、寝かせた直方体に三角屋根を乗せた形の二階建ての隊舎が何棟も並んでいる。
獅子栗鼠は門番が立哨する門扉を無視し、塀を飛び越え敷地内に着地した。
「ふぎゃ」
ふらふらになりながらラズが獅子栗鼠から地上に降りる―――と言うより落ちる。
「あー痛ってぇ……あ、……」
「おー、中々派手な登場だな」
倒れ込んだラズの視界に靴先が入る。隊舎では三名の人物が待ち構えていた。女性にしては筋肉質で大柄なネフェリン、頬の傷が極悪人のような印象を与える筋骨隆々とした大男のカンクリ、ヒョロッとしてどこか中性的な印象のあるカルシラ、ラズが所属する小隊の三名だ。
「あ、こいつは、えーっと、確か……ディー。で、こっちがネフェリン姐さんに、この怖い顔がカンクリ、男か女か分かんねぇのがカルシラ」
「怖い顔って何だよ。おう、よろしくな、嬢ちゃん。俺は怖くないぞ」
「男か女か分からないって、相変わらず君は失礼だな。少しは目上に対する態度ってものを学んだ方がいいよ」
男性陣から苦情が出るが、無視。
少女が頭をペコリと下げる。ついでに獅子栗鼠が『ガウッ』とひと鳴き。
「おお、これが魔獣かあ……結構大きいな。巨大な獅子といったところか?……うおっ」
カンクリが不用意に獅子栗鼠に触れようとして、低い唸り声で威嚇される。
「馬鹿だね。勝手に触ろうとするからだよ」
ラズがキョロキョロと見回す。見知った顔が二人程足りない。
「あれ?隊長と副長は?」
「アウインとノゼアンなら会議に呼ばれて居るぞ。これから暫く国教会付近の警備を強化するとかナントカで……」
「ああ、そう、国教会付近の警備の強化とかナントカね……朝からご苦労なこって」
ラズには何となくその理由に身に覚えがある。しかし、間接的原因であって直接的原因ではない。直接的原因は……ラズの視線が獅子栗鼠に向かう。
「カンクリ、一応上官なんだからアウイン隊長とノゼアン副長って呼ばないと駄目だろ」
「こんな傭兵崩れの寄せ集め小隊だ。誰も気にしねえよ。それよりだ」
カンクリがネフェリンに目線で合図を送る。
「はいはい、さあ、嬢ちゃん、これに着替えて」
「はい?」
ネフェリンが少女に畳まれた隊服一式を手渡す。襟の部分に名前の書かれたタグが―――
「ん、待て待て、これって俺の代えの隊服じゃん」
「大丈夫、洗濯済みだから、……そんなに臭くないはず」
「いやいや、そういうことじゃなくて」
ラズは、自分は臭くないと主張―――ではなく、自分の隊服がここにあり、少女に差し出されていることを問うた。
「だって、その上等な服を汚す訳にいかないだろ。さあ、着替えた、着替えた。ディー、こっちにおいで」
「別に俺のじゃなくても同じ女なんだし、姐さんのでいいじゃないか」
「あんたの体型が一番近いだろ」
「いや……でも、……女の子だし……良い……のか?」
ラズがブチブチ言っている間に少女はネフェリンに拉致されるように隊舎内へと連れて行かれた。誰もネフェリン姐さんには逆らえないのだ。
数刻の後、隊服に身を包んだ少女が現れた。多少だぶついているが行動の阻害にはならないだろう。
そして、少女の足下を見て、ラズは膝から崩れ落ちた。
――俺の方が身長高いのに…………ズボンの裾上げが無い………………