第八話・アリスという少女
図書館へ向かう道すがら、城が視界に入って足を止めた。大通りの行き止まり。主塔が高くそびえる城の周囲には水堀が掘られ、巨大な橋で街と繋がっている。
あいつ、あんな所で働いてるのか。アリサが宮廷魔道士として働く様子を思い浮かべようとしたが、城の内部も、部下に指示を飛ばすアリサも、どちらも上手く想像できなかったのでやめた。
図書館は今日も静かだ。俺は中庭の見える席を確保して、この前は悔しくも読み解けなかった絵本をズラリと並べた。リベンジである。……と、その時後ろから声をかけられた。
「魔術の勉強ですか?」
驚いて振り向くと、そこには少女が立っていた。
銀色の髪と深緑の瞳は、初めて会った日のアリサを思い出す。肩につくかつかないかという辺りで切り揃えられた髪は、毛先がわずかばかり内側に巻かれ、耳の上を結び目にして、服と同じ藍色のリボンが結ばれていた。
「……俺、マコトって言います。え、っと、君は?」
「私は……アリス。アリス、です」
少女は少し考えてからそう名乗った。
「……私、魔法使いなんです。魔術の勉強をされてるなら、きっとお役に立てると思いますよ」
少女はふわりと微笑む。
「でもそんな、初対面の人にご迷惑を……」
「私から声をかけたんですから、お気になさらないでください。例えばこの――。……ここでは場所が悪いので、中庭でお話ししませんか?」
淑やかでありながら意外に強引な少女に導かれ、つい言われるがまま外に出る。中庭のベンチに並んで腰を下ろした。
「急にごめんなさい。実はこの間も図書館で見かけたので……気になってたんです」
「あっ、いや、それは恥ずかしいな……」
絵本を食い入るように読む姿を見られていたのかと思うと顔が熱くなる。
「魔法を使うには、魔力と素質と、知識と想像力が必要なんです」
「なんとなくそんな気はしてました。でも、素質はともかく、魔力があるかないかって、どうやったらわかるんですか?」
「手を貸してください」
アリスが手の平を上に向けて差し出してきた。握れということなのだろう。
まともに女子に触れるのは初めてで、自然と鼓動が速くなる。ふと見ると、アリスも緊張しているのか、頬がほんのり色付き、手元をじっと見つめたまま唇を噛んでいた。
相手も緊張しているとわかると逆に冷静になるものだ。いくらか落ち着きを取り戻した俺は、これ以上相手を焦らせてはいけないと、触れかけた指先を引き寄せるようにしてぐっと握りしめた。驚いたのかアリスの肩が跳ねる。
「これでいいですか」
「えっ、えぇ、……えぇ、大丈夫です。これで。……では、あの、いきますね……?」
アリスが目を閉じ、握りあった手に額を近づける。
身体の中心にあったものが、腕を通り、指先に向かって流れていくような感覚。手の平全体がじんわりと温かくなった。アリスが息を吐き、目を開ける。
「……終わりました。魔術学校では一番最初にこれを行なって、魔力の流れを作るんです」
「なんか、不思議な感覚でした。温感療法? みたいな……」
「オンカン……? というのはわかりませんが、……あの、もう、大丈夫なので……」
アリスが顔を赤くする。俺は握ったままだった手を慌てて離した。緊張が追いついたのか、今になって手汗が出てくる。握っている時じゃなくて本当によかった。
アリスは魔法について教えてくれた。近代魔法によれば、魔術の系統は全部で七つの作用に分けられるという。赤・青・黄・緑・昼・夜、そして無だ。
「無、って、なんか乱暴な気がするんですけど、何なんですか?」
「赤魔法は推進力。青魔法は性質変化。黄魔法は形態変化。緑魔法は浮力。昼魔法が拡散で、夜魔法は凝縮。……無、というのはその名前の通り、この六つのどれにも当てはまらない作用の総称です」
アリスが言うには、そのそれぞれの作用を組み合わせて現象を引き起こす事を魔術と呼ぶそうだ。このことから、魔法はしばしば絵画に喩えられるという。
「たとえば、空を飛ぶのには、緑魔法で体を宙に浮かせ、赤魔法の推進力で目的の方向に進む必要があります。赤と緑、この二つの絵の具で描かれた絵を、飛行魔法と呼ぶんです。飛んでいる間もそれぞれの出力を調整しなければならないので、それなりに高度な魔法なんですよ」
「……あ、だからどの本にもそんなシーンが出てくるんですね。ほら、これとか……」
俺は先程の絵本を開きページをめくる。
「ほら、こっちの本は絵ですけど、こっちの本だと編み物をしているシーンがあって……なるほど、そういう事だったのか……」
俺の手元を覗き込んでいたアリスは、突然俺の手から本を取り上げた。思いがけない動作にしばし呆気に取られる。
「……この本は、ここの図書館で……?」
「え、えぇ、はい。……あの、そのページ、なんかありました……?」
アリスが見つめていたのは、物語のクライマックス。魔法使いが赤い魔法を放つページだ。描かれた魔法陣を指でなぞる。
「……これ、古代魔術だ……。誰が? 絵本なら検閲を通るって……でも記述が不完全だわ。これじゃ何も……ただの偶然なの……?」
突然人が変わったように独り言を呟く少女に、驚いた俺は何も言えず待つことしか出来なかった。
アリスは俺の存在を思い出したのか、小さく咳払いをして本を閉じた。
「ごめんなさい。少し用事ができたので、今日は失礼しますね。もし機会があれば、また……」
立ち上がり、思い出したように振り向いた少女は、顔の前で両手を合わせ、軽い口調でこう言った。
「……私、その本少しだけ汚してしまったみたいです。二人だけの秘密にしておいてくださいね」
アリスが立ち去った後、残された俺は先程の本を開く。あのページにあったはずの魔法陣は、わずかな跡も残さず綺麗に消えていた。